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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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2/12

第2章 忘れ物

四月の朝は、まだ少し冷たい。


台所の窓から入ってくる空気に、味噌の温かい匂いが混じっている。炊きたてのご飯の湯気が、薄い朝の光の中をゆっくりと昇っていく。春日咲は一瞬だけ目を閉じて、その匂いを吸い込んだ。今日も、ちゃんと朝が来ている。


「颯太、起きなさい」


返事がない。


弟の部屋のドアを開けた。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。ベッドの上の布団がもぞもぞと動いた。


「あと五分……」


「五分前も同じこと言ったでしょ」


布団を引っ張った。颯太が小さく悲鳴を上げる。まだ寝汗の残る温かさが、布団の隙間からふわっと漂った。中学二年生の弟は、姉に叩き起こされるまで絶対に自力で起きない。


「朝ごはんあるから。味噌汁冷めるよ」


「……わかった」


颯太がのろのろと起き上がるのを確認して、咲はキッチンに戻った。


台所には、もう母がいた。卵焼きを切り分けている。咲の分の弁当箱が開いたままテーブルに置いてあって、ご飯だけ詰まっている。


「おかず入れちゃっていい?」


「お願い」


母の隣に並んで、卵焼きと、昨日の残りのきんぴらを詰めた。鮭を一切れ、ちょうどいい隙間に押し込む。弁当箱を閉じる。


「咲、今日も朝早いの?」


「うん。練習」


「朝ごはんちゃんと食べてから行きなよ」


「食べる食べる」


味噌汁をよそう。豆腐とわかめ。椅子に座って、ご飯を一口。味噌汁を飲む。朝の台所は明るい。窓から入る光が、食卓の上に四角く落ちている。


颯太がぼさぼさの頭でキッチンに現れた。


「……おはよ」


「おはよう。遅い」


「姉ちゃんが早すぎるんだよ」


「声楽科は朝が勝負なの」


「知らんし」


いつもの朝だった。


---


午前五時四十五分。家を出る。


空はもう明るい。四月の半ば。日が長くなってきている。空気はまだ冷たいけれど、冬のそれとは質が違う。冷たさの中に、柔らかさがある。


自転車で十五分。大学までの道は、住宅街を抜けて、川沿いを走って、正門まで一本道。信号が二つ。この時間は車もまばらで、ほとんどペダルを止めずに着く。


キャンパスに人はほとんどいない。守衛さんだけ。正門の横の小さな窓口に座っている守衛さんが、咲を見て軽く手を挙げた。毎朝見る顔だ。


「おはようございます」


「おはよう。今日も早いね」


「はい」


笑って通り過ぎる。


キャンパスの中は静かだった。木々の間を朝の風が抜けていく。どこかで鳥が鳴いている。建物の影がまだ長くて、地面に濃い線を引いている。


四階。突き当たり。401号室。


ドアノブを回す。開ける。蛍光灯を点ける。


いつもの部屋。ピアノ。机。棚。窓。防音材の微かな化学的な匂いと、昨夜この部屋を使った誰かの気配が、閉じ込められた空気の中にうっすらと残っている。


窓を少し開けた。朝の空気が入ってくる。冷たくて、湿っていて、中庭の土と若葉の匂いが流れ込んで、部屋の空気をすっと入れ替えた。


ピアノの前に座った。蓋を開ける。鍵盤が白と黒の列を並べて、静かに待っている。


最初の一音。


低いC。鍵盤を押すと、ピアノの弦が震えて、音が防音室に広がった。体の中に音が落ちていく感じがする。


息を吸った。深く。お腹の底まで。


声を出す。


低い音から始めて、スケールを上げていく。一音ずつ。喉の状態を確かめながら。今日は少しだけ喉が乾いている。水を飲んでから、もう一度。


二度目は良かった。声がまっすぐ伸びる。壁に当たって、跳ね返って、自分の体に戻ってくる。防音室の中で声が循環する。自分の声で満たされた空間。


ここが好きだった。


舞台の上も好きだ。客席に声を届ける瞬間、体中の細胞が開くような感覚がある。でもこの小さな部屋で一人で声を出す朝の時間も、同じくらい好き。


自分の声と、自分だけ。余計なものがない。


発声を三十分。スケール、アルペジオ、レガート。それから今度のレッスンで歌う曲のフレーズを何度か通した。イタリア歌曲。母音の響かせ方がまだしっくりこない箇所がある。


もう一度、そこだけ繰り返す。三回目で、少し近づいた気がした。


水筒の水を飲んだ。時計を見る。六時四十分。そろそろ出ないと、一限に間に合わない。


荷物をまとめる。ピアノの蓋を閉じる。窓を閉める。


部屋を出ようとして、ふと目が止まった。


棚の上。


ノートが一冊、置いてある。


---


A5サイズの、緑色の表紙。角が少し潰れている。背表紙に折り癖がついていて、何度も開かれたことがわかる。


昨日はなかった。たぶん。いや、昨日はあの棚を見ていなかっただけかもしれない。


忘れ物だろう。


手に取った。表紙に名前はない。シールもラベルもない。ただの緑色のノート。指先に紙の手触りが伝わる。ざらりとして、少し温もりがあるような気がした。ページの端がわずかに波打っている。湿気を含んで、乾いて、また含んでを繰り返した紙の記憶。


落とし物として事務局に届けるべきだと思った。思ったけれど、手が勝手にページを開いていた。


名前がないから、誰のものかわからない。中を見れば手がかりがあるかもしれない。ページを開いた瞬間、ボールペンのインクの匂いがかすかに立ち上った。


言い訳だった。自分でもわかっている。


最初のページ。


イラストが描いてあった。ウサギ。長い耳を垂らして、少し困ったような顔をしている。線が細くて、でも迷いがない。一本一本に意志がある感じの線。上手い。上手いというか、この人の描く線が好きだと思った。


次のページ。五線譜が走り書きされている。ト音記号が少し歪んでいて、音符が並んでいる。咲は楽譜が読める。頭の中でメロディを鳴らしてみた。


きれいだ、と思った。


短いフレーズだけど、どこか切ない旋律。メジャーキーなのに、ところどころ翳りがある。明るいふりをしている寂しさみたいな音。


もう少し読みたくなった。


ページを捲る手が止まらなかった。


五線譜の隣に、文章が書いてある。日記のようで、日記じゃない。日付もない。ただ思いついたことを、そのまま書き連ねたような文章。


> 図書館の階段で猫を見た。三階の窓から入ったらしい。司書さんが困ってた。でも追い出せないでいた。猫はこたつみたいに丸くなってて、あたしは十五分くらいそれを見てた。授業には遅刻した。でもあの猫の丸まり方は授業より価値がある。絶対。


咲は思わず口元がほころんだ。


次。


> 深夜のコンビニでプリンを買った。レジの人が「温めますか?」って聞いてきた。プリンを。プリンを温める世界線があるなら行ってみたい。でもちょっと気になったから今度試す。温かいプリンって茶碗蒸しじゃない? いや、甘い茶碗蒸しか。最悪かも。いや最高かも。


笑ってしまった。声に出して。防音室でよかった。


読み進める。笑えるものだけじゃなかった。


> 電話、出られなかった。お母さんからの。着信が光ってるのをずっと見てた。出たかった。でも声が出ない。画面が暗くなるまで見てた。あとでLINEした。「ごめん、授業中だった」って。嘘。授業なんかない。ただ声が出なかっただけ。


咲の手が止まった。


> 声が出ないのと、話すことがないのは違う。あたしは話すことだらけだ。頭の中はいつもうるさい。うるさいのに出口が詰まってる。水道管が錆びてるみたいに。中に水はあるのに、蛇口からは一滴も出ない。


ページの端に、小さなウサギが描いてあった。さっきのとは違って、耳を片方だけ立てている。困っているようにも、聞き耳を立てているようにも見える。


この人は、声が出ないのだ。


話したいことがたくさんあるのに、声が出ない人。


だからノートに書いている。ここに、全部。


咲はノートを持ったまま、しばらく動けなかった。


---


ページを捲った先に、食べ物の話があった。


> 食堂の日替わり、今日だけ異常に美味かった。あの調理師さんが天才なのか、あたしの舌がバグってるのか。木曜日。木曜日だけ味が違う気がする。木曜の調理師さん、たぶん前世がイタリアのおばあちゃんだったんだと思う。


咲は息を止めた。


木曜の日替わり。あの、煮込みハンバーグ。


あたしも好きだった。木曜日だけ味が違うのに、ずっと気づいていた。


誰かと共有したことは一度もなかった。木曜の学食が特別に美味しいなんて、言う相手がいなかった。涼に言ったことはあるけれど、「そう?」で終わった。


この人は気づいている。同じことに。


書きたい。


そう思った瞬間には、もう手が動いていた。鞄からペンケースを出す。ペンを取る。キャップを外す。


走り書きの横の、わずかな余白に、小さく書いた。


「あたしも今日の日替わり好きでした。あの調理師さん、木曜だけ味が違う気がする」


書いた。


書いてしまった。


ペンを置いた。指先が震えている。


他人のノートだ。名前も知らない人の、たぶん誰にも見せるつもりのないノートに、勝手に書き込んだ。


最悪だ。消したい。でもボールペンだから消せない。


頭が熱い。やってしまった。どうしよう。


でも。


この言葉を書いた人と、話してみたかった。


声が出ないなら、文字でいい。あたしの声がこの人に届くなら、文字だっていい。


木曜の学食が美味しいこと。猫の丸まり方に授業よりも価値があること。深夜のプリンのこと。あたしもそう思う、って伝えたかった。ただ、それだけのことだった。


ノートを閉じた。


棚に戻す。元あった場所に。角度まで同じになるように、そっと置いた。


手が震えている。


---


廊下に出た。蛍光灯の白い光がまぶしい。


階段を降りながら、自分の顔が熱いのがわかる。やばいことをした。でも後悔はしていない。後悔していないことが、たぶん一番やばい。


一階のロビーで成瀬涼が待っていた。一限が同じ講義だ。涼は紙コップのコーヒーを持って壁にもたれている。黒髪をひとつに結んで、いつも通りの涼しい顔。


「おはよう」


「おはよ」


涼が咲を見た。一瞬、目を細めた。


「何かいいことあった? 顔がにやけてる」


「にやけてない」


「にやけてる。口角が三ミリくらい上がってる」


「……三ミリってなに」


「客観的事実」


咲は口元を手で押さえた。だめだ。笑いが止まらない。


木曜の学食。猫の十五分。温かいプリン。声の出ない水道管。


あの人は、今夜もあの部屋に来るのだろうか。


ノートを開いて、あたしの文字を見つけるのだろうか。


「咲?」


「なんでもない。行こ」


歩き出す。四月の朝のキャンパスは明るくて、木漏れ日が足元に揺れていた。涼が隣を歩いている。講義棟に向かう道で、何人かの同級生とすれ違って「おはよう」を交わす。


いつもの朝だった。


いつもの朝のはずだったのに、空気の色が少しだけ変わっている気がした。


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