勇気注意報
「返却お願いします」
駅前の図書館に着いて、受け付けの人に本を渡す。
少しだけ辺りを見回してお世話になったオバサマの姿を探したけれど、今日も見当たらなかった。
「はい、お預かりします」
「ありがとうございました」
結局、あのファンタジー小説は一切読めていないままだった。
楽しみにしていたけれど、開く元気すらなくて。
貸し出しの延長も考えたけれど、この間一巻が本棚に並んでいなかったから、きっと今一巻を読んでいる人がいるのだと思う。
それなら早く返却して、続きを読んでもらいたかった。
俺はまた機会があれば借りよう。
そう思って、若干後ろ髪引かれる思いで図書館を出る。
「あら」
「……あ」
ほの暗くひんやりとしていた図書館を出ると、暑くなってきた日差しが全身に降り注ぐ。
その眩しさに目を細めていたら、向かいから歩いてきたのは俺にアドバイスをくれた、あのオバサマだった。
「今日は彼、居ないのね」
「……はい」
きっとオバケの拓己のことだろう。
俺以外で唯一、オバケの拓己のことを朧気でも認識できていたオバサマ。
そんなオバサマが『居ない』と言うならば、分かってはいたけれど、本当にもう居ないという証明になって改めて胸が痛んだ。
「彼と話せたかしら」
「……はい。あ……いえ」
話せは、した。
でもオバサマはあの時、沢山話して、と言っていた。
だから沢山は話せていなくて、曖昧な返事になってしまった。
オバサマはそんな俺を見て、図書館の入口の側に備え付けられているベンチを差す。
促されるままそのベンチに座ると、オバサマも隣に座って、少しだけ体をこちらに向ける様子が見えた。
「何かあったのかしら」
「……」
「話せる範囲でも、話さなくてもいいわ。でも今のあなたのお顔、とっても辛そうよ」
「……っ」
優しく包み込むような声で言われて、視界が滲む。
人前で泣くなんて、という思いは簡単に崩れ去って、気が付けば頬を涙が伝っていた。
「……オバケのあいつが消えて、次の日には本体が目を覚ましました。でもあいつ……俺のこと……何も覚えてなくて」
「……そう」
オバサマが動く気配がして、手に何か触れる。
見ればそれは淡い紫色のハンカチで、泣きながらでも、上品なデザインだと思った。
「使ってちょうだい、まだ綺麗よ」
「……でも」
オバサマの手を拭く為の、綺麗なハンカチなのに。
躊躇していたら俺の手からハンカチが離れて、頬の涙に直接当てられる。
柔いその感触と、優しい石鹸の香りに、心が解れていくのを感じた。
ハンカチを受け取ると、もう有難く使わせてもらう。
涙を吸ったハンカチは、石鹸の香りだけじゃなくて花の香りまでして、オバサマは魔法使いか何かなのかなと頭の片隅でぼんやりと思った。
オバケの拓己が見えていたことといい、なんだか不思議な雰囲気を纏った人だから。
「覚えていないって、彼が言ったのかしら」
「……はい。目が覚めた後、いつもの俺に向ける態度じゃなくなっていて。俺が誰か分かるか聞いたら、知らないって」
収まりかけていた涙がまた視界に滲む。
泣くほどではなかったはずなのに、オバサマに話すとどうも涙腺が緩んだ。
「反動、かしらね」
「……反動?」
見ればオバサマは頬に手をやりながら遠くを見ていて、俺もその視線の先を辿る。
そういえば拓己が入院していた病院はその方角だ。
やっぱり全てを見通しているのではないかと思って、驚くと共に少しだけ怖くもなった。
「心残りのあなたの傍に居て、解消される何かがあって……そうして体に戻った時、これまで抱えていたものと、解消された気持ちが反発し合って真逆の気持ちが起きてしまっているんじゃないかしら」
「……」
分かるようで、難しい話だった。
拓己は本当に俺が心残りだったのだろうか。
拓己が俺に気持ちを伝えてくれた瞬間消えてしまったということは、俺に気持ちを伝えたかったことが心残りだったということ……?
筋は通るけれど、何故かしっくりこない。
やっぱり直接聞いて話がしたいなと思う。
でも思い出すのは拓己のあの、冷たい表情だった。
オバサマは反動だと言ったけれど……それなら、どうすれば解消されるのだろう。
そもそも、俺との記憶を失ってしまっている拓己に何か聞いても、きっと俺が知りたい情報は出てこないということに気付く。
話す為には俺を思い出してもらう必要があって、思い出してもらうには……やっぱり、話すしかないのだろうか。
堂々巡りになる思考で混乱していたら、隣に座るオバサマが柔く笑う吐息が聞こえる。
見れば温かい眼差しで俺を見ていて、何故か少し気恥ずかしくなった。
「愛ね」
「っえ」
思ってもいなかった言葉に動揺する。
愛なんてそんな大層なものでは、と焦るけれど、オバサマは変わらず優しく微笑んでいた。
「……愛なんてそんな。全然、違うんです。俺、本当にバカで……どっか行っちゃえ、なんて酷い言葉を言って傷付けたし、あいつは実際事故に遭って、辛い目にも合わせました」
交通事故は俺のせいだと言い切ることはできないかもしれないが、俺のせいじゃないとも言い切ることができないと思っている。
拓己の心残りというものが、俺の「どっか行っちゃえ」って言葉が本心だったのか気になって、だったら恐ろしいなと思う。
実際違うのでありえないけれど、「そうだ」と言っていたら、拓己は体に戻ることなく消えて、そのままだったのだろうか。
もう拓己は体に戻っているから、そんなことを考えても仕方がないけれど、拓己の心残りはいくらでも考えることができた。
「そうね、一つ伝え忘れていたことがあるとすれば」
「……」
「恨みの心残りであなたの傍にいたのなら、きっと、とても分かりやすかったと思うの」
「……え?」
恨みなら分かりやすい、ってどういうことだろうと思う。
オバサマは静かに人差し指を立てると、俺の目をしっかりと見た。
「例えば、恨みつらみを吐かれるとか。事故時の姿で、現れるとか。あなたの体を乗っ取ろうとして、入り込もうとしてくるとか……いろいろあるわね」
「ひ……」
確かにそれならば分かりやすい。
所謂オバケそのもの、というか。
明確な恨みが篭っているから、オバサマの言う通り分かりやすい行動だと思った。
「でも彼は、あなたに寄り添うようにして傍に居た。ともすれば見守るように、温かく。意思の疎通も取れていたようだし、きっと恨みではないと思うのよ」
「……じゃあ」
じゃあ、なんだったのだろう。
拓己の心残りは一体なんだったのだろう。
考えれば考える程分からなくて、候補が現れては消えていく。
オバサマはまた頬に手を当てると考え込むようにしていて、俺もハンカチを握りながら考える。
涙は止まっていたけれど、ずっと落ち着かない気持ちだった。
「全ては、話せたのかしら」
「……いえ」
「それなら一度、全てを伝えてみるのもいいかもしれないわね」
全てを、話す。
それができたらいいなと俺も思う。
やっぱり話さないことには、何も始まらないとも。
けれど拓己は聞いてくれるだろうか。
そんな時間を、取ってくれるだろうか。
全て聞いてくれたとして、やっぱり思い出せなかったら。
ただ俺の妄想を聞かされたとして、また更に心の距離が開いてしまったら。
そうなったら、まだ始まったばかりの高校生活が悲しく寂しいものになるなと思う。
それなら今のままで、離れたところから見守らせてもらうのがいいのではないか。
でも、
でも。
俺はやっぱり拓己の傍に居たいと思う。
友達として、親友として、幼馴染として、家族として、半身として。
そして願わくば、大切な人として。
一度想いが通じ合ったあの一瞬があったからこそ。
どうしても消せない、消えてくれない、想いがあった。
ただの片想いでこのまま終わらせるのは少し悔しい。
俺の好きな人は拓己で、拓己の好きな人も俺……だったはずで。
それから眠ってはいたけれど、拓己は俺のファーストキスの相手でもあるのだ。
フラれるにしたってちゃんと振ってほしいし、俺のことを思い出してから振ってほしい。
「話して、思い出してくれるかな……」
「……ええ、とは言えない。けれど何もしなければ、何も起こらない。でしょう?」
「……本当だ」
何もしなければ、何も起こらない。
確かにその通りだと思う。
実際に、そうだったから。
行動を起こして、だからこそ拓己は体を取り戻した。
現に体験して、体感したのに忘れていた。
今よりもっと失うことを恐れて、立ち止まっていた。
「頑張ってね。あなたは大切な人の為に、全力で奔走できる素敵な人よ」
「……っ」
必死だった俺を、そんな風に言ってくれるオバサマにまた涙が滲む。
優しく微笑むオバサマは俺の手を取ると、力強く握ってくれた。
「……ありがとうございます。あなたのお陰で、俺は二度も勇気を貰いました」
「あらあら」
照れたように微笑むオバサマは、きっと本当に魔法使いなんだと思う。
消えかけていた勇気の炎がまた、俺の中でしっかりと宿るのを感じた。




