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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第3章 見知らぬ筆跡

「ない。ない、ない、ない」


声にならない声が喉の奥で転がった。如月綴は鞄の中を探った。ファイル。教科書。ペンケース。イヤホンのケース。充電器。ノートパソコン。


ない。


緑色の表紙のノート。創作ノート。あたしの全部が書いてあるやつ。


鞄をひっくり返した。中身がスタジオ401の床に散らばる。ペンが一本、転がって机の脚にぶつかった。


ない。


胸の奥が冷たくなった。指先が冷える。呼吸が浅くなる。


あのノートには、全部書いてある。日記みたいな走り書き。思いついたメロディ。描きかけのイラスト。誰にも見せない愚痴。誰にも言えない本音。口から出せなかった言葉の、全部。


なくした? どこで? 電車? 教室? いや。


視線が棚に向かった。


あった。


棚の上。緑色の表紙。角が少し潰れた、見慣れたノート。


息が漏れた。体から力が抜ける。


昨日、ここに置いたのだ。曲を作ることに集中して、鞄に入れ忘れて帰った。二日前の夜のことだ。


手を伸ばした。ノートを取る。重さは変わらない。表紙も同じ。でもどこか、かすかに違う匂いがした。自分のインクとは別の、知らない石鹸のような清潔な香りが、表紙にうっすらとまとわりついている。


開いた。


---


最初は、気づかなかった。


いつものページ。食堂の日替わりの話を書いたページ。走り書きの文字。自分の筆跡。見慣れたインクの色。


——その隣に。


別の文字があった。


> あたしも今日の日替わり好きでした。あの調理師さん、木曜だけ味が違う気がする


綴の手が止まった。


視界が一瞬、ぼやけた。焦点が合わない。文字を見ているのに、頭が理解を拒んでいる。


誰かが、書いた。


このノートに。


あたしの文章を読んで、返事を書いた。


ノートを閉じた。


手が震えている。指先だけじゃなく、手首まで。頬が熱い。耳が熱い。首の後ろまで熱い。


読まれた。


あの——何の飾りもない、剥き出しの言葉を。口から出せなかった代わりにノートに書き散らした、あの恥ずかしい独り言を。全部。


猫を十五分見ていた話も。プリンを温める話も。お母さんの電話に出られなかった話も。喉の検閲の話も。自己紹介で十二文字しか言えなかった話も。


全部、読まれた。


椅子に座った。立っていられなかった。


膝の上にノートを置いて、両手で顔を覆った。指の隙間から、蛍光灯の白い光が漏れる。防音室の空調が、低い音で唸っている。


最悪だ。


死にたいくらい恥ずかしい。


知らない人が、あたしの内側を覗いた。鍵もかけずに開けっ放しにしていたのは自分だけど、まさか誰かが開けるとは思っていなかった。だってここは夜中のスタジオで、朝まで誰も来ないはずで。


朝。


朝、来る人がいるのだ。


机にかすかに残っていたインクの匂いの意味が、今、わかった。あたしが夜に使って、朝に別の誰かが使っている。その人が、ノートを見つけた。


五分くらい、そのまま動かなかった。


---


深呼吸をした。一回。二回。三回。


手を下ろした。膝の上のノートを見た。緑色の表紙。


もう一度、開いた。


見知らぬ筆跡を、今度はちゃんと読んだ。


> あたしも今日の日替わり好きでした。あの調理師さん、木曜だけ味が違う気がする


丸くて、少し右に傾いた文字だった。ボールペンの、滑らかで安定した線。筆圧が均一で、書き慣れた人の字。でも最後の「する」だけ、ほんの少し線が揺れている。指で触れると、紙にかすかな凹みがあった。ここだけ、少しだけ力が入っている。


……たったそれだけだった。


嘲笑じゃない。「何これ」でも「気持ち悪い」でもない。攻撃でも、哀れみでも、好奇心の覗き見でもない。


「あたしも」。


たった五文字。あたしも、好きでした。あたしが何百字も書き散らしたノートの余白に、この人はたった五文字を置いた。それなのに、その五文字がノートの何百字よりもずっと重い。


この人は、あたしの言葉を読んで、笑わなかった。馬鹿にしなかった。ただ、同じものが好きだと言ってくれた。


木曜の日替わりが特別に美味いこと。あたしの中だけにあった小さな秘密を、この人も持っていた。


綴はノートの上の、見知らぬ筆跡に指で触れた。インクはとっくに乾いている。でも、その文字がまだ温かいような気がした。


---


返事を書くかどうか、四十分くらい迷った。


パソコンの電源を入れた。曲の続きをやろうとした。できなかった。DAWの画面を開いても、波形が頭に入ってこない。ノートがずっと、視界の端にある。


ペンを手に取った。置いた。また取った。また置いた。


書いたら、どうなる。


返事を書いて、ノートをここに置いておいたら、朝の人がまた読む。そしてまた返事を書くかもしれない。


それは——会話だ。


顔も名前も知らない、声も聞いたことがない誰かとの、紙の上の会話。


怖い。


でも。


あの「あたしも」が、まだ胸の中で温かい。


書きたい。この人に、返事がしたい。声は出ないけど、文字なら出る。いつもそうだ。口は閉じても、手は止まらない。


ボールペンのキャップを外した。


咲が書いた文字の下に、小さく書いた。


> 木曜の味が違うの、気づいてる人いたんだ。あたし一人だけの幻かと思ってた。木曜の調理師さんは天才だと思います。月曜の人は修行中だと思います(小声)


書き終えた。


読み返す。ノートの中のあたしは、こんなふうに軽口を叩ける。口からは一言も出てこないのに、ペンを持つとこうなる。月曜の人に失礼かもしれない。でも事実だし。消せないし。ボールペンだし。


少しだけ、口元が緩んだ。


---


ノートを閉じて、棚の上に置いた。


今度は、忘れたからじゃない。


ここに置けば、朝の人が見る。あたしの返事を読む。そしてたぶん——また何か書いてくれる。


書いてほしい。


棚の上のノートをしばらく見ていた。緑色の表紙が、スタンドライトの暖かい光に照らされている。


何をしているんだろう、と思った。


知らない人と、ノートで会話をしようとしている。顔も名前も知らない。声も聞いたことがない。あたしが夜に使う部屋を、朝に使っている人。わかっているのはそれだけ。


でも、この人は木曜の学食が好きで、あたしの書いた言葉を読んで、笑わなかった。


それだけで十分だった。今は。


パソコンに向き直った。ヘッドホンを被る。DAWの画面。AmからFへの進行。昨日までずっと迷っていたブリッジのメロディが、不思議なほどするすると出てきた。


指が動く。音が重なる。画面の中で波形が生まれていく。


午前0時を過ぎても、綴はスタジオにいた。


---


翌日。


午前の講義に、全く集中できなかった。


教壇の向こうで教授がメディアアートの歴史について話している。スライドが切り替わる。ノートを取るふりをしている。でも頭の中にあるのは講義の内容じゃなくて、緑色のノートのこと。


あの人は、今朝来ただろうか。


ノートを開いただろうか。


あたしの返事を読んだだろうか。


月曜の調理師さんに怒っただろうか。笑っただろうか。


昼休み。学食。月曜日。


環が向かいに座った。


「綴、なんか今日ふわふわしてない?」


「……してない」


「してるよ。箸止まってるし、窓の外ばっかり見てるし」


「……見てない」


「見てた。三回」


綴は箸を動かした。日替わりは肉じゃが。醤油と出汁の匂いが湯気に混じって立ち上る。月曜の調理師さんの肉じゃがは、じゃがいもが少し固い。


——修行中。


ノートに書いた言葉を思い出して、口元が緩みそうになった。唇を引き結ぶ。だめだ。ここで笑ったら、環に何か勘づかれる。


「綴」


「ん」


「なんかいいことあった?」


「ない」


「嘘。表情が二ミリくらい柔らかい」


「……二ミリってなに」


「勘」


環はそれ以上訊かなかった。にこにこしながら肉じゃがを食べている。環のいいところは、追及しないところだ。気づいて、言って、それで終わり。


夜が待ち遠しかった。


スタジオ401の棚の上に、緑色のノートが置いてある。あの人の返事が、もう書いてあるかもしれない。


午後の講義は、もっと長く感じた。


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