第十四章 第一号棟
高速艇が入り江へ近づくにつれ、詩乃は船べりの向こうに見える木々を目で追っていた。
沖へ出た時には小さくなった島影が、今は海を背にして高く立っている。枝の隙間から、和真のテントがあるはずの斜面までは見えなかった。けれど、波の音と湿った土の匂いが近づくにつれて、数日前までそこで過ごしていた時間が少しずつ戻ってくる。
船が浅瀬へ寄せられ、機関の音が落ちた。
レイナ「着いたね」
レイナは座席の下へ押し込んでいた足を伸ばし、固まった肩を回した。詩乃も立ち上がったが、船内は荷物で狭い。寝具の袋、食料の箱、工具を入れた防水バッグが、座席の間と足元を埋めている。
港で積み込んだ時には、これで七人が島に戻ってすぐ眠れると思った。実際に降ろす段になると、それぞれの袋が急に大きく見えた。
和真「乃亜、先に降りよう。足、気をつけて」
乃亜「はい」
和真が船から手を伸ばし、岸側ではレイナが乃亜の腕を支えた。乃亜は傷めていない方の足から砂地へ降り、少し離れた岩へ腰を下ろす。詩乃はノートと飲み物の袋を渡した。
詩乃「無理に立たなくていいからね。荷物は、まずここへ集めましょう」
乃亜「ボク、運んだ物を書いておきます。何がどこにあるか、あとで分からなくなりそうなので」
詩乃「お願い」
乃亜がノートを開く横へ、詩乃は小さな保冷バッグを置いた。水のボトルを一本だけ出し、日陰になる岩の下へ寄せる。
最初に運んだのは、寝具とテントだった。濡らしたくない物を先に岸へ下ろし、それから食料、衣類、種、工具の順に並べていく。
船とテントの間を何度も往復した。途中までは、どの袋に何が入っているか覚えていられたが、食料箱を一つ運び終えた頃には、同じような防水袋が岸にもテントの前にも並んでいた。
詩乃は食料箱を抱えたまま、途中の木の根元で一度足を止めた。腕へ食い込んだ持ち手を持ち直すと、後ろからレイナが近づいてくる。
レイナ「それ、あたし持つよ」
詩乃「大丈夫。あと少しだから」
レイナ「そのあと少しを、何回やるの」
言われて、詩乃は箱を下ろした。レイナが反対側の持ち手を取る。
詩乃「じゃあ、一緒にお願い」
レイナ「最初からそうして」
二人で運ぶと、箱は思ったより早くテントまで着いた。地面へ下ろした時には、詩乃の指が軽く痺れていた。
元からあった和真のテントは、出発前と変わらない場所に立っていた。入口のそばには焚き火台があり、傍らには空にした水容器が伏せてある。ここで乃亜の足を椅子へ乗せ、容器を並べて食事をした。
その周囲へ、新しく買った二張りのテントの袋と、折り畳まれたタープが運び込まれていった。
荷物をすべて移し終える頃には、空はもう白さを失い始めていた。
和真「今日は、寝る場所を作るところまでにしよう。細かい整理は明日でもできる」
詩乃「そうですね。食事も、すぐ作れるものにします」
レイナが、新しいテントの袋を地面へ寝かせた。
レイナ「じゃ、まずこれ広げよう。どこが平ら?」
和真「こっちの木の根が少ないところかな。石は少しどける」
詩乃も手袋をはめ、近くの枝と小石を拾い始めた。地面を均すと言っても、家の床のようにはならない。靴で土を踏み、寝た時に背中へ当たりそうな石を取り除く。それだけでも、七人が横になる場所を作るには時間がかかった。
美波は広げられたテントの布を見下ろし、説明書と縫い目を何度も見比べている。
美波「……こっち、少し下がってる。雨が来たら、水が寄るかもしれない」
詩乃も美波の指した地面へ目を向けた。草の下がわずかに低く、落ち葉が溜まっている。
詩乃「もう少し木の方へ寄せる?」
美波「うん。その方がいいと思う」
和真とレイナがテントの端を持ち上げ、美波が位置を直す。詩乃は説明書の端を押さえ、乃亜は少し離れた椅子から、必要なペグを袋から出して渡した。
乃亜「これ、長い方ですよね」
美波「うん。ありがとう」
一本目のポールが通り、布が弧を描いて持ち上がる。反対側へ回った和真が受け取ると、潰れていたテントがようやく形になった。
詩乃はその入口を見てから、もう一張りの袋へ目を移した。日が沈み切る前に、あと一つ立てなければならない。
レイナが先に気づいたように、両手を腰へ当てた。
レイナ「まだ一個あるんだよね」
詩乃「あるね」
レイナ「よし。暗くなる前に終わらせよう」
詩乃は保冷バッグから水を取り出し、皆へ回した。冷えてはいないが、喉を通るだけで少し息が整う。
夕日の色が、立て終えた一張り目の布へ落ちていた。テントの影はまだ短い。もう一張りとタープまで済ませるには、ゆっくり休んでいる時間はなかった。
最初の時より、二張り目では手が早く動いた。どこにポールを置いたか、ペグの袋は誰が持っているか、もう尋ねなくても分かる。
詩乃は説明書を持つ代わりに、布の端が土へ触れないよう持ち上げた。レイナがポールを押し込み、美波が反対側で先端の位置を見ている。和真が張り綱を引くと、二張り目も夕暮れの中で形になった。
続けて三つのテントの間へタープを張る。食料と調理道具を置き、雨が降った時にも火の近くで手を動かせるようにするためだった。
張り綱を結び終えた時には、木々の隙間に残っていた夕日が細くなっていた。
和真の元からのテントには、和真とリリスが入る。新しい大きめのテントには詩乃、乃亜、レイナ。もう一張りには美波と理央が寝ることになった。
寝具をそれぞれの入口へ運び、マットを敷いて、寝袋を広げる。
詩乃は自分のマットの上へ鞄を置き、その脇に水のボトルを立てた。けれど、食料箱はまだタープの端に積まれている。衣類の袋も、種の箱も、置き場が決まったわけではなかった。
*
夕食は、乾麺と缶詰、それから本土で買ったキャベツを使った簡単なものにした。
鍋を火へかけると、湯気がタープの下に溜まり、詩乃の額へ汗が戻ってくる。風が抜ける場所では火が揺れ、弱めれば湯がなかなか沸かない。レイナが切ったキャベツを鍋へ入れると、縁ぎりぎりまで嵩が増した。
レイナ「七人分って、鍋が小さく見えるね」
詩乃「まだ慣れてないだけ。次は、もう少し分けて作る」
詩乃は菜箸でキャベツを沈めながら答えた。民宿の台所では、作業台へ食材を並べられた。ここでは包丁を置く前に、手の届く場所にある物を避けなければならない。
食器を置く場所も、食べ終えた物を寄せる場所も足りない。それでも、出来上がった鍋を囲んで食べ始めると、皆の声が少しずつ戻ってきた。
乃亜「おいしいです。外で食べると、少し違いますね」
詩乃「よかった。今日は、これで終わりにしようと思ってたから」
理央「食べたら、道具はすぐ片付けて。夜露に濡らしたくない物が多いわ」
美波「食料も。明日の朝、虫が寄るかもしれない」
詩乃はタープの端にある箱を見た。蓋は閉まっているが、土の上へ直接置いた部分は湿り始めている。明日になれば、もう少し考えなければならない。
食後、使った食器を拭き、食料の箱をタープの内側へ寄せた。工具の袋はさらに奥へ入れ、寝具の近くには置かない。動くたびに誰かの膝や鞄へ触れ、譲り合うだけで時間が過ぎていく。
詩乃が自分たちのテントへ入った時には、外はもう真っ暗だった。
入口側には乃亜の荷物を寄せ、奥に三人分の寝袋を並べる。以前のテントより広いはずなのに、着替えの袋と靴を置くと、通る場所はすぐ細くなった。
レイナ「靴、ここでいい?」
詩乃「うん。入口を塞がないようにしておこう」
乃亜「ボクの荷物、もう少し奥へ寄せますね」
詩乃「足に当たらない?」
乃亜「大丈夫です。ゆっくりなら」
詩乃は乃亜の寝袋の脇へ、丸めたタオルを置いた。足を少し高くした方が楽だと聞いていたからだ。
乃亜はタオルの上へ足を乗せ直した。
乃亜「これで大丈夫そうです」
詩乃も寝袋へ入った。地面の硬さはマット越しにも残るが、眠れないほどではない。外では、遅くまで荷物を片付けているらしい音がする。タープの布が風を受け、そのたびに低く鳴った。
明日の朝に使う鍋は、箱の横へ置いた。食料の蓋も閉めたはずだ。確かめに出ようかと思って寝返りを打つと、レイナが眠そうな声を出した。
レイナ「詩乃、まだ起きてる?」
詩乃「うん」
レイナ「おやすみ」
詩乃「おやすみ」
その後、乃亜の小さな返事が続いた。詩乃は寝袋の口を少し引き上げ、目を閉じた。
*
朝、詩乃はテントの内側に触れた冷たさで目を覚ました。
入口付近の布には細かな水滴がついている。寝袋の端も、夜のうちに寄せた荷物に触れていたところだけ湿っていた。詩乃は眼鏡をかけ、乃亜とレイナを起こさないようにファスナーを開けた。
外へ出ると、草の先まで露に濡れていた。
タープの下に置いた食料箱の底は、夜の湿気を吸った土で薄く汚れている。詩乃が持ち上げると、箱の脇を小さな蟻が何匹か歩いていた。蓋の隙間へ入り込んではいないが、そこに置いたまま朝食を作る気にはなれなかった。
箱を乾いた場所へ移し、濡れた底を布で拭く。布巾は昨日洗ったものではない。それでも、朝食を作る前から汚れていくのが分かった。
美波「服、濡れてる?」
振り向くと、美波がタープの外に立っていた。手には、昨夜脱いだ上着がある。裾の方が少し湿っている。
詩乃「入口側だけ。寝袋には入っていないと思う」
美波「私のところも。テントの壁に触れてた袋が、少し濡れた」
美波は上着を広げ、湿った部分へ指先を当てた。
美波「乾かす場所、足りないね」
詩乃「そうだね。今日は晴れそうだけど、ずっと外へ出しておくわけにもいかないし」
日が当たる場所へ洗濯物を広げれば、食料を置く場所が減る。食料をタープの内側へ寄せれば、朝食を作る場所が狭くなる。詩乃はパンの袋を出すため、箱の上に置いていた食器をどけた。
朝食の準備をしているうちに、理央が鞄を抱えてタープの下へ来た。中には紙と端末が入っている。
理央「記録を確認したいんだけど、ここを使っていい?」
詩乃「もちろん。でも、食べ終わるまで少し待ってもらえる?」
理央「分かったわ」
理央は鞄を抱えたまま、空いた椅子へ座った。昨日は荷物を置ければ十分だと思っていた。その荷物を使い始めると、今度は誰かが座る場所も、紙を広げる場所も足りなくなる。
食べ始めてから、レイナがタープの端から外を見た。
レイナ「夜はそこまで寒くなかったけど、朝はちょっと冷えたね」
詩乃「湿気もあるからかも。身体を拭いたタオルも、まだ乾いてない」
レイナ「着替えも洗いたいんだけどな。これ、今日着たらもう一枚しかないし」
詩乃も自分の袋へ目を向けた。持ってきた衣類は多くない。洗って干すことまで考えれば、テントとタープだけで暮らし続けるには、置く物が多すぎた。
美波「地面も。箱を何度も動かすと、底が汚れる」
美波の視線の先では、拭いたばかりの食料箱に、また土がつき始めていた。
美波「雨が降ったら、もっと困ると思う」
詩乃は返事をする前に、リリスへ目を向けた。彼女と出会った施設には、壁も床もあった。今いる場所とは違い、物を濡らさずに置けたはずだった。
詩乃「リリス。あなたと会った施設のほかに、島には建物が残っていると思う?」
リリス「可能性はあります。ただ、島内すべての施設配置は把握していません」
レイナ「そっか。ここから近い場所も、分からないんだ」
リリス「はい。未確認です」
レイナはパンの袋を畳み、空になった器を置いた。
レイナ「だったら、近いところを見てみようよ。水場も、みんなで一回ちゃんと見ておきたいし」
詩乃「そうね。畑にできそうな場所も、まだきちんとは見ていないから」
乃亜「ボクも行きたいです」
乃亜は自分の足を見下ろしてから、詩乃の方を見た。
乃亜「段差はまだ痛いです。でも、ゆっくりなら歩けます」
詩乃「痛みが強くなったら、すぐ戻ろう」
和真「水場へ下りるところは滑る。そこは手を貸すよ。遠くまで行くつもりはない」
乃亜「はい。重い物は持ちません」
食器を片付け、詩乃は水とタオルだけを鞄へ入れた。戻った時に使う物を減らせば、朝より少しはタープの下も広くなる。
*
水場へ向かう道には、昨日荷物を運んだ時の靴跡が残っていた。
レイナが先を歩き、倒木の手前で手を上げる。
レイナ「こっち。跨がなくても通れるよ」
幹の脇には、身体を横にすれば抜けられる幅があった。詩乃は乃亜が枝へ足を引っかけないように手を添え、その後ろを通る。昨日は箱を抱えていたため、足元以外を見る余裕がなかった。今は斜面の下にある草の色や、木の根の伸び方まで目に入る。
しばらく進むと、葉の擦れる音に混じって水音が聞こえ始めた。
レイナ「この先。下りるところだけ、気をつけて」
道の脇には、二つに分かれた太い幹がある。その少し先で、地面は水場の方へ落ち込んでいた。昨日の荷下ろしで踏み固められた場所もあるが、端は露を含んで滑りやすい。
詩乃は乃亜の足元を見ながら、ゆっくり斜面を下りた。
石の間を流れる水は、思っていたより細かった。近づくと冷たさが伝わってくる。ここで汲んだ水を、和真とレイナが何度も運んでくれたのだと、詩乃はようやく流れの傾きまで見て理解した。
乃亜「この石の間から、汲んだんですか?」
和真「うん。底に容器をつけると泥が入るから、流れてる方から」
乃亜はカメラを取り出し、石と水の落ちる場所を写した。それから詩乃へ渡す。
乃亜「下りるところも、お願いできますか。幹が入るように」
詩乃「この辺りでいい?」
乃亜「はい。あとで初めて来る人にも分かると思います」
詩乃は画面の中に二つの幹と、斜面の下へ続く足場を入れた。撮り終えてから、今度は自分の目で道を見上げる。
空の容器なら下りられる。水を入れた容器を持てば、戻る時にはもっと慎重になる。洗い物や着替えまで考えれば、ここを毎日何度も往復することになるのだろう。
水場から上がり、平らな場所で乃亜の足を休ませた時、乃亜は道の脇に生えた草を眺めた。
乃亜「ここは、日があまり当たらないですね」
詩乃「畑には向かない?」
乃亜「分かりません。でも、比べるために見ておきたいです。もう少し開けた場所があるといいんですけど」
乃亜はノートへ、二つに分かれた幹と、水場までの斜面を簡単に書き留めた。
テントへ戻る途中、詩乃は日を受けて乾き始めたタオルへ触れた。朝の冷たさは抜けていたが、まだ完全には乾いていない。濡れた服や食料箱のことを考えると、歩ける範囲で見ておきたい場所はいくつもあった。
和真が海と反対側の斜面を指した。
和真「こっちは、まだあまり見てないんだ」
そこはテントよりさらに高い方へ続いていた。水場や入り江へ向かう時には通らなかった側で、木々が重なっているだけに見える。
レイナ「行けるところまでだね。あたし、前を見る」
レイナが枝を避けながら先へ進む。詩乃は乃亜の歩幅に合わせ、根の出たところでは足元を示した。斜面を上がるにつれて、背後にあったタープの端が幹の間へ隠れていく。
近いはずなのに、立つ場所を少し変えるだけで、テント拠点はもう見えなかった。
道の脇に小さな実がついた草があった。乃亜が葉と一緒に写真を撮る。名前の分からない物には誰も手を伸ばさず、そのまま進んだ。
枝を避けようと顔を上げた時、前を歩くレイナの背中に、いつもより明るい光が当たっているのが見えた。
レイナ「ねぇ、なんかある!」
詩乃は足を止めた。
レイナは木立の先を指したまま、こちらを振り返っている。急いで走り出すことはせず、近づいてくる皆を待っていた。
その横まで行くと、詩乃にも見えた。
森の中にしては、そこだけ木々が途切れている。幹と幹の間に、広く明るい空間が続いていた。
乃亜がカメラを下ろす。詩乃は目の前の枝をそっと押し退けた。
開けた広場の奥に、まっすぐな屋根の縁が見える。
草木に埋もれた廃墟ではなかった。枝の隙間からのぞく壁は、森の中に残された人工物の形を、まだ保っている。
建物だった。




