第5章 すれ違い
傘をさした二人が、すれ違う。一人は右から、一人は左から。傘の縁が触れそうで触れない。互いの顔は見えない。ただ、すれ違った後に残る空気の揺れだけが、誰かがそこにいたことを教える。
六月。雨の季節。
朝からキャンパスが灰色だった。空も地面も建物の壁も、全部がうっすらと水の膜を被って、輪郭がぼやけている。濡れたアスファルトの匂いと、どこかの花壇から流れてくるラベンダーの甘い香りが、湿った空気の中で混じり合っていた。
春日咲は傘をさして正門を抜けた。守衛さんが窓口から手を挙げる。今日は声が届かない距離だったから、咲も手を挙げて返した。
四階。401号室。
傘を畳んで、ドアノブに手をかける。開ける。蛍光灯を点ける。
窓を開けようとして、やめた。今日は雨の湿気が入ってくる。代わりに空調をつけた。低い音が部屋に満ちる。
棚の上。緑色のノート。
手に取る。
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> コンビニの傘、三本目になった。折りたたみ傘を買うべきなんだけど、買ったら負けな気がする。何に負けるのかはわからない。
>
> 今日の学食、水曜日。凡庸。でも雨の日の凡庸は悪くない。安心する味って大事。味噌汁が少しぬるかったのだけ不満。
咲は息を吐いて笑った。コンビニの傘三本。この人は傘を忘れるのだ。
次のページ。
> 雨の音。
>
> 防音室って雨の音が聞こえないから、たまに窓がある部屋が羨ましくなる。雨の音を聞きながら曲を作りたい。でも防音室じゃないと夜中にピアノ弾けない。矛盾。
>
> いつか雨の音をサンプリングして、曲に入れようかな。打ち込みの雨じゃなくて、本物の雨。屋根に当たる雨と、地面に当たる雨と、傘に当たる雨って全部音が違う。あたしは傘に当たるのが好き。一番近い雨だから。
咲はそのページに指を置いた。
この人は、雨の音を三種類に分けて聴いている。
声楽科で音を学んでいる咲にも、そんなふうに雨を聴いたことはなかった。歌のための音は聴く。でもこの人は、音楽にするために世界の音を聴いている。曲を作る人の耳。
ペンを取った。
> 傘に当たる雨、あたしも好き。ぱたぱたって軽い音と、ざあって重い音が混ざるの。
>
> 折りたたみ傘、買った方がいいと思うよ。コンビニ傘の三本目は明らかに負けてる。何に負けてるかはわかんないけど。
書き終えて、ノートを棚に戻した。
ピアノの前に座る。発声練習。今日は湿度が高いせいか、喉の通りがいい。声が空気の中にまっすぐ伸びていく。
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一限のあと、咲は講義棟から図書館に向かって歩いていた。
雨はやんでいた。けれど空はまだ曇っていて、灰色の雲が低く垂れ込めている。地面が濡れていて、木の葉が重たそうに垂れている。雨上がりの土と緑の匂いが、キャンパスの空気を洗ったように澄ませていた。どこかから排水溝の水が流れる音がする。
メディア芸術科棟の前を通りかかった。
普段は通らない道だった。今日は図書館の裏口から入ろうとして、たまたまこちらを回った。
掲示板があった。
ガラスケースの中に、学生作品のポスターが何枚か貼ってある。デジタルアート、写真、映像作品のスチール。梅雨に合わせた企画展示なのか、「雨」をテーマにした作品が並んでいる。
その中に。
イラストが一枚あった。
小さな、A4の半分くらいの紙に描かれた、ウサギ。
傘をさしている。長い耳を片方だけ立てて、もう片方はだらんと垂れている。水たまりに自分の姿が映っていて、水面の向こうのウサギは耳を両方立てている。タイトルは「雨兎」。
線が細い。迷いがない。一本一本に意志がある。
——この線を、知っている。
ノートの中で見た。緑色の表紙を開いた最初のページに描いてあった、あのウサギ。困ったような顔で耳を垂らしていた、あのウサギと同じ線。
咲の足が止まった。
掲示板に顔を近づけた。作品の横に小さなプレートがある。学科名と、名前。
名前の欄は空白だった。「匿名出展」と書いてある。
息を吐いた。
でも。メディア芸術科。
この掲示板は、メディア芸術科棟のものだ。ここに展示されているのは、メディア芸術科の学生の作品。
ノートの人は、メディア芸術科の学生かもしれない。
雨に濡れたキャンパスの中で、咲はしばらく掲示板の前に立っていた。ウサギが傘をさして、水たまりの中の自分を見つめている。水面の向こうの自分だけが、耳を両方立てている。
——この人も、本当は両方の耳を立てたいのかもしれない。水面の向こう側に、本当の自分がいるみたいに。
振り返ったら、メディア芸術科棟の入り口から学生が何人か出てきた。誰がこのウサギを描いたのか。この中にいるのか。
わからない。
咲はもう一度だけイラストを見て、歩き出した。
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数日後。
雨は続いていた。六月の雨は終わらない。
咲は傘をさして、講義棟とメディア芸術科棟をつなぐ渡り廊下を歩いていた。屋根はあるけれど横から吹き込む雨に、右肩が少し濡れている。
前方から、人が歩いてくる。
小柄な女の子だった。傘を畳んでいる。渡り廊下に入ったところで、まだ水滴のついた傘をくるくると巻いている。銀色の髪。長い髪が、湿気で少しうねっている。うつむいていて、こちらを見ていない。
すれ違った。
——かすかに、匂いがした。
インク。
ボールペンのインクの匂い。401号室の机の上に、ときどきかすかに残っているのと同じ匂い。
咲は振り返った。
銀髪の女の子は、もう渡り廊下の向こうに歩いていっている。小さな背中。畳んだ傘を右手に持って、うつむいたまま。咲の存在に気づいた様子はない。
メディア芸術科棟の方へ、歩いていく。
——今の子。
メディア芸術科の学生。インクの匂い。小柄で、銀髪で、うつむいて歩く子。
心臓の奥が、小さく鳴った。
違う。決めつけるのは早い。インクの匂いなんて、誰にでもありうる。メディア芸術科の学生は何百人もいる。
でも、あの線。あの繊細な線を描く人。雨の音を三種類に聴き分ける人。コンビニの傘を三本持っている人。
今すれ違った、あの子かもしれない。
あの子じゃないかもしれない。
咲は渡り廊下の真ん中に立ったまま、銀髪の女の子が角を曲がって見えなくなるのを見ていた。
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その夜。
綴はスタジオ401のドアを開けた。
防音扉が閉まる。いつもの静寂。いつもの空調の音。今日は部屋の中にも梅雨の湿り気がこもっていて、防音材の匂いがいつもより強い。
棚の上からノートを取る。開く。
> 傘に当たる雨、あたしも好き。ぱたぱたって軽い音と、ざあって重い音が混ざるの。
>
> 折りたたみ傘、買った方がいいと思うよ。コンビニ傘の三本目は明らかに負けてる。何に負けてるかはわかんないけど。
口元がゆるんだ。
負けてるって言われた。
ペンを取る。
> ……負けてた。昨日四本目を買った。降参です。折りたたみ傘を買います。明日。たぶん。
>
> ぱたぱたとざあが混ざるのわかる。あたしはそこに、葉っぱに当たる「ぽつ」も加えたい。三つ重ねたら雨のコードになる。CmかEbか。雨はマイナーだと思うんだけどどうかな。
書き終えて、ページを捲る。少し迷ってから、もう少し書いた。
> ねえ、ひとつ訊いてもいい?
>
> あなたのこと、もっと知りたいって思うことがある。名前とか、顔とか。でも同時に、このままがいいって気持ちもある。
>
> あたしはノートの中でしか自分でいられない。会ったら、きっとまた黙る。ここに書いてるあたしと、目の前のあたしはたぶん全然違う。がっかりされるのが怖い。
書いた。
書いてしまった。
指先が冷たい。六月の夜は湿っていて、スタジオの中にも梅雨のじとりとした空気が忍び込んでいる。
読み返す。消したい。でもボールペンだから消せない。いつもそうだ。手が先に動いて、本音が紙の上に落ちる。
ノートを棚に戻した。
パソコンを開いた。雨のサンプリング素材をフォルダから探す。傘に当たる音。地面に当たる音。屋根を叩く音。全部、先週の夜に大学の中庭で録音した。
イヤホンを外して、素材を聴く。ヘッドホンを被って、DAWの上に並べる。
雨の音の上にピアノを乗せた。Cm。やっぱり雨はマイナーだった。
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翌朝。
咲はノートを開いた。
折りたたみ傘の話を読んで、笑った。四本目のコンビニ傘。「降参です」。この人は降参するのか。かわいい。
雨のコードの話を読んだ。CmかEb。「三つ重ねたら雨のコードになる」。この人の頭の中は、世界が音でできている。
そして、次のページ。
> ねえ、ひとつ訊いてもいい?
>
> あなたのこと、もっと知りたいって思うことがある。名前とか、顔とか。でも同時に、このままがいいって気持ちもある。
>
> あたしはノートの中でしか自分でいられない。会ったら、きっとまた黙る。ここに書いてるあたしと、目の前のあたしはたぶん全然違う。がっかりされるのが怖い。
咲の手が止まった。
ページの上に、指を置いた。「がっかりされるのが怖い」の文字の上に。
この人は、会うことを怖がっている。
ノートの中の自分と、現実の自分が違いすぎると思っている。
あのノートを読んでから、ずっと思っていた。この言葉を書く人に会いたいと。どんな顔をしているのか、どんな声なのか、どんなふうに笑うのか。知りたいと思っていた。
メディア芸術科棟の前で見たウサギの絵。渡り廊下ですれ違った銀髪の女の子。インクの匂い。
点と点が、頭の中にばらばらに散っている。線になりそうで、ならない。
でも今、目の前にあるのは、この人の怖さだ。
この人は怖がっている。会ったら黙ってしまうと。がっかりされると。
ペンを取った。
> 相手のこと知りたいって思うこと、あるよ。あたしもある。
>
> でもね、あたしはノートの中のあなたが好きだし、それは「本当のあなた」だと思うよ。だって嘘を書いてないでしょ? コンビニ傘四本も、雨のコードも、月曜の修行中も、全部あなたの本当の言葉じゃない?
>
> 黙る人が、本当じゃないわけないよ。黙るのも、書くのも、全部あなたでしょ。
書き終えた。
読み返す。言い切ってしまった。「好き」と書いた。ノートの中のあなたが「好き」。
友達に対して使う「好き」だ。たぶん。まだ、たぶん。
ノートを閉じて、棚に戻した。
ピアノの前に座った。蓋を開ける。鍵盤に指を置いた。
今日の発声は、Cmから始めてみようと思った。
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その週の終わり。
金曜日の夜。
綴がスタジオに入ると、外はまだ雨だった。一週間ずっと降っている。廊下の窓から、キャンパスの街灯がにじんで見えた。
ノートを開いた。
咲の返事を読んだ。
「ノートの中のあなたが好き」。
「黙るのも、書くのも、全部あなたでしょ」。
綴は、そのページを長い間見ていた。
ノートを膝に置いて、椅子に座ったまま、天井を見上げた。防音室の天井。白い吸音材。蛍光灯の光。
——好き、って書いてある。
この人が、あたしの言葉を好きだと言っている。
あたしが書き散らした、くだらない食べ物の話や、傘の話や、雨の音の話を。全部読んで。好きだと。
頬が熱い。目の奥が、きゅっと痛くなった。泣きそうなのか、笑いたいのか、自分でもわからない。
「黙るのも、書くのも、全部あなたでしょ」。
そうだろうか。
そうだといいのに。
ノートの中のあたしと、教室の中のあたしが、同じ人間だと思ってもらえるなら。
でもあたしは知っている。教室で黙っているあたしを見たら、この人はきっと驚く。ノートの中の饒舌で、図々しくて、感情的なあたしと、現実の、声の出ない、目を合わせられない、何も言えないあたし。同じだなんて、思えないだろう。
頭を振った。
今はいい。今はまだ、ノートの中にいる。ノートの中で、この人と話している。それだけで、十分だ。
窓のないこの部屋からは見えないけれど、外の雨がやんだ気配がした。空調の音の向こうに、かすかに鳥の声が聞こえた気がした。
パソコンを開こうとして、やめた。
ペンを取った。ノートの新しいページを開いて、ペンの先を紙に置いた。
何も書かずに、しばらくそうしていた。
やがて、手が動いた。文字ではなく、線を引いた。ゆるやかなカーブ。その上にもう一本。もう一本。
小さな虹を描いた。
七色じゃなくて、三色だけの虹。赤と青と、その間の紫。ペンの色は青一色しかないから、線の太さと角度で色の違いを表した。
虹の下に、ウサギがいる。傘を閉じて、空を見上げている。
その横に、一行だけ。
> いつか、声で話せたらいいのに。
ペンを置いた。
指先が震えていた。
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翌朝。
咲はノートを開いた。
虹のイラストが目に入った。小さなウサギが、傘を閉じて空を見上げている。三色の虹。
そして、一行。
> いつか、声で話せたらいいのに。
咲はノートの上に、そっと手を置いた。
ウサギの絵の上に。虹の上に。「いつか」の文字の上に。
401号室の窓はない。外の天気はわからない。でも昨日の帰り道、空に虹が出ていたのを咲は知っている。夕方の五時頃、雨がやんで、東の空に。
この人も、あの虹を見たのだ。同じ虹を。同じキャンパスの、どこかで。
「いつか」。
——あたしも、あなたの声が聴きたい。
口に出さなかった。ペンも取らなかった。ただノートの上に手を置いて、しばらくそうしていた。
空調の音。防音室の静けさ。朝の光は入ってこない窓のない部屋。
でも、ノートの中に虹がある。
それだけで、この部屋は少しだけ明るかった。




