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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第4章 紙の上の距離

五月の朝は、空気がやわらかい。


春日咲は自転車のペダルを踏みながら、川沿いの道を走っていた。風が頬を撫でる。四月の冷たさは消えて、今は少しだけ温い。ツツジが咲いている。赤と白が交互に並んで、道路の縁をなぞるように続いている。


自転車を停める。正門を抜ける。守衛さんが手を挙げた。


「おはよう。今日も早いね」


「おはようございます」


いつもの挨拶。でも最近は、この朝の道が少しだけ違う。足取りが軽いのだ。理由はわかっている。わかっているけれど、口には出さない。


四階。突き当たり。401号室。


ドアを開ける。蛍光灯を点ける。窓を少し開けて、朝の空気を入れる。


視線が、棚に向かった。


緑色のノート。


あった。今日もある。


棚の上に、そっと置かれている。でも確実に、あたしに読まれることを知りながら置かれたノート。


手に取る。重さは最初の頃と変わらない。でも中身は、あの頃よりずっと増えている。最初は余白に一行だけだったやりとりが、いつの間にかページを丸ごと使うようになっていた。


開いた。昨日の自分の書き込みから、数ページ後。


---


> 深夜のテレビで動物の番組がやってた。ツバメの巣立ちの回。親ツバメが何度も飛ぶ姿を見せて、子ツバメに「ほら、こうやるんだよ」って教えてるんだけど、子ツバメが全然飛ばない。巣の縁で首を出して、下を見て、また戻る。それを六回繰り返して、七回目でやっと飛んだ。

>

> あたし、六回首を出して戻る側の人間だなって思った。七回目があるかは知らない。


咲はノートを読みながら、息を止めた。


次の行。


> あと、あの番組のナレーション好き。声がいい。低くて落ち着いてて、でもときどきふわっと上がる瞬間がある。声に温度がある人っていいなと思う。あなたの声も温度があるのかな。聞いたことないけど。


「あなたの声」。


咲は、そのページに指を置いた。


この人は、あたしのことをまだ知らない。顔も名前も声も知らない。あたしが声楽科であることも知らない。たぶん。あたしの声がどんな音か、想像すらしていないかもしれない。


でも「声に温度がある人がいい」と書いた。


それが、なぜかとても嬉しかった。


ピアノの前に座った。今日の発声は、いつもより丁寧にやろうと思った。


---


発声を終えて、水を飲んだ。時計を見る。六時四十分。


ピアノの蓋を閉じる前に、ノートを開いた。ペンを取る。


三週間前は、書き込むたびに手が震えていた。今はもう震えない。でも少しだけ緊張する。どの言葉を選ぶか、どこに置くか。相手に届くように。届いて、温かいと思ってもらえるように。


書いた。


> ツバメの話、好き。六回戻るの、わかる。あたしも舞台の袖で何度も「まだ出なくていい」って思う。でも七回目は来るよ。来なくても、六回首を出したこと自体がすごいと思う。

>

> 声に温度があるかは自分じゃわからないな。でも、あなたの文字には温度があると思う。読むたびに、手のひらが温かくなる気がする。


書き終えた。読み返す。「手のひらが温かくなる」。言いすぎだろうか。でもそう感じるのだから仕方ない。ボールペンは消せない。


ノートを棚に戻した。


---


一限のイタリア歌曲の講義。


教授がベッリーニのアリアについて話している。カスタ・ディーヴァ。月の女神に捧げる祈りの歌。メロディラインの美しさと、それを支える呼吸のコントロール。


咲はノートを取りながら、頭の半分で別のことを考えていた。


あの人は、音楽を作る人だ。


ノートに五線譜が書いてあった。最初に見たあのメロディ。明るいのに翳りがあって、寂しいのに温かかった。あれからも、ときどき新しいフレーズが書き足されている。


あの人が作る音楽を、ちゃんと聴いてみたい。


五線譜から読み取る断片じゃなくて、実際に鳴っている音を。


でも、それを知ったら、この距離が変わる。


今のままがいい。紙の上の距離。名前も顔も知らない、声も聞いたことがない。でも木曜の学食が好きなことは知っていて、ツバメの七回目を信じていることは知っていて、深夜のテレビを観ていることも知っている。


世界で一番不思議な距離だと思った。


「春日さん」


顔を上げた。教授が咲を見ている。


「次のフレーズ、歌ってみてくれるかな」


立ち上がった。楽譜を持つ。息を吸う。


歌った。


ベッリーニのメロディが教室に広がった。長いレガートのフレーズ。月の光みたいに静かで、でも芯がある。


歌い終えた。教室がしんとしている。


「うん」教授がうなずいた。「声は出てるね。よく通ってる。——でもまだ、届いてない」


咲は息を止めた。


「技術的には申し分ない。でもこのアリア、ノルマは月に祈ってるんだ。祈りって、声を出すことじゃない。届けることだよ」


席に戻った。


ノートを閉じる。指先が少しだけ冷たかった。


---


昼休み。


涼が紙コップのコーヒーを持って現れた。キャンパスのベンチ。五月の日差しは明るいけれど、木陰は涼しい。


「さっきの歌、よかったよ」


「……先生には届いてないって言われた」


「先生は先生の耳で聴いてるから。私の耳には届いてた」


咲は涼を見た。涼はいつも通りの涼しい顔で、コーヒーをすすっている。黒髪が風に少し揺れている。


「涼って、優しいよね」


「事実を言ってるだけ」


沈黙。木の上で鳥が鳴いている。五月の風が、ベンチの古い木の匂いと日向のコンクリートのぬるい匂いを運んでくる。どこか遠くからツツジの甘さも混じっている。


「ねえ、涼」


「うん」


「声が出てるのと、届くのって、何が違うんだと思う?」


涼はコーヒーの紙コップを回しながら、少し考えた。


「相手がいるかどうかじゃない?」


「相手?」


「声を出すだけなら、壁に向かっても出せる。でも届けるなら、相手がいる。相手のことを考えて、その人に向かって声を出す。たぶんそこが違う」


咲はベンチの背もたれに体を預けた。木漏れ日が腕の上で揺れている。


相手のことを考えて。


あの人のことを考えて。


ノートに向かって書いている時、あたしは確かに「あの人」のことを考えている。この言葉がどう届くか、どう受け取られるか。相手の顔は見えないのに、相手の輪郭だけははっきりしている。


声を出す時も、そうすればいいのだろうか。


「最近楽しそうだね」


涼が言った。唐突に。


「……え?」


「朝の練習から一限までの咲。ふわふわしてる。先週もそうだった。先々週もそう」


「してないよ」


「してる。口角が四ミリくらい上がってる」


「……前は三ミリだったのに、上がってる」


「そう。経時変化」


咲は笑ってしまった。涼は笑わない。でも目の端が少しだけ緩んでいるのが見える。


「ちょっとね」


「うん」


涼はそれ以上訊かなかった。いつもそうだ。気づいて、言って、それで終わり。


咲は空を見上げた。雲がゆっくり動いている。


今夜、あの人は、あのノートを開くだろう。咲の書いた言葉を読む。ツバメの話への返事を。声の温度の話を。


そして何か、書いてくれる。


それを、明日の朝、あたしが読む。


この繰り返し。紙の上を行ったり来たりするこの小さな往復が、一日の中で一番待ち遠しい時間になっている。


---


夜。


スタジオ401。


如月綴はドアを閉めて、防音室の静けさの中に立った。空調の低い唸り。スタンドライトの柔らかい光。朝の空気の名残がかすかに残っている。窓を開けた誰かがいた痕跡。あの人の匂いだろうか。


棚の上の、緑色のノート。


手に取った。ページを開く。


---


> ツバメの話、好き。六回戻るの、わかる。あたしも舞台の袖で何度も「まだ出なくていい」って思う。でも七回目は来るよ。来なくても、六回首を出したこと自体がすごいと思う。

>

> 声に温度があるかは自分じゃわからないな。でも、あなたの文字には温度があると思う。読むたびに、手のひらが温かくなる気がする。


---


綴は、そのページをしばらく見ていた。


「あなたの文字には温度がある」。


指先が、その文字に触れた。丸くて、少し右に傾いた筆跡。三週間分のやりとりで、もう見慣れた文字。でも慣れない。この人の文字を読むたびに、胸の奥がじんわりと温くなる。


——舞台の袖。


この人は、舞台に立つ人なのだ。


学科はわからない。名前もわからない。でも舞台の袖に立って、「まだ出なくていい」と思って、それでも出る人。


人前に出て、何かを届ける人。


あたしとは、正反対だ。


椅子に座った。ノートを膝の上に置く。パソコンはまだ開かない。今日はまず、この人の言葉を読み返したい。


ページを遡った。三週間分のやりとり。ノートの半分近くが、もう二人の文字で埋まっている。最初はあたしの走り書きの隙間に一行だけだった返事が、今では見開き一ページを超えることもある。


最初は食べ物の話ばかりだった。木曜の学食。月曜の修行中。水曜の凡庸。コンビニのプリン。図書館前の自販機のミルクティー。


少しずつ変わった。


この人が食べ物以外のことを書き始めたのは、一週間くらい経ってからだった。弟の話。朝が得意なこと。季節の変わり目に鼻がむずむずすること。


そして、声の話。


> 声が出てるのと届くのは違うんだって。先生に言われた。ちょっと悔しい


綴はその文字をなぞった。


——あたしは、声が出ない。


出ないから、届くとか届かないとか、そういう次元にいない。


でもこの人は、声が出て、それでも「届いていない」と言われる。声を出せることが当たり前の世界にいて、その先にある壁にぶつかっている。


同じ苦しみじゃない。全然違う場所にいる。


でも、壁の前に立っている感覚は、似ているかもしれない。


ペンを取った。


---


> 声が出てるけど届いてないって、悔しいよね。あたしは声が出ないから、届くとか以前の問題なんだけど。でもあなたの文字はちゃんと届いてるよ。毎回。

>

> 「届く」って何だろう。技術じゃない気がする。たぶん、その声が誰に向かってるか——の問題なんじゃないかな。壁に向かって歌ったら壁に届くし、人に向かって歌ったら人に届くし。

>

> あたしは今、あなたに向かって書いてる。だから届くといいなと思う。


---


書き終えた。


読み返す。最後の一行。「あなたに向かって書いてる」。


顔が熱くなった。


これは、言いすぎじゃないか。


でも本当のことだ。あたしは毎晩、この部屋でノートを開いて、あの人に向かって書いている。壁にも、天井にも、自分にも向かっていない。あの丸い字を書く人に向かって。


消せない。ボールペンだから消せない。


いつもこうだ。手が先に動いて、頭が後から追いつく。口からは一言も出ないのに、手からは出すぎる。


ノートを閉じた。


パソコンを開いた。DAWの画面。先週から作り始めた新しい曲のプロジェクト。


ヘッドホンを被る。


再生ボタンを押した。自分が作った音が耳に流れ込む。ピアノとシンセの柔らかい音。四小節目から入るストリングスのフレーズ。


違う。


ストリングスの音色が合っていない。もっと——もっと、温かい音がほしい。「手のひらが温かくなる気がする」って書いてくれた、あの温度みたいな音が。


ストリングスのパラメータを触った。アタックを少し緩くして、リリースを伸ばす。高域を少し削って、低域に厚みを加える。


もう一度再生する。


近い。でもまだ足りない。


ここにあの人の声があったら、と思った。


どんな声なんだろう。舞台の袖に立つ人。声が出て、でもまだ届いていないと言われる人。その声が、この曲の上に乗ったら——


頭を振った。ばかなことを考えている。


知らない人の声を曲に乗せる妄想をしている場合じゃない。


ストリングスの調整に戻った。


---


午前0時を過ぎた。


曲の作業を終えて、最後にもう一度ノートを開いた。


さっき書いたページの後に、もう少しだけ書き足す。


> 今日も曲を作った。ストリングスの音色をいじってたんだけど、「温かい音」ってどうやって作るんだろうって考えてた。たぶん正解はないんだけど。

>

> 明日このノートを開くのが、一日の中で一番楽しみな時間になってる。これって普通のことなのかな。普通じゃないかも。でも普通じゃなくてもいい。普通のことは他の人に任せる。


ペンを置いた。


ノートを棚の上に戻す。いつもの場所。いつもの角度。


---


立ち上がって、パソコンの電源を落とした。スタンドライトを消す。


部屋が暗くなる。


ドアを開ける前に、一瞬だけ振り返った。暗闇の中、棚の上にノートの輪郭がかすかに見える。非常口の緑の光が、窓のないこの部屋にもわずかに届いている。


あの人は明日の朝、ここに来る。


あたしの書いた言葉を読む。


「あなたに向かって書いてる」を読む。


——恥ずかしい。


でも、楽しみだ。


廊下に出た。蛍光灯の光。階段を下りる。一階の出口を押し開けると、五月の夜気が頬を包んだ。四月より甘くて、どこか青い匂いがする。中庭のツツジが盛りを過ぎようとしていた。


自転車に乗った。ペダルを踏む。夜のキャンパスを抜ける。


明日の講義は一限からある。グループワークの日だ。


あたしは明日も、教室の端にいるだろう。環の隣で、黙って、頷いて、最低限の単語だけ返して。


ノートの中のあたしと、教室の中のあたしは、同じ人間のはずなのに。


ノートを読んでいるあの人は、どっちのあたしを知っていると思うんだろう。


考えても答えは出ない。ペダルを漕いだ。五月の夜風が、少し汗ばんだ首筋を冷やしていった。


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