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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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7/12

第7章 金木犀の朝

十月。


朝、家を出た瞬間に、匂いが変わっていた。


甘い。どこか湿り気のある、でも透き通った甘さ。空気そのものに色がついたような匂い。


金木犀だ。


春日咲は自転車を止めて、一度だけ深く息を吸った。肺の底まで、秋の朝の匂いを入れる。


毎年、この匂いが来ると、何かが始まるような気がする。始まるというか、ここまで来たのだと。夏を越えて、秋まで来たのだと。金木犀の開花はたった二週間。この香りがある間だけの、秋の入り口。


ペダルを踏む。川沿いの道。街路樹の葉が黄色くなり始めている。風が少し冷たい。半袖の腕がひんやりする。もうすぐ長袖に切り替えるころだ。


正門を抜けた。守衛さんに「おはようございます」。守衛さんも「おはよう。金木犀きれいだね」。


キャンパスの中は、もっと匂いが濃かった。


正門からまっすぐ伸びる並木道の途中に、金木犀の植え込みがある。オレンジ色の小さな花が、びっしりと枝についている。朝の光の中で、花の一つひとつが小さな粒のように光っている。


咲は自転車を降りて、金木犀の下を歩いた。この道を通ると少しだけ遠回りになる。でもこの季節だけは、ここを歩く。匂いのトンネルをくぐるみたいに。


前方に、人影が見えた。


小柄な女の子。銀色の髪が朝の光に透けている。リュックを背負って、うつむいて歩いている。


金木犀の植え込みの前で、その子は足を止めた。


顔を少しだけ上げて、鼻を小さくひくひくさせた。匂いを嗅いでいる。十月の朝の、金木犀の匂いを。


咲の足が止まった。


五メートルほどの距離。声をかければ届く距離。


前にも見たことがある。六月の渡り廊下で、傘を畳みながらうつむいていた子。銀色の髪。小柄な体。あの時、すれ違いざまにインクの匂いがした。


女の子がポケットに手を入れた。右手を出した。


指先に、色がついていた。


青い、かすかな色。インクの。


ノートに使われているのと同じ、あのインクの色。


女の子は金木犀の花を一瞬だけ見上げて、それから目を伏せて歩き始めた。メディア芸術科棟の方へ。咲の横を通り過ぎるとき、目は合わなかった。うつむいたまま、静かに。


咲は、その小さな背中を見送った。


リュックの肩紐が左だけ少し緩んでいる。歩き方がまっすぐで、でもどこか心もとない。人を避けるように道の端を歩いて、メディア芸術科棟の入り口に吸い込まれていった。


---


四階。401号室。


いつもよりも、ドアノブに触れる手が震えた。


部屋に入る。蛍光灯を点ける。空調をつける。窓はないけれど、今日の部屋にはわずかに匂いが残っていた。金木犀ではない。もっとかすかなもの。インクと、紙と、誰かの手の温度の残り香。昨夜ここにいた人の気配が、匂いの中に溶けている。


棚の上の、緑色のノート。


手に取った。


ページの間から、何かがぽろりと落ちた。


膝の上に乗った。小さな折り紙。


赤い紙で折られた、もみじ。繊細な切り込みが入っていて、葉の縁がぎざぎざになっている。折り紙なのに、本物の紅葉のように見える。


筆箱の中のシグナルちゃんとその仲間たちを思い出した。夏の間に増えた小さな家族。水色のウサギ。黄色い星。白い鶴。緑のカエル。ピンクの花。全部、あの人が折って、ノートに挟んでくれたもの。


今度はもみじ。秋。


ノートを開いた。


---


> 今朝、金木犀のトンネルを通った。毎年この匂いを嗅ぐと、なんとなくセーブポイントみたいな気分になる。ここまでは生きたぞ、って。

>

> 春はチュートリアルで、夏はボス戦(期末レポート)で、秋はやっと自由行動。自由行動のBGMが金木犀の匂い。毎年同じ曲が流れる。嫌いじゃない。むしろ好き。安心する。


咲の手が止まった。


今朝。


金木犀のトンネル。


さっき。あの子が、金木犀の前で立ち止まって、匂いを嗅いでいた。あの、銀髪の、小柄な子が。


同じ朝。同じ金木犀。同じ道。


偶然かもしれない。キャンパスの中に金木犀は何本もある。あの植え込みの前を通る学生は何十人もいる。


でも「トンネル」と書いている。あの植え込みの並びは、たしかにトンネルのように見える。両側から金木犀が覆いかぶさって、歩くと匂いの中をくぐるような場所。見つけるより先に、香りで存在に気づく花。


読み進めた。


> もみじを折ってみた。切り紙っぽく。ハサミがなかったから爪で切った。ちょっとガタガタになったけど、まあ自然のもみじもガタガタだし。自然を模倣した結果です。嘘です。ただ不器用なだけです。


笑ってしまった。


ガタガタじゃない。きれいだ。膝の上の赤いもみじを手のひらに乗せた。爪で切ったとは思えないほど、葉の縁が細かい。この人の手は、不器用なんかじゃない。器用すぎるくらいだ。


それから。


ノートの余白に、小さなウサギが描いてあった。


金木犀の木の下にいるウサギ。花がぱらぱらと降ってきていて、ウサギの耳の上にも一つ乗っている。口を小さく開けて、匂いを嗅いでいるような顔。


咲はそのイラストに指で触れた。


この線。この線を、知っている。


六月の掲示板で見た「雨兎」と同じ線。メディア芸術科棟の前の。


匿名展示のイラスト。メディア芸術科の学生。


銀色の髪。指先の青いインク。金木犀の前で立ち止まる子。うつむいて歩く子。


点。


ぜんぶ、点。


でも——


咲は椅子に座ったまま、ノートを膝に置いて、両手で顔を覆った。


点と点のあいだに、線が引かれようとしている。引きたくない。引いてしまったら、もう元に戻れない。


あの子が——あの、ほとんど声を出さない、目を合わせない、教室の隅にいるような子が、このノートを書いているとしたら。


この饒舌で、面白くて、鋭くて、正直で、ときどき泣きたくなるほどやさしい言葉を書いているのが、あの子だとしたら。


指の隙間から、ノートが見える。緑色の表紙。角が少し潰れた、使い込まれたノート。


まだ線は引かない。


まだ。


---


発声練習をした。今日は集中できなかった。


スケールを上がっていく途中で、何度か音がぶれた。喉のせいじゃない。頭のせいだ。


ノートにペンを取った。


何を書くか迷った。


あの子のことを書くわけにはいかない。「今朝、あなたかもしれない人を見た」なんて書いたら、この関係が壊れる。あの人はノートの中でしか自分でいられないと書いていた。「会ったら黙ってしまう」と。


だから、知らないふりをする。


まだ何も知らない人のまま、返事を書く。


> 金木犀、セーブポイントってわかるな。あたしは毎年この匂いがすると「ここまで来たな」って思う。春からの半年間が、ちゃんと自分のものだったんだなって確認できる匂い。

>

> もみじ、すごくきれい。ガタガタじゃないよ。シグナルちゃんの仲間がまた増えた。秋の新メンバー。

>

> ……あなたの描くウサギ、好き。いつも何か考えてる顔してて、でも言えなくて、でも言いたそうで。この子に会うたびに、あなたに会いたくなる。


書き終えた。


最後の一行を見つめた。「あなたに会いたくなる」。


嘘じゃない。会いたい。


——もしかしたら、もう会っている。


ノートを棚に戻した。もみじは筆箱に入れた。シグナルちゃんの隣。秋の新メンバー。


---


夕方。


講義が終わって、咲は涼とキャンパスの端にある小さなカフェに入った。学生が何人かいる。窓際の席。涼がアイスコーヒー、咲がホットのカフェラテ。


十月の日が傾くのは早い。窓の外が、もうオレンジ色に染まっている。金木犀の匂いが、開いた窓からかすかに入ってくる。


涼がストローをくわえながら、咲を見た。


「今日、ぼーっとしてたね」


「……してた?」


「してた。三限のグループ発表で台詞飛ばしかけてた」


「あれは……ちょっと、考え事してて」


「うん。知ってる」


沈黙。涼がアイスコーヒーをかき混ぜる音。氷がカラカラと鳴る。


「咲」


「うん」


「最近、何か気になることある?」


咲はカフェラテのカップを両手で包んだ。まだ温かい。


気になること。


ある。ありすぎる。


でも涼に話したことは一度もない。ノートのこと。朝のスタジオで、知らない人の言葉を読んでいること。半年以上、顔も名前も知らない人と文字で会話していること。


それが、もしかしたら、あの子かもしれないということ。


「……涼は、ノートの話、覚えてる?」


「ノート?」


「前に……ちょっとだけ話したことあったかな。朝、スタジオに置いてあるノートで、誰かとやりとりしてるって」


涼の目が少し開いた。「あー……。春に、なんか楽しそうだったやつ?」


「うん」


「まだ続いてるんだ」


「半年」


涼がストローから口を離した。まっすぐ咲を見ている。涼しい目。でも、冷たくはない。


「それで?」


「……その人のこと、だんだん、わかってきた」


「わかってきた」


「誰なのか。どの学科の、どんな子か。全部じゃないけど……たぶん、この子だって思う子が、いる」


涼はしばらく黙っていた。アイスコーヒーの氷が溶けて、カラン、と小さな音を立てた。


「ねえ、そのノートの人のこと、もしかして」


咲は顔を上げた。涼の目を見た。


涼が言った。


「好き?」


窓の外で風が吹いた。金木犀の花がぱらぱらと散る。オレンジ色の粒が、夕陽の中を舞う。


「……まだわかんない」


嘘だ。わかっている。わかりかけている。


「でも、気になる子がいて」


涼はうなずいた。それだけだった。


「がんばれ」も「大丈夫?」も言わなかった。ただうなずいて、アイスコーヒーの残りを飲み干した。


「帰ろっか」


「うん」


カフェを出た。キャンパスの道に、金木犀の匂いが満ちていた。


夕闇の中を歩きながら、咲は思った。


今夜、あの子は。あの銀色の髪の子は、スタジオ401のドアを開けて、あたしが棚に戻したノートを手に取る。あたしの書いた言葉を読む。「あなたに会いたくなる」を読む。


あの子が何も知らないまま。


あたしだけが知っている。


この秘密の重さを、どうすればいいのか、まだわからなかった。


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