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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第6章 折り紙の兎


首筋を汗が伝い落ちて、Tシャツの襟に吸い込まれた。七月の夜の熱気は、建物の中まで追いかけてくる。


如月綴はスタジオ401のドアを開けた。防音扉の向こうに入ると、廊下の蒸した空気が遮断されて、冷房の乾いた風が頬に当たる。吸音材のかすかな化学的な匂いと、ノートのインクが混じった紙の匂い。この部屋だけの空気。


防音扉を閉める。いつもの静寂。でも夏の静寂は、他の季節とどこか違う。空気の密度が濃い。


スタンドライトを点ける。


棚の上から、緑色のノートを取った。


---


三ヶ月。


四月にあの人がノートに書き込んでから、三ヶ月が経った。


最初は食べ物の話だけだった。木曜の学食。月曜の修行中。コンビニのプリン。水曜の凡庸。


気づいたら、毎晩ノートを開くのが当たり前になっていた。


ページを開く。昨日の夜、あたしが書いた文章。その下に、今朝のあの人の返事。


> 七夕のお願い事、何か書いた? あたしは笹の前で五分くらい迷って、結局「世界平和」って書いた。嘘じゃないけど本心でもない。本当に書きたいことは書けなかった。短冊に書いたら叶わなくなりそうで。


綴は、その文字を読んだ。


——あたしも、書けなかった。


学食の前に笹が立てられていた。短冊とペンが置いてあった。環が「綴も書きなよ」と言った。ペンを持って、短冊の前に立った。


書きたいことはあった。


「この人に会いたい」。


書けるわけがない。誰に宛てているかもわからない願い事。笹に吊るすどころか、短冊に筆を下ろすことすらできなかった。結局何も書かずに、環に「書いた?」と訊かれて首を振った。


あの人も、「本当に書きたいこと」があったのだ。


それは何だろう。


知りたい。でも訊くのは怖い。


ペンを取った。


> あたしは短冊白紙だった。書きたいことはあったのに、ペンが動かなかった。いつもはノートだと動くのに。短冊は人に見られるから。ノートはあなたしか見ないから動く。

>

> この違いってなんだろう。


書いた。読み返す。


何かが足りない。


綴はペンを置いて、椅子にもたれた。天井を見上げる。吸音材の白い表面。蛍光灯の光。


三ヶ月分のやりとりが、ノートの中に積もっている。食べ物の話。天気の話。弟の話。声のこと。雨の音のこと。ツバメのこと。舞台のこと。虹のこと。


楽しかった。楽しい。今も。


あたしの言葉に返事が来る。あたしの書いたことを読んで、笑ったり、考えたり、心を動かしたりしてくれる人がいる。


それが——ありがたい。


「ありがとう」と書きたい。でも「ありがとう」と書いたら、何に対してのありがとうかを説明しなきゃいけない。「ノートに返事をくれてありがとう」。それだけじゃない。「あなたがいるから毎日が違う」。近い。でも重い。怖い。


「あなたのおかげで」。


だめだ。口から出ないのと同じだ。書けばいいのに、「ありがとう」の重みが怖くて、ペンが止まる。


綴はノートを閉じた。


パソコンに向かう。期末レポートの途中。メディア芸術概論のレポート。テーマは「メディアと感覚の拡張」。進んでいない。


画面を見つめた。カーソルが点滅している。


ふと、目が机の隅に向かった。


折り紙。


先週、工作の授業で余った折り紙が鞄の中に入っていた。何色かの正方形の紙が、ファイルに挟まれて潰れている。


手を伸ばした。


水色の一枚を引き抜いた。


---


折り紙は得意だった。


幼い頃から、手を動かすことで考えを整理する癖があった。考えがまとまらないとき、不安なとき、何かを言いたいのに言えないとき。手を動かす。折る。切る。貼る。組み立てる。手が動いている間は、頭の中のうるさい声が少し静かになる。


ウサギを折ろうと思った。


伝承折りの、いちばん素朴なウサギ。幼い頃に祖母に教わった折り方。三角、四角、鶴の基本形なんか経由しない。紙を三角に折るだけで始まる、たった五回ほどの工程。


紙を三角に折った。角と角をぴったり揃えて、人差し指の腹で端から端へ、すっと折り目を撫でる。爪で軽くなぞって筋を強調する。新しい折り紙の、パキッという小気味よい音。紙の繊維の匂いが、かすかに指先に残る。


さらに三角。左右の角を中心線に沿って折り上げる。耳になる。


長い耳。ノートに描くあのウサギと同じ、長い耳。左の耳をほんの少しだけ内側に曲げた。指先で紙をつまんで、角度を調整する。片方だけ傾いだ耳。何かを聞いているような。


下の角を少し折り上げてあごにする。裏返す。紙がそこまで来ると、あとは自然に手が動いた。


目はペンで描いた。丸い目。少し上を向いている。何かを見上げている顔。


できあがったウサギは、親指と人差し指の間にちょうど収まるくらいの大きさだった。水色の紙で、耳が長くて、左の耳だけ少し傾いでいる。平面的で、素朴で、不格好。でも紛れもなくウサギだった。


手のひらに乗せた。


小さい。軽い。でも、ちゃんとここにいる。


「ありがとう」は書けなかった。


でもこれなら、挟める。


ノートのページの間に、この子を挟んで、棚の上に置いておく。朝にあの人がノートを開いたら、この子がぽろりと落ちる。


言葉の代わりに。


——これは逃げだろうか。言葉で伝えるべきことを、折り紙で誤魔化しているだけだろうか。


でも、あたしにとって「作ること」は「言うこと」と同じなのだ。口から出ないなら手から出す。文字でも足りないなら、形にする。


ウサギを見つめた。水色の小さな兎。


「行っておいで」と思った。声には出さなかった。


ノートを開いて、あの人が最後に書いたページのすぐ後ろに、ウサギを挟んだ。ノートを閉じる。ウサギの耳がかすかにページの端からはみ出している。


棚の上に、ノートを置いた。


---


翌日は、長かった。


一限。概論のレポート提出。二限。グループワーク。環が隣にいて、綴の代わりに発言してくれる。環は「綴、ここどう思う?」とだけ訊いて、綴が小さく答えたことをグループに伝えてくれる。通訳みたいだと思う。


昼休み。学食。七月の日替わりはチキン南蛮。


「ねえ綴」


「ん」


「最近、何か作ってる?」


環がチキン南蛮にタルタルソースを追加しながら訊いた。


「……べつに」


「そう? なんか楽しそうだなって思って」


「楽しくない」


「嘘。指見ればわかるよ」


綴は自分の手を見た。右手の人差し指と親指の腹に、かすかに折り目の跡がある。昨夜ウサギを折った時の。


「折り紙?」環が首を傾げた。「授業の課題?」


「……ちがう」


「じゃあ何?」


「……ただの。折りたかっただけ」


環は「ふうん」と言って、チキン南蛮を口に運んだ。それ以上訊かなかった。


でも、にこにこしていた。綴が「べつに」以外の返答をしたのが、たぶん嬉しかったのだ。


---


その夜。


スタジオ401。


ノートを棚から取った。


開いた。


昨日挟んだページ。ウサギはもういない。代わりに。


> 開いたらちっちゃいウサギがいた! びっくりした。ノートからぽろって落ちて、膝の上に乗った。かわいい。かわいすぎる。あなたが折ったの?

>

> 耳が片方だけ傾いてるのがいい。なんか一生懸命な顔してる。何か言いたそうな顔。

>

> この子、大事にするね。筆箱に入れた。


綴は、そのページを読んで、息が詰まった。


喜んでくれた。


ウサギを見て、喜んでくれた。「かわいい」と書いてくれた。「大事にする」と。


指先が熱い。頬も熱い。夏の夜の暑さとは違う熱。胸の奥から上がってくる、じんわりとした温度。


——届いた。


言葉にできなかった「ありがとう」が、ウサギの形をして、この人に届いた。


ペンを取った。


> あたしが折った。折り紙は小さい頃から好きで、何でも折れる。鶴とか薔薇とか箱とか。

>

> 言いたいことがあったんだけど、言葉が見つからなくて。代わりにあの子を送った。伝わったかな。


書き終えた。ページを捲る。もう少しだけ。


> あの子に名前あげてもいいよ。


---


翌朝。


綴がスタジオに行けるのは夜だけだから、次の返事を読むのは翌日の夜になる。丸一日。


その一日が、とてつもなく長かった。


午前の講義。ノートを取るふりをしながら、頭の中は折り紙のウサギのことでいっぱいだった。あの人は何と名づけるだろう。


「うさこ」? 安直すぎる。この人はそういう名前をつけない気がする。もっとこの人らしい、あたしが思いもつかないような名前。


考えても仕方がない。考えるのをやめようとした。やめられなかった。


---


夜。


棚からノートを取る。開く。


あの人の返事。


> 名前つけていい?


> ……って訊いてから思ったけど、もう書いちゃう。


> 「シグナルちゃん」。


> だってこの子、何か伝えようとしてる顔してるから。目が上を向いてて、口を開きかけてて、耳を片方立ててて。「聞いて」って言ってるみたいな顔。


> 信号って意味じゃなくて、もっと小さいもの。電波とか、光とか、手を振る動作とか。誰かに気づいてほしくて出す、小さな合図。


> あなたがいつも送ってくれてるもの。文字も、ウサギも、全部シグナル。


綴はノートを膝に置いたまま、動けなかった。


シグナル。


小さな合図。誰かに気づいてほしくて出す、小さな——


——そうだ。


あたしはずっと、信号を送っていたのだ。


ノートに書く言葉。描くイラスト。作る曲。折る折り紙。全部、誰かに届いてほしくて出していた。でも届かなかった。受信する人がいなかった。


この人が、受信してくれた。


あたしのシグナルを、拾ってくれた。


名前をつけてくれた。


目の奥が熱くなった。吸音材の天井がにじんで見える。


瞬きをした。睫毛に水滴がついた。泣いてはいない。泣いていない、はず。


ペンを取った。手が震えている。文字がうまく書けるかわからない。でも書いた。


> シグナルちゃん。いい名前。

>

> たぶんそうだと思う。あたしはずっとシグナルを送ってた。届くかわからないまま。

>

> あなたが受け取ってくれて、はじめて意味ができた。ノイズじゃなくなった。

>

> ……ありがとう。この一言がずっと書けなかった。ウサギを折ったのも、本当はこの四文字の代わり。


書き終えた。


読み返した。「ありがとう」と書いてあった。書けた。ウサギを経由して、ようやく。


ノートを閉じた。


---


棚に戻す前に、もうひとつ。


鞄から折り紙を取り出した。今度は黄色。


何を折ろう。


星にした。小さな星。折り方は五歳の時に覚えた。細長い帯状に切って、結び目を作って、五角形に折り畳む。角を指の腹でそっと押すと、ぷくり、と紙が膨らんで立体の星になる。五角形の辺が光を受けてきらりと光った。


ノートのページに挟んだ。


星の横に、小さく書いた。


> シグナルちゃんに友達。名前はまかせる。


ペンを置いた。


次は何を挟もう。何を作ろう。この人に渡せるものを。


言葉だけじゃなくて、形にして。手で作って。あたしにしかできない方法で。


手が鞄の中の折り紙に伸びた。赤。青。緑。白。金。たくさんの色がある。


まだ夜は長い。


スタンドライトの明かりの下で、綴の指が紙を折り始めた。何を作るかは、まだ決めていない。手が動けば、そのうちわかる。いつもそうだ。


手が先に知っている。


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