第1章 共有スタジオ401
夜の奏明芸術大学は、昼間とは別の建物になる。
廊下の蛍光灯は半分だけ点いていて、等間隔に明暗が繰り返される。足音が響く。自分のスニーカーの音だけ。非常口の緑色の光が、角を曲がるたびに目の端を掠める。
四階。突き当たりの401号室。
如月綴はドアノブに手をかけた。金属のひんやりした感触が、指先に馴染む。毎日触っているから、ここが冬は凍えるほど冷たくて、夏はじんわり生温いことを知っている。
ドアを開けた。防音扉が閉まると、世界が変わる。
キャンパスの虫の声が消える。空調の微かな唸り。それだけ。防音材と古い木材の匂い。乾いた、少し埃っぽい、でも嫌いじゃない匂いがする。この部屋の匂い。
スイッチを入れると、蛍光灯ではなくスタンドライトが点く。デスクの上だけが暖かい色に浮かび上がる。部屋の隅にアップライトピアノ。壁際に作業机。棚には誰のものかわからないファイルや楽譜が詰まっている。
綴はリュックを下ろし、ヘッドホンを首にかけた。ノートパソコンを開く。画面の青白い光が顔を照らした。
DAWのプロジェクトファイルを開く。昨日の続き。
まだ骨組みしかない曲。四小節のフレーズがループしている。ヘッドホンを耳に当てると、外の世界が完全に消える。自分の呼吸と、音と、画面の光。それだけの世界。
鍵盤に指を置いた。
コードを一つ変えた。CからAm。明るかった響きが、少しだけ翳る。
もう一度。Am7。翳りの中に、甘さが混じる。
いい。こっちのほうがいい。
次のフレーズ。鍵盤の上で指が迷う。二つの音の間を行き来して、どちらかに決めかねる。右手が宙に浮いたまま止まった。
数秒。
片方を選んだ。Fの音。押した瞬間、指先に確信が落ちてくる。これだ。
画面に向き直る。ピアノロールの画面にマウスでノートを置いていく。四角い粒が横に並ぶ。微調整。ベロシティを一つずつ変えて、強弱をつける。クオンタイズを外して、わずかにタイミングをずらす。完璧に揃った音は、綴には気持ち悪い。人間の手が弾いたみたいに、ほんの少しだけ揺れている方がいい。
時計を見なかった。ここでは見ない。時間は、この部屋の外にあるものだ。
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作業に区切りがついたのは、喉が渇いたからだった。
ヘッドホンを外すと、静寂が戻ってくる。空調の音。それだけ。
廊下の自販機でペットボトルの水を買った。蛍光灯が三本に一本しか点いていない廊下は、昼間よりずっと広く見える。誰もいない。
足元の影が、蛍光灯の下を通るたびに濃くなったり薄くなったりする。
この時間の大学が好きだった。
昼間は人が多い。声が多い。視線が多い。どこにいても誰かの目があって、誰かの声が聞こえて、そのたびに体の中の何かがきゅっと縮む。
夜は、いない。
誰も。
水を飲みながら窓の外を見た。キャンパスの街灯がぽつぽつと並んでいる。四月の夜気は冷たくて、ガラス越しでもそれが伝わる。遠くに車のヘッドライトが一つ、ゆっくり横切っていった。
401に戻る。ドアが閉まる。また、自分だけの世界。
ノートパソコンの隣に、一冊のノートが開いたまま置いてある。A5サイズの、緑色の表紙。角が少し潰れている。鞄の中でいつも他の荷物に押されているから。
創作ノート。綴がいつも持ち歩いている、何でも帳。
ページを捲ると、描きかけのイラストがある。ウサギのキャラクター。長い耳を垂らして、少し困ったような顔をしている。その隣に五線譜の走り書き。ト音記号が少し歪んでいる。余白には、日記みたいな文章がぎっしり書いてある。
ボールペンを取った。キャップを外す音が、防音室に小さく響いた。
書き始める。
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> 今日の自己紹介、また死んだ。
>
> 名前と「よろしくお願いします」だけ。十二文字。去年も十二文字だった。去年と同じってことは来年も同じってことでしょ。再来年もその次も。卒業式のスピーチも十二文字? さすがに嘘でしょ。
>
> 隣の席の子がめちゃくちゃ堂々と趣味の話してて羨ましかった。好きなものを好きって言える人ってすごい。あたしだったら「趣味は」の時点で喉が閉じる。
>
> あたしも本当は言いたいことが山ほどあるのに、口を開くと全部消える。喉のところに検閲が住んでる。あたしの言葉を、出荷前に全部ボツにする小さい役人が。
>
> いや、違うな。消えるんじゃなくて、出口を間違える。口からは出ないのに、手からは出る。こうやってノートに書くと止まらないし、曲も止まらないし、コードも止まらない。出口が口じゃないだけで、あたしはたぶん相当うるさい。
>
> そのひとりだけだな、あたしが何か作ってるの見ても「何それ?」って普通に訊いてくるの。普通に。それがどれだけありがたいか、たぶんあの子は知らない。
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ボールペンを置いた。指先にインクの匂いが残っている。
時計を見た。午前0時14分。
立ち上がる。ノートを閉じて、鞄に入れた。パソコンの電源を落とす。スタンドライトを消す。部屋が暗くなる。
ドアを開けると、廊下の蛍光灯が目に刺さった。三本に一本の、控えめな明るさでも、401号室の闇の後ではまぶしい。
鍵は閉めない。共有スタジオだから。次に使う人がいつ来ても開いている。
廊下を歩く。自分の足音だけ。階段を下りる。非常口の緑が光る。一階の出口を抜けると、四月の夜の空気が頬に触れた。冷たくて、少しだけ湿っていて、どこかから花の匂いがする。
自転車に乗った。キャンパスの街灯を数えながら、正門を抜ける。
振り返らない。明日の夜もここに来る。明後日も。
スタジオ401は逃げない。
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午前6時03分。
春日咲は、まだ薄暗いキャンパスを歩いていた。
空は白み始めていて、建物の輪郭がうっすらと浮かんでいる。空気が冷たい。吐く息は白くないけれど、首筋がひやりとする程度には冷えている。四月の朝。
四階。突き当たり。401号室。
ドアノブに手をかける。開ける。
部屋は暗い。かすかに、防音材の乾いた匂い。スイッチを入れると蛍光灯が点いて、白い光で部屋が満たされた。
ピアノの前に立つ。蓋を開ける。鍵盤に指を置いた。
発声練習の前に、いつもこうする。鍵盤に触れて、最初の音を決める。今日の喉の調子を確かめるように、低い音をひとつ鳴らす。
ぴん、と。
音が防音室の空気を揺らした。壁に吸い込まれて、すぐに消える。
咲は息を吸った。深く。横隔膜を下げて、肋骨を広げて、空気を体の奥まで入れる。声楽科で最初に叩き込まれたこと。呼吸。すべての声は、呼吸から始まる。
まずリップロールから。唇をぶるぶると震わせながら、低い音からゆっくり上げていく。喉に力が入っていないことを確かめる儀式。それからハミング。鼻腔に響きを集めて、額のあたりに振動を感じる。声を出す前の、体の準備。
最初の声を出した。
母音で。低いところから。腹の底で支えて、喉を開いて、頭のてっぺんに向かって声を通す。
部屋が振動する。小さな防音室の空気全体が、咲の声で震える。自分の体が楽器になる瞬間。この感覚が好きだった。
スケールを上げていく。一音ずつ、丁寧に。喉の状態を確かめながら。今日は調子がいい。声がまっすぐ伸びる。高いところまで、引っかかりなく届く。
十五分ほど発声をして、一度休んだ。
水筒の水を飲む。机に手をつく。
——ふと、匂いに気づいた。
インク。
かすかな、ボールペンのインクの匂い。机の表面から、ほんのわずかに。
誰かが、最近ここで何か書いたのだろう。
咲は一瞬だけ机に目をやって、それから気にせずピアノの前に戻った。次はアルペジオの練習。左手で和音を押さえて、声でメロディラインをなぞる。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
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四月の教室は、まだよそよそしい。
去年と同じ顔ぶれもいるけれど、席替えがあって、隣の人が変わって、空気が微妙にリセットされている。新学期の教室には特有の緊張感がある。全員が少しだけ背筋を伸ばしている、あの感じ。
メディア芸術科2年の教室。午前の講義が始まる前の、自己紹介の時間。
「じゃあ次——如月さん」
名前を呼ばれた。
立ち上がる。椅子が小さく音を立てた。
教室の視線が集まる。三十人ぶんの目。
喉が詰まった。
いつもこうだ。頭の中には言葉がある。たくさんある。名前と、学科と、趣味と、好きなものと、今年やりたいことと——全部ある。全部あるのに、喉の奥のどこかで引っかかって、口から出てくるのは、
「如月綴です。よろしくお願いします」
それだけ。
座った。
隣の席から、ぱたぱたと拍手の音がした。大きすぎず、でもしっかり聞こえる拍手。
橘環が、にこにこしながら手を叩いていた。
「綴、今年もよろしくね」
「……うん」
環は何も言わなかった。自己紹介が短かったことも、声が小さかったことも、目が泳いでいたことも。何も指摘しない。ただ「よろしくね」だけ。
次の人が立ち上がった。
「橘環です! メディ芸2年です。趣味はゲーム実況を観ることで、最近はレトロゲーの配信にハマってます。自分でもちょっとやってみたいなって思ってるんですけど、まだ機材が——」
教室に笑い声が起きた。環は人前で話すのが上手い。声が通る。表情が動く。聞いている人を飽きさせない。
綴は、環の横顔を見ていた。
言えるのだ、この子は。自分が何を好きか、何をしたいか、どんな人間か。言葉にして、声にして、人前に出せる。
すごいなと思う。
羨ましいなとは——思わない。ように、している。
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昼休み。学食。
環が向かいに座った。唐揚げ定食。揚げたての油の匂いが漂ってくる。綴は日替わり。今日は煮込みハンバーグだった。
「今年のメディ芸、新入生多いらしいよ」
「……そうなんだ」
「オープンキャンパスの体験授業が好評だったんだって。去年の展示見て入りたいって思った子もいるみたい」
「……へえ」
「綴の去年の映像作品、すごかったもんね。あれ見て来た子いるかもよ」
綴は箸を止めた。
「……誰も知らないよ、私の名前」
「匿名出展だったからね。でも作品は覚えてる人いるんじゃない?」
綴は首を振った。あの映像作品は、提出したら終わりだ。誰が作ったかなんて、誰も気にしない。気にしなくていい。
名前が知られるのは、怖い。
作品は見てほしい。でも、作品の後ろに自分がいることは、知られたくない。
矛盾しているのはわかっている。
「ねえ綴」
「ん」
「声楽科にすごい子がいるって聞いた?」
「……知らない」
「春日咲って子。声が全然違うんだって。先輩たちもざわついてるらしいよ」
「ふうん」
相槌。箸を動かす。煮込みハンバーグは、今日はよく味が染みている。
春日咲。
名前だけが、頭の隅に引っかかった。すぐに消えるような引っかかり方で。
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夜。
スタジオ401。
ドアを開ける。防音扉が閉まる。世界が変わる。
今日の綴の日中が、扉の向こう側に置き去りにされる。自己紹介の十二文字も、教室の三十人の視線も、環以外の誰とも目を合わせられなかった事実も。全部。
スタンドライトを点ける。
パソコンを開く前に、ノートを開いた。ボールペンのキャップを外す。今日は曲より先に、書きたいことがある。
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> 友達が今年もあたしの隣の席だった。たぶん自分から選んで座ってる。あの子は何も言わないけど、あたしが一人にならないようにしてくれてる。ずっと。
>
> 入学式の日からそうだった。あたしが自己紹介で固まった時、最初に拍手してくれたのがあの子だった。あの拍手がなかったら、あたしはたぶんそのまま消滅してた。比喩じゃなく。
>
> あの子は「あたしのことわかってる」みたいな顔はしない。ただ隣にいる。それがどれだけ楽かわかる? 「大丈夫?」って訊かれるよりずっと楽。「大丈夫?」は「大丈夫じゃないでしょ」の別名だから。
>
> ——声楽科にすごい子がいるらしい。声が「全然違う」んだって。
>
> どんな声なんだろ。
>
> いや、別にどうでもいいか。声楽科の子なんて関わることないし。あたしは夜のスタジオでこそこそ曲作ってる側の人間で、舞台の上で声を響かせる側の人間じゃない。
>
> 住む世界が違う。
>
> ……でもちょっと気になる。「全然違う」ってどう違うんだろ。わざわざ話題にするくらいだから、相当なんだろうな。
>
> まあいいや。今日は曲の続き。AmからFに繋ぐところ、やっと決まった。あのFを見つけるのに三十分かかった。たった一音に三十分。でもその一音が全部を変える。全部を変える一音が好き。全部を変える一言が、あたしにも見つかればいいのに。
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ボールペンを置いた。
キャップをはめる音が、静かな部屋に小さく響く。指先にインクの匂い。
時計。午前0時11分。
パソコンを開いた。昨日の曲の続き。AmからF。ヘッドホンを被る。
外の世界が消える。
綴の指が鍵盤に触れた。防音室の空気が、小さく震えた。
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午前0時38分。
綴はスタジオの明かりを消した。ドアを閉める。
廊下を歩く。階段を下りる。一階の出口。四月の夜の空気。
自転車に乗って、キャンパスを出た。
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午前6時01分。
春日咲が、四階の廊下を歩いていた。スニーカーの底が、リノリウムの床を軽く叩く。
401号室。ドアを開ける。
蛍光灯を点ける。白い光。ピアノ。机。棚。いつもの部屋。
机に近づいた時、かすかに匂いがした。
インク。
昨日も感じた匂い。ボールペンの、少し甘いような、鉄のような匂い。
咲は首を傾げた。
「……誰か使ってるのかな」
声に出して言ってみた。防音室だから、自分の声が壁に吸い込まれて消える。
まあいいか。朝は誰もいない。それだけで十分だ。
ピアノの蓋を開けた。鍵盤に指を置く。今日の最初の一音を探す。
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同じ部屋。同じピアノ。同じ机。
一方は夜に来て、一方は朝に来る。
防音扉が閉まるたびに、どちらかの時間が始まって、どちらかの時間が終わる。
机の上に残る、かすかなインクの匂い。
それだけが、二人がすれ違っている唯一の証だった。
まだ、何も始まっていない。




