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29:さようなら19歳の私

 約束の火曜日、私は時間よりも少し早くO駅に行って、指定したカフェの向かいのコーヒーショップに入った。カフェオレを1杯頼み、それを持って2階の窓際にあるカウンター席に座る。


(絶対先に行って待ったりなんてしないんだから)


この店を指定したのは、こうして入り口の様子を伺うことができるからだった。スマホを片手に、じっと通りに視線を固定する。案の定扇野くんは時間に遅れてやってきた。少し通りをキョロキョロしながら、確かめるように店の中へと入っていく。変わっていなくて安心したよ。相変わらず時間にだらしない人なんだね。もう社会人なんだよ。扇野くんもスーツを着ているのに、まだ時間も守れない人なんだね。それとも待たせているのが私だから、なのかな。


そのこと自体には興味がなかった。[行ってくるね]と律くんにLINEを送ると、私は飲み終えたカップを持って席を立つ。そしてゆっくりと向かいのカフェへ移動した。


 カフェに入り、店の中を軽く見回してみた。扇野くんは奥の方にあるボックス席、こちらに背を向けて座っている。お店の中は空席が多かった。

扇野くんの横を通り過ぎ向かいの席、通路側を空けて座った。コートは脱がなかった。長居するつもりはないもの。扇野くんの前には珈琲が一杯置かれていた。ほとんど口はつけていないみたいだった。


「久しぶり」


「そうだね」


 私って、案外冷たい人間だったんだね。でもそのことに安心した。こうして扇野くんと2人きりで向き合っても何の感情も湧いてこない。早く用件を済ませてよ、それしか頭の中になかった。


「なんか頼む?珈琲でいい?」


「うん」


扇野くんが私の分の珈琲を注文した。


「元気にしてた?」


「うん」


「今、何してるの?」


「事務」


「どこ?」


「言いたくない」


何しているんだろう。会う必要あったのかな。早く時間が過ぎないかな。そんなことばかり考えていた。


「ずっと連絡してた。まさかブロックされてるとは思わなくてさ」


そうなんだ。けれどそれが事実なのか、嘘なのか、私には確かめる術もない。


「どうして?」


自分から捨てたくせに。目の前で浮気したくせに。今の私にはどうでもいいこと。けれど、扇野くんの前に座っていると、どんどん過去を思い出して嫌な気持ちが抑えられなくなってきた。



「伊藤さんさ、全然嫉妬してくれなかったでしょ」


嫉妬?この人は突然何を言い出すんだろう。意味がわかんないよ。


「灰皿見せてもさ、文句も言わなかったし」


5年前を思い出してみる。扇野くんの車の灰皿には、よく口紅の付いたメンソールの吸い殻が入っていたね。初めて私の視線がそれに向いた時、その時は間違いなく焦っていたことを憶えている。慌てて何か言い訳してたっけ。


「それで別の子わざと誘った」


それが初めてのキャンプの夜のことだと、私にもわかった。けれど理解はできなかった。全く――。


「その後何回か連絡したんだけどさ、既読つかなくて」


私は今、5年前の懺悔を聞かされているのかな。扇野くんは今更私に赦されたいとでも思っているのかな。その言葉はまるで、私のせいで浮気した、と言い訳しているみたいだよ。


「ねえ、やり直さない?」


見苦しいね、器が小さいね。どうしてこんな人に惹かれたんだろう。見る目がなかったね。それだけ私が無知だったんだね。本当は私のことが好きなわけではないんでしょう?一度も「好き」と言わなかったもんね。振り向かせたいだけなんでしょ?追いかけてほしいだけなんだよね。


「無理。2度と会わないから。今日はそれを言いに来たの。電話も迷惑だよ」


扇野くんは笑ってる。最後には私が頷くと思っているんでしょう?そんなことは決してないよ。もうすぐそれがわかるよ。直接自分の目で確かめてよ。


私は何度も入り口に視線を向けてしまう。向かいの席では扇野くんが同じ話を繰り返していた。


「好きだよ。忘れられなかったから連絡した」



それを聞いて、私の中に最初に浮かんだのは扇野くんのお父さんだった。何度も骨を折られたり、病気にさせられていた人。今になって言われても、その言葉を信じるほど私はもう子供じゃないよ。


 入り口のドアが静かに開く。私の大切な人が近づいてくる。待っていたよ。


「沙樹」


律くんの視界には扇野くんが入っていないみたいに、自然に隣に座ってくれた。扇野くんは1人驚いている。うん、その顔はとっても驚いているよね。それが見れて満足だよ。


律くんは、さり気なく指を組んでテーブルの上に乗せた。左の薬指には指輪が光っている。


「もう行っていいかな。夫が迎えに来てくれたから」


その驚きぶりだと、私たちが結婚していることを本当に知らなかったみたいだね。扇野くんはまだ声を出せずにいる。


「話は終わったか、扇野」


律くんが声をかける。返事は返ってこなかった。


「行こうか、沙樹。飯寄って帰ろうか」


「うん」


バイバイ扇野くん。あなたを好きだった私は確かにいたよ。けれどそれは過去の私。あなたが見ているのもきっと過去の私だよ。いつか扇野くんも、嘘で固めず好きになれる相手が見つかるといいね。


今度こそさようなら。

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