04:扇野くんと過ごした日々
5月、6月、そして7月。扇野くんと私は、月に何度か休みを合わせてデートを重ねていた。
待ち合わせの時間に彼が来たことは一度もなかった。毎回遅刻。必ず遅刻。待つことに慣れてしまった私は、遠くから滑るように近づいてくる彼の黒い車をいつも無感情で見ていた。
遅い!と怒ればよかったんだろうか。一度くらい私が待たせてみたらよかったのかな。小さな後悔とでもいうべきものはいくつも心の奥底に澱となって溜まっている。
長谷川 理奈という子も見かけた。偶然だった。同じ大学に通っているんだから、それは珍しくもない偶然。一目見て持った感想は'勝気そうな子' その子自身には興味が湧かなかった。扇野くんは勝気な子が好きなんだ、そう思っただけだった。
時を前後して、生涯の友になるであろう出会いもあった。ネーヴェフレスカで働く池内 美夕だ。
彼女は1つ年下で、今年専門学校に入学した1年生だ。バイトでは同期。話すようになったきっかけは、帰りのバスだった。バイトの日、私は終バスで帰る。乗るのは始発駅だから、すぐに満席になることはないのだけれど、いつも5分前には駅に行って並んでいる。そうしていつものようにバスの一番後ろの右端の席に座っていたら、美夕が駆け込んできた。
「あれ?伊藤さん?」
隣に座った美夕から話しかけられて、私も初めてそれがバイト先にいる女の子だと気がついた。
「池内さんもこのバスなんだ」
「うん、緑中だよ。てかいつもこのバス乗ってた?全然気がつかなかったし!」
いやいやそれはこちらの台詞だよ。と思いつつも、自分がいつも席を取るなり眠っていたことを思い出す。緑中、か。それは私が住むエリアが学区の公立中学校だ。
「ねえ!これから一緒に帰ろ!下の名前何?私は美夕」
「うん、そうしよ。私は沙樹、伊藤 沙樹だよ」
こうして美夕は、一息に私の中に飛び込んできた。女ばかりの青春を送ってきたから、美夕の距離の詰め方は心地よかった。私の友達の中にも美夕みたいな子は何人かいる。男の子相手のような警戒心は全くなかった。
数日後には、バイト前にお茶するくらいには仲良くなっていた。
「沙樹は中学からN女だったんだー。それで会わなかったんだね。てかさ、あのパン屋でバイトしてたんでしょ!絶対会ってるわ。何回も行ってるもん」
カフェでアイスティーを飲みながら、美夕と時間をつぶす。
「美夕みたいな可愛い子が来たら憶えてるはずなんだけどなー。私が休みの日だったのかも」
「何、嬉しいこと言ってくれるじゃん」
名前を教え合って数日とは思えないほど美夕とは気が合った。男の子が多くてへし折れかけていたバイトのモチベが少し持ち直したのは間違いなく美夕のおかげ。
「ネーヴェフレスカさ、思ってた5億倍キツくない?こんな肉体労働だと思ってなかったわ」
美夕の言う通りだった。時給が高いだけのことはある。朝は5時出勤の時もあるし、土日は結婚式で貸し切りになることが多いから、長時間フロアで立ちっぱなしで相当疲れる。3回転の日なんて戦場並みの忙しさだ。怒鳴るような指示が飛び交う初めての週末はすごく怖かった。
「美夕、辞めないよね?」
今のところ同期で辞めた子はいない。美夕が辞めちゃったら私は続けていく自信がなかった。
「辞めない辞めない。履歴書書くとか面倒くさいもん。沙樹も続けるっしょ?」
辞めない理由それなんだ。強張っていた肩の力が抜けたのがわかる。
「うん、続ける」
美夕といえばこんなこともあった。
あれは、6月の平日のことだった。ネーヴェフレスカには個室が3室あって、平日の夜にはちょっとした会合なんかで使われている。個室の宴会にはアルバイトが優先して配置されるため、個室担当になることが多い。個室とは言っても、どの部屋も2~30人は入れる規模だ。立食パーティーともなると、もう少し人数は膨れ上がる。
その日個室の1つはとある青年会の会合が入っていた。事務所に貼り出されている部屋割りを見て、どんよりとした気持ちになる。その会合に私と美夕の名前が入っていた。他に8人の名前があり、一番上にはバイトリーダーの及川さんの名前もあった。
及川さんに関しては、今日ちょっとした噂が流れていた。まあプライベートな話だし、関係ないか。その時は軽くそう考えていた。
私は事務所の吉川さんに相談して、バックヤード担当にしてもらうことにした。簡単に説明すると裏方さん――下がってきた食器類を食洗器に入れたり、食べ残しを処理したりする。後はグラスを磨いたり、氷やお酒の補充など。普段なら男の子が担当する役割だ。
会合がお開きになり、宴客が退場し始めた頃、及川さんが半笑いで私に話しかけてきた。
「どうだ?自分の仕事の出来なさがよくわかったか?」
一瞬何を言ってるのか意味がわからなかった。ううん、時間をかけてもわからなかったと思う。隣で同じくバックヤード担当をしていた廣田くんが、珍しく慌てた様子で「ちょっと...」と及川さんに言いかけたところで口を噤んだ。
そこに割り込んできたのが美夕だった。
「及川さんがモテないってことだけはよくわかりましたよ!」
美夕のその声は、びっくりするくらい大きくて、何人かがギョッと振り返って見ている。当然言われた及川さんだって、目を吊り上げた。
「振られた腹いせですか?今日社員の子に告って振られたんですよね?それ沙樹に関係ないじゃないですか。八つ当たりとかクソださ!」
美夕は狂犬みたいにキレてる。その暴走はもう誰にも止められなかった。
「なんで今日沙樹がバック担当になったか知らないくせに!」
そこで初めて及川さんと廣田くんの視線が私に向いた。沈黙が痛い。
「……なんかあったのか?」
怒りを鎮めたらしい及川さんが、冷静な声で問いかける。口に出したくはなかったけれど、この場を治めるには話すしかない。
「先月、この青年会の会合でセクハラに遭って」
及川さんの顔に後悔の色が見えた。リーダー任されている人だ。根は悪い人じゃない。それくらいは私にだってわかる。
「吉川さんに話したのか?」
私は、今日初めてその話をした。部屋割りが決まった後だ。その青年会の会合が毎月あることも今日知った。それをぽつりぽつりと話す。及川さんと廣田くん、そして美夕も黙って話を聞いていた。
「わかった。次からこの宴会に伊藤を入れないよう俺からも話しておく」
何かと言わなきゃと口を開く前に、美夕に先を越された。
「及川さん、さっきは言いすぎました。けど、みんなもう知ってましたよ。口の軽い子は止めておいた方がいいです」
最後まで美夕節だ。これには及川さんも苦笑いしている。
「池内の言うことも正しいな。あの子今日休みなんだよ。それでもう知れ渡ってんのか。ネタにされたんだな、俺」
しゅんとされてもなんと声を掛けたらいいのやら。当の美夕はというと、さっさとフロアの撤収に戻ってしまい、その場には及川さんと廣田くん、私が取り残されていた。
話を戻し扇野くんのこと。あれは7月の初旬。夕方から2人共シフトに入っていたけれど、珍しく朝から会えた日。それがどんな理由だったのかはもう憶えてはいない。急な休校だったのか、開校記念日だったのか、それは今となってはどうでもいいことだ。
例にもれず遅刻してきた彼の車の助手席に乗り込む。
[海行こうぜ!]
前日の夜にそう連絡が来ていた。7月とは言えまだ海開き前のこの季節、海に行くとは言っても泳ぐつもりではないだろうと思い、私は普段通りの格好で出掛けた。
彼が向かったのは、初デートで行った観光地ではなく、扇野くんの自宅付近の静かな砂浜だった。
そこは真夏でも近所の人が通うくらいの静かな穴場的海水浴場で、その時期は広い砂浜に私たち以外の人影はなかった。
最初は砂浜にペタンと座って、とりとめのない話をした。いつものように扇野くんが話して私が答える。何の話をしたかも憶えていない程度の軽い会話。なぜだかやたらと左手を念入りに触られた。
「7号?」
そう言いながら薬指を軽く握っている。その瞬間はとても驚いた。まさか当てられるなんて思ってもいなかったから。
「うん、どうしてわかったの?」
扇野くんは笑いながら答えた。
「このくらいの女の子はみんなそうだから」
その言葉で気がついた。私だってバカじゃない。もう名前は忘れてしまったけれど、N女の元カノさんが7号だったんだね。でもそのことは胸の中にしまっておいた。
「海入ろう!靴脱いで!」
突然それだけ言うと、扇野くんは立ち上がり両膝に自分の手を置いて私のことを見下ろす。
「う、うん」
急いでサンダルを脱いで裸足になる。と、膝の下に腕を滑り込ませた扇野くんにひょい、と持ち上げられてしまった。ヤダ!これお姫様抱っこじゃない!
「降ろして!恥ずかしい!」
扇野くんは笑いながら海へ向かって歩き出す。
「重いから!降ろして!」
何度抵抗しても、扇野くんは聞いてくれなかった。
「誰も見てないって」
そうじゃなくて。私は恥ずかしさでパンク寸前だった。
「やってみたかったんだよ」
笑いながらそう言った扇野くんの言葉に、もしかして初めてなのかなと恥ずかしさの中にもどこか満足した気持ちが湧いてくるのが止められなかった。
着替えがないから、膝下だけ。少しだけ海を堪能した。
扇野くんはいくつも私の知らない世界を見せてくれる。こうやって海に来るのも初めてのことだった。秋も冬も、この先ずっとそれが続くんだとこの時は思っていた。
そろそろバイトに向かう時間。扇野くんはいつも車でバイトに行く。自家用車通勤は本当は禁止なんだけれど、駐車場のおじさんと上手いこと仲良くなって、こっそり停めさせてもらっているんだって。
砂を落として、彼の車に乗る。S市に向かって走らせながら扇野くんが言った。
「なあ、今日2人でサボろっか」
今の私には、この時の扇野くんの本心がわかるような気がする。2人で当日欠勤する――それは既成事実となって、瞬く間に噂になる。彼の狙いはそれだったんだと。
当時、私たちは2人の関係を周囲には隠していた。私は美夕にすら話していなかった。
扇野くんは自分の口から広めたくなかったんだ。理由はわからない。一言「伊藤と付き合ってる」そう言えば済むことだったのに。
当時の私は、生真面目だった。約束を破ることはいけないこと。それが正しいと思っていた。ううん、その考えは今でも変わっていない。
「駄目だよ当日欠勤は」
この日が扇野くんとの最後のデートになった。




