第十三章 新しい暮らしの乾杯
玄関に並べた袋の口を一つずつ閉めながら、和真は翌朝のことを考えていた。
港に置いた荷物は、寝具、食料、テント、工具、種。民宿へ戻した物は、大型電源装置と空の収納箱、それから今夜と明朝に使う食材だった。朝になってから迷わないよう、手元に置く鞄だけを廊下の隅へ寄せる。
美波が工具の袋を持ってきて、その横へしゃがんだ。
「……これ、シートと一緒に包む。朝、忘れない場所に置いていいですか」
「うん。俺の鞄の隣なら、船に運ぶ時に分かると思う」
美波は袋を下ろす前に底の布を引き直し、金属が床へ当たらないようそっと置いた。廊下の奥には、理央が船へ載せないと決めた大型電源装置が残っている。
「これは、こっちでいいんだよな」
「……ん。水、拭いてからしまう」
美波は電源装置の脇にあった乾いた布を取り、工具の袋についた水滴を拭き始めた。
和室の入口では、乃亜がノートを膝に広げている。船へ置いた物と民宿に戻した物を、昨日の記録へ書き足していた。
「工具は玄関。電源と空の箱は残すって書いておきます」
「頼む。明日、俺だけで見たら何か忘れそうだから」
「ボクも確認します。港の分も、今日のうちに書いたので」
乃亜は最後の行を書き終え、日付を見た。
「……まだ今日なんですね」
朝、この部屋で寝具を畳んでいたことが、ずいぶん前に思える。店を回り、荷物を選び、車と船の間を何度も往復した。和真は指を曲げる。持ち手の食い込んだ跡が、まだ掌に残っていた。
「足はどう?」
「座ってる分には平気です。歩く時は、まだ少し」
「夕飯の後、冷やそう。明日は船に乗るだけで、歩くのは少なくて済むと思う」
「はい」
台所の方で、袋を開ける音がした。詩乃が食材を調理台へ並べている。
「何か運ぶ?」
「お米の袋をお願いします。今夜使った分も、明日持っていきたいので」
和真が立ち上がるより先に、レイナが袋を抱えた。
「これだよね。和真はそのまま片付けちゃって」
「重いから、半分持つよ」
「平気。台所までだし」
レイナが袋を抱え直して廊下を進む。その後ろを、充電器を持った理央が通った。
「朝使う分は、まだつないでおくわ。出る時に抜くから」
「分かった」
和真は玄関の袋を見下ろした。昨日まで、ここに何を入れるか決めていなかった。今は置き場まで決まっている。
台所から湯気が上がり始めた。
*
詩乃は鍋の蓋を持ち上げ、湯気が顔にかかる前に少し離れた。じゃがいもへ箸を刺す。あと少しで火が通りそうだった。
隣のフライパンには、キャベツと人参が山になっている。七人分を一度に炒めようとしたのは無理があった。下から返すたびに葉が縁を越えそうになり、詩乃は空いた皿へ半分を戻した。
「分けて焼くの?」
レイナが横から覗いた。
「うん。このままだと、下だけ焦げそう」
「皿、持ってくる」
「大きいのがあったらお願い」
レイナが居間へ向かうと、美波が洗った人参の残りを差し出した。
「これ、明日も使いますか」
「朝はもっと簡単にするつもり。残りは島へ持っていこうと思ってる」
「じゃあ、水を拭いてからしまう」
美波は人参を布巾の上へ並べた。詩乃はフライパンの野菜を返し、火を弱める。醤油を回しかけると、台所に香りが広がった。
昼は、荷物の隙間で食べられる物を口へ入れただけだった。自分も空腹だったことに気づき、詩乃は一口分を小皿へ取り分けた。
「詩乃、お箸はこっちに置いていい?」
居間から乃亜の声がする。
「うん。取り皿の横にお願い」
「お椀は七つあったよ。大きさ、ばらばらだけど」
「それで大丈夫」
炊事場から見える座卓の端に、色の違う椀が並んでいた。乃亜のそばでは、リリスが布巾で拭いた盆を置いている。
「主、鍋を置く場所はこちらでよろしいでしょうか」
「うん。そこにお願い」
和真の声が聞こえたあと、鍋が卓へ運ばれる音がした。詩乃は二度目の野菜を炒め、皿へ盛ってから手を洗う。
自宅の台所にも、使いかけの物が残っていた。帰れば誰かが続きをしているような置かれ方だった。今、あそこへ戻っても、同じ物が同じ場所にあるのだろうか。
「詩乃、ごはんよそっていい?」
レイナの声に、詩乃は蛇口を閉めた。
「お願い。最初は少なめにして、おかわりできるようにしよう」
居間へ入ると、理央が膝の上に広げていた紙を鞄へしまった。美波が空いた席の前にコップを置く。
「詩乃さんの、ここでいいですか」
「うん。ありがとう」
湯気の立つ椀を前にして、詩乃はようやく腰を下ろした。
「ねえ、乾杯しない?」
レイナがコップを持ち上げた。
詩乃は箸へ伸ばしかけた手を止める。レイナはすぐには続けず、茶の入ったコップを見ていた。
「今日、みんな動いたし。昨日も、その前もさ。ちゃんと、お疲れさまって言ってなかったなと思って」
家族が見つかったわけではない。明日、島へ渡ったところで、何かが解決するわけでもなかった。
それでも、目の前のご飯が冷めるまで、答えを待っていたくはない。
「うん。レイナも、お疲れさま」
「詩乃もね。ごはん、ありがとう」
「私だけじゃないよ。みんな手伝ってくれたから」
和真がコップを取ると、美波も両手で持ち上げた。詩乃は届くところへ自分のコップを差し出す。
「みんな、お疲れさま」
重なる声の中で、コップの縁が軽く触れた。
「主も、お疲れさまです」
リリスの声に、和真が短く笑う。
「リリスもね」
茶を一口飲むと、乾いていた喉をゆっくり通っていった。レイナはすぐに箸を持っていた。
「いただきます」
詩乃も手を合わせ、椀を持ち上げる。味噌汁はまだ熱く、急いで飲むと舌に残った。
「こういうの、島でも食べたいね」
レイナが言った。
「野菜を使えるうちは作れると思う。でも、この量を炒めるなら、火を使う場所をもう少し広くしたいかな」
和真が、卓の端に並んだ皿を見た。
「着いたら、テントを張る場所と一緒に考えよう」
乃亜は野菜の皿から人参を一つ取った。
「育てられるようになるまでは、持ってこないといけないですね」
「すぐに畑の分だけで食べるのは難しいと思うよ」
「うん。でも、自分で育てたのを食べてみたいなって」
「その時は、何を作るか一緒に考えよう」
乃亜は小さく頷き、ご飯を口へ運んだ。
詩乃も箸を取った。明日の食事なら、持っている物で何を作れるか考えられる。その先のことには、まだ日付をつけられなかった。
*
食器を洗い終え、和真は和室の座卓を壁際へ寄せた。腕にはまだ重さが残っていたが、レイナが反対側を持つと、畳の上を滑らせるだけで済んだ。
「明日、何時頃に起きますか」
詩乃が布巾を畳みながら尋ねた。
「六時半くらいかな。朝飯を食べて、片付けてから港へ行こう」
「分かりました。朝は簡単にしますね」
乃亜がノートを閉じる前に、和真の方を見た。
「次に本土へ戻った時、書き置きを見に行きたいです」
「うん。まず確認しよう」
「もし家族が帰ってきていたら、何か残してくれてるかもしれないから」
和真は頷いた。
「大学も」
理央が鞄の口を閉じた。
「全部を見たわけじゃない。戻ったら、もう一度調べたいわ」
「それも入れておこう」
乃亜がノートの余白へ書き足す。七人が眠る場所を整える前に、次に戻る時のことまで決めようとしている。その手元を見て、和真は枕元に置いた民宿の鍵へ目を向けた。
「布団、敷こうか」
押し入れから寝具を出すと、和真は入口側へ自分の布団を広げた。美波が、少し離れたところから畳と扉を見ている。
「……そこだと、夜にドアが当たるかも。少し寄せたい」
和真は入口を振り返った。敷布団の端が、扉の通るところへかかっている。
「ほんとだ。こっちへ寄せようか」
「……こっち、空ける」
美波が自分の寝具を少しずらし、和真が布団を引き直す。間には、人が通れる幅が残った。
「ありがとう」
「昨日、少し通りにくかった」
「言ってくれればよかったのに」
美波は自分の枕を置き、和真を見ないまま答えた。
「……寝てたから」
和真は笑い、自分の枕を壁から少し離した。
身支度を終え、照明を消すと、和室には七人分の寝息になる前の気配が残った。和真は枕元に端末と民宿の鍵を置き、布団へ入る。
「明日も、荷物運ぶんだよね」
暗い中でレイナの声がした。
「うん。でも今日はもう運ばなくていい」
「腕、今になってだるい」
「俺も」
和真が返すと、近くで寝具の擦れる音がした。
「おやすみなさい」
乃亜の声に、いくつかの返事が重なる。
明日、島へ着けばまた荷物を運ぶ。テントを張る場所も空けなければならない。考え始めると、まだ起きて準備したいことが出てきたが、布団から腕を出す気にはなれなかった。
*
朝、和真が目を覚ますと、枕元の鍵に廊下の灯りが当たっていた。
起き上がると、背中から腰にかけて張る感じがある。端末の時刻を見ると、目覚ましが鳴る少し前だった。
炊事場へ行くと、詩乃がパンを皿へ移していた。
「おはようございます。お湯、もう沸いてます」
「ありがとう。顔を洗ってくる」
朝食を終えると、昨日置き場を決めた物を順に玄関へ運んだ。理央が最後の充電器を抜き、乃亜はノートと玄関の袋を照らし合わせる。寝具を押し入れへ戻すと、和室は来た時と同じ広さになった。
廊下には大型電源装置と空の箱が残っている。理央がその前で足を止めた。
「次に来た時、まだここにあるといいけど」
「戻ったら、まず見よう」
和真は使わせてもらったことを書いた紙を玄関の見える場所へ置いた。家の中へ呼びかけても返事はない。それでも一度頭を下げ、扉を閉めて鍵を戻した。
港に残した荷物は揃っていた。
和真は船へ乗り移り、昨日入れた寝具の袋を持ち上げた。下まで濡れてはいない。通路の端へ寄せ直すと、岸壁からレイナが食料の箱を差し出した。
「昨日と同じところ?」
「うん。重い方から入れよう」
受け取る時、指の付け根が痛んだ。昨日ほど深く持ち手へ指をかけず、底から支えて箱を下ろす。船が足元でゆっくり揺れた。
美波の工具を受け取り、防水シートの包みを食料と離して収める。理央は自分の鞄を置く前に通路へ立ち、荷物が膝や足に当たらないか見ていた。
「昨日より、こっちの袋を奥へ入れられるわ」
「紐、届くかな」
「一度通してみましょう」
和真が固定用の紐を渡し、袋の向きを変える。座席へ出入りする幅を残して締めると、押しても大きく動かなくなった。
岸壁の椅子に座った乃亜が、ノートへ印をつけていく。
「種の箱は、もう入りましたか」
「これだね」
和真が示すと、乃亜は箱の側面を見て頷いた。
「はい。港に置いた分は、これで全部です」
昨日の確認を繰り返しているはずなのに、船へ収まった荷物は違って見えた。今度は積めるか試しているのではない。自分たちも乗って、ここから動かすことになる。
乃亜が乗り込む時、和真は船側から手を差し出した。岸壁ではレイナが腕を支え、乃亜は傷めていない足から慎重に移った。
「ここなら、足を伸ばせる?」
「はい。鞄、横に置いてもいいですか」
「揺れた時に動かないように、ここへ入れよう」
座席のそばへ鞄を収め、和真は操縦席へ向かった。燃料の表示と航路を見て、船の状態に変わりがないことを確認する。
詩乃が乗り込み、手元に置く飲み物の袋を足元へ収めた。その後ろから美波が船内へ入ってくる。美波は座る前に、岸壁の向こうの道を見ていた。
あの道から民宿へも、実家へも行ける。
和真は、美波が前を向いてから尋ねた。
「忘れ物はない?」
「……ある。でも、今日はこれでいい」
美波は鞄を膝へ寄せた。
「次に来た時、また取りに行きたい」
「うん」
和真は後ろを見回し、リリスまで乗り込んでいることを確かめた。レイナが係留ロープを外し、船へ戻ってくる。
「ロープ、入れたよ」
「ありがとう。座ってて。出るから」
機関の振動が座席から背中へ伝わった。和真は岸壁との間を見ながら船を離し、ゆっくりと港の出口へ向ける。
誰かが追いかけてくるかもしれないと、最後まで思っていた。呼ぶ声が聞こえれば、すぐに戻れる速さで進んだ。
けれど、窓から入ってくるのは機関の音と、船べりに当たる水の音だけだった。
港を抜けてから、和真はゆっくり速度を上げる。積んだ荷物が動く音はしない。
「乃亜、足は大丈夫?」
「大丈夫です」
返事を聞き、和真は進路を整えた。窓の端で、本土の建物が小さくなっていく。
向かう先には、三人と過ごしたテントがある。その奥には、自分を主と呼ぶリリスと出会った施設も残っている。
和真は舵を握り直した。船の先にある島が何を知っているのか、まだ誰も知らない。




