30:5年越しに届いた真実
「昨日はありがとう、いってらっしゃい」
朝ご飯を一緒に食べて、律くんを送り出す。昨日のお礼をもう一度言った。これで最後。
私は出社まであと1時間ほど余裕がある毎朝の光景。でも、なんだか今朝の律くんはあまり元気がないように見えた。
「沙樹……行ってきます」
どこかいつもと様子が違う、そんな気がした。けれど呼び止めて確認するだけの時間がない。
律くんの車が出ていくのを窓から眺めながら、私は洗濯物を干した。
電車に乗り職場へ向かう。その時スマホがぷるんと鳴った。横山さんからだった。珍しい――ううん、個人宛てに届いたのは初めてだ。
[最後のおせっかい]
と書いてあった。なんだろう?どう返信したらよいのかと戸惑っているところに、続けてとある曲の動画が送られてきた。わっ、懐かしいな。横山さんの車でいつも流れていた曲だよね?
私はイヤホンを取り出して、その曲を再生した。うん、あの曲で合ってた。何度も車で聴いたイントロが流れ始める。こうして直接耳の中へ届けられる音楽は、より深く歌詞が響く感じがする。当時はあまりちゃんと聴けていなかったんだな、と少し申し訳なく思えてきた。
あれ?
何かひっかかる感じがして、少しだけ戻してみる。浜田省吾は、同じ箇所を歌い直してくれた。
~もうひとつの土曜日~
これ、もしかして扇野くんのこと言っている?
ううん、違う。「私を待ち続けている」これ、まさか律くんのこと?
[最後のおせっかい]という言葉を指でなぞってしまった。
――もしかして。
ずっと気がついていたの?全て知った上で側にいてくれたの?何度も何度もこの曲を聞いた。初めて聞いたのはキャンプに向かう車の中だったよ。そんな頃から――
4人で出掛けたいろんな場所が次々に浮かんできた。横山さんの車ではいつも必ずこの曲が流れていた。
電車の中だというのに私は嗚咽がこみ上げてきた。
横山さん、律くん、ずっと知っていたんだね。
律くんは全て知った上で、昨日扇野くんに会っておいで、そう言ってくれたんだね。
もうすぐ降りなきゃいけないのに、次から次へと涙が溢れてきて止められなかった。私、絶対怪しい人になってる。
横山さんにも返信しないと、そう思うのに歌い続けるその歌詞に耳を取られて私は泣くことしかできなかった。
返信を返せたのは昼休みになってからだった。
[横山さん、ありがとうございました]
5年分の感謝にしては足りないかな、でもスタンプを送る気持ちにはなれなくて、私はそう返した。返信はすぐに届いた。
[律には内緒にしといて]
どうしよう、それに[はい]と言える自信がない。
[できるだけ我慢します]
そう送った。画面の向こうで横山さんが笑っている気がした。
[あとさ、今夜ちゃんと話聞いてやってね]
最後に意味深な言葉が送られてきた。とりあえずそれには[はい]と返事を送っておいた。
それから急いで画像フォルダを漁った。5年前の夏――あった。あの日作ったお弁当の写真。そこに写っているおかずをひとつひとつ思い出す。
[帰宅します]
仕事を終えて、律くんに連絡を送った。私は急いでスーパーに向かう。卵とチーズは冷蔵庫に入っている。人参もある。買うのは鶏肉と、鮭が一切れと――
家に帰り着替えを済ませてエプロンをつけると、最初にお米を研いだ。
それからショウガをすり下ろして、調味料を加えて、鶏肉を揉みこむ。鮭は焼いてほぐした。野菜を切って、お肉を巻いて。私はあの日作ったお弁当と同じおかずを用意していく。今日は家で食べるからお味噌汁も用意しよう。
炊けたごはんでおむすびを作る。中身はもちろん鮭チーズ。5つむすんで海苔を巻いた。
[帰ります]
律くんから連絡が来た。15分くらい待ってからお味噌汁を温め直した。そろそろ着くころかな。
「ただいま」
「おかえりなさい」
急に恥ずかしくなってしまって、私は少し視線を逸らしてしまった。
「ごはん、出来てるよ」
そう言ってキッチンに戻る。律くんは着替えに行った。
テーブルの上のお皿を見て、律くんは明らかに戸惑っている。そうだよね、晩ごはんにおむすびなんて用意したことなかったものね。大きなお皿におむすびと、お弁当のおかずを盛り付けて、お味噌汁を添えた今夜の晩ごはん。
「あのね、横山さんからは口止めされたのだけれど」
横山さんごめんなさい。やっぱり律くんに隠し事はできませんでした。今朝の出来事を私は律くんに報告した。泣いたことだけは秘密にして。
「知らなかった。律くん、ずっと私を見てくれていたの?」
律くんは、気まずそうに横を向いて黙っている。私は話し出してくれるのを待とうと思った。きっと「うん」って言ってくれるんだろう、そう思っていた。
「沙樹が、――沙樹の視線がいつも誰かを見ていることには気がついていた」
律くんが静かに話し始めた。
「沙樹が幸せならそのまま見守ろうと思っていた」
「けど、俺は扇野を信じていなかった」
「キャンプの帰り道、沙樹は様子が変だった。タツも気がついてたよ」
「寂しい気持ちに付け込むようなことはしたくなかった」
「4人で集まるだけで満足できた時期もあった」
「突然ネーヴェフレスカを辞めると聞いて、一度は諦めようと思った」
「まさか再会できるとは思わなかった」と、律くんは続けた。
少しの間が開いた。でもその間は心地よく思えて、私には律くんがその時考えていることをまるで想像もできていなかった。
「ごめん沙樹」
「扇野に沙樹の番号をおしえたの、俺なんだ」
びっくりした。全く予想していなかった。まさか律くんだったなんて一度も思わなかった。
「嘘、ついてたこともごめん」
嘘をつかれたとは思っていないよ。そんな風に責めなくていいよ。
「どうしてか、聞いてもいい?」
律くんは私を試したりするような人じゃない。それは断言できる。
「沙樹の中に、まだ扇野が住んでいるのか……心残りがあったら嫌だと思った」
「もしかしたら、そのまま沙樹が戻らないかもしれない、そうも考えた」
「多分俺は、それでも自分を選んで帰ってきてほしいと思っていたんだと思う」
大好きな律くんをこんな気持ちにさせてしまったことが、悲しかった。私はまたポロポロと泣いてしまう。
「律くんだけが好きだよ。私の中は律くんでいっぱいだよ」
律くんは全部話してくれた。
学生時代を含めて、ただの一度も連絡を取り合ったことのない扇野くんから、私の連絡先を知らないかと書かれたLINEが届き、唖然としたこと。それを最初に打ち明けたのが横山さんだったということ。
[なんだあいつ?ほっとけよ]
横山さんは相手にするなと言ったということ。でも、ほとんど付き合いのなかった自分に連絡してまで私を探している。それがたまらなく不安になったと言うこと。
私の了解を得ずに教えることにはとても罪悪感を感じたと言うこと。伝えたら全てが壊れるかもしれない、けれど自分以外から連絡先を得て、知らない場所で2人が繋がることの方が怖かったと言うこと。
できるだけ私が警戒しないで扇野くんと会えるように嘘をついたと言うこと。それを全部横山さんに相談していたんだね。律くんに、本音を相談できる人がいてよかったよ。1人きりで抱えていたんじゃなかったんだね。一番近くにいるのに気が付けなくてごめんね。でも私の心はずっと律くんだけに向いているよ。律くんしかいないから、他の人のことなんて考えてすらいなかったよ。
「もういいよ、律くん。ごめんね律くん。そんな気持ちにさせてごめんね」
「俺こそごめん。幻滅した?」
「するわけないよ。私、あの曲を聴いてすごく嬉しくて申し訳ないくらい嬉しくて、それでこれ用意して待っていたんだよ」
律くんは忘れちゃってるかな。今日の晩ごはんはね、初めて律くんが食べた私の手料理と同じなんだよ。あの日、不思議そうな顔をしながら食べてくれたおむすびも、ちゃんと作ったよ。
「うん、懐かしいと思った」
律くんも憶えていてくれたんだね。私たち、このおむすびから始まっていたのかな。鮭チーズの入ったおむすびと、1曲の歌が私たちの始まりだったんだね。
律くんは立ち上がって私の側まで来ると、ギュッと抱きしめてくれた。すごく安心する私だけの場所。
「離さない。ずっと大切にする」
「うん、離そうと思っても無理だよ。覚悟してね」
やっと律くんが笑ってくれた。それから律くんは思い出したようにスマホを取り出すと、食卓の写真を1枚撮った。「あとでタツに送ろうと思って」
そうだね、今頃ちょっぴり心配しながら律くんからの連絡を待っているかもしれないね。でも、先にごはんにしようか。お味噌汁を温め直すから、少しだけ待ってね。
もう一度お椀によそったお味噌汁からは白い湯気が立ち昇る。私たちは両手を合わせた。
「いただきます」




