第7章 金木犀の朝
十月。
朝、家を出た瞬間に、匂いが変わっていた。
甘い。どこか湿り気のある、でも透き通った甘さ。空気そのものに色がついたような匂い。
金木犀だ。
春日咲は自転車を止めて、一度だけ深く息を吸った。肺の底まで、秋の朝の匂いを入れる。
毎年、この匂いが来ると、何かが始まるような気がする。始まるというか、ここまで来たのだと。夏を越えて、秋まで来たのだと。金木犀の開花はたった二週間。この香りがある間だけの、秋の入り口。
ペダルを踏む。川沿いの道。街路樹の葉が黄色くなり始めている。風が少し冷たい。半袖の腕がひんやりする。もうすぐ長袖に切り替えるころだ。
正門を抜けた。守衛さんに「おはようございます」。守衛さんも「おはよう。金木犀きれいだね」。
キャンパスの中は、もっと匂いが濃かった。
正門からまっすぐ伸びる並木道の途中に、金木犀の植え込みがある。オレンジ色の小さな花が、びっしりと枝についている。朝の光の中で、花の一つひとつが小さな粒のように光っている。
咲は自転車を降りて、金木犀の下を歩いた。この道を通ると少しだけ遠回りになる。でもこの季節だけは、ここを歩く。匂いのトンネルをくぐるみたいに。
前方に、人影が見えた。
小柄な女の子。銀色の髪が朝の光に透けている。リュックを背負って、うつむいて歩いている。
金木犀の植え込みの前で、その子は足を止めた。
顔を少しだけ上げて、鼻を小さくひくひくさせた。匂いを嗅いでいる。十月の朝の、金木犀の匂いを。
咲の足が止まった。
五メートルほどの距離。声をかければ届く距離。
前にも見たことがある。六月の渡り廊下で、傘を畳みながらうつむいていた子。銀色の髪。小柄な体。あの時、すれ違いざまにインクの匂いがした。
女の子がポケットに手を入れた。右手を出した。
指先に、色がついていた。
青い、かすかな色。インクの。
ノートに使われているのと同じ、あのインクの色。
女の子は金木犀の花を一瞬だけ見上げて、それから目を伏せて歩き始めた。メディア芸術科棟の方へ。咲の横を通り過ぎるとき、目は合わなかった。うつむいたまま、静かに。
咲は、その小さな背中を見送った。
リュックの肩紐が左だけ少し緩んでいる。歩き方がまっすぐで、でもどこか心もとない。人を避けるように道の端を歩いて、メディア芸術科棟の入り口に吸い込まれていった。
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四階。401号室。
いつもよりも、ドアノブに触れる手が震えた。
部屋に入る。蛍光灯を点ける。空調をつける。窓はないけれど、今日の部屋にはわずかに匂いが残っていた。金木犀ではない。もっとかすかなもの。インクと、紙と、誰かの手の温度の残り香。昨夜ここにいた人の気配が、匂いの中に溶けている。
棚の上の、緑色のノート。
手に取った。
ページの間から、何かがぽろりと落ちた。
膝の上に乗った。小さな折り紙。
赤い紙で折られた、もみじ。繊細な切り込みが入っていて、葉の縁がぎざぎざになっている。折り紙なのに、本物の紅葉のように見える。
筆箱の中のシグナルちゃんとその仲間たちを思い出した。夏の間に増えた小さな家族。水色のウサギ。黄色い星。白い鶴。緑のカエル。ピンクの花。全部、あの人が折って、ノートに挟んでくれたもの。
今度はもみじ。秋。
ノートを開いた。
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> 今朝、金木犀のトンネルを通った。毎年この匂いを嗅ぐと、なんとなくセーブポイントみたいな気分になる。ここまでは生きたぞ、って。
>
> 春はチュートリアルで、夏はボス戦(期末レポート)で、秋はやっと自由行動。自由行動のBGMが金木犀の匂い。毎年同じ曲が流れる。嫌いじゃない。むしろ好き。安心する。
咲の手が止まった。
今朝。
金木犀のトンネル。
さっき。あの子が、金木犀の前で立ち止まって、匂いを嗅いでいた。あの、銀髪の、小柄な子が。
同じ朝。同じ金木犀。同じ道。
偶然かもしれない。キャンパスの中に金木犀は何本もある。あの植え込みの前を通る学生は何十人もいる。
でも「トンネル」と書いている。あの植え込みの並びは、たしかにトンネルのように見える。両側から金木犀が覆いかぶさって、歩くと匂いの中をくぐるような場所。見つけるより先に、香りで存在に気づく花。
読み進めた。
> もみじを折ってみた。切り紙っぽく。ハサミがなかったから爪で切った。ちょっとガタガタになったけど、まあ自然のもみじもガタガタだし。自然を模倣した結果です。嘘です。ただ不器用なだけです。
笑ってしまった。
ガタガタじゃない。きれいだ。膝の上の赤いもみじを手のひらに乗せた。爪で切ったとは思えないほど、葉の縁が細かい。この人の手は、不器用なんかじゃない。器用すぎるくらいだ。
それから。
ノートの余白に、小さなウサギが描いてあった。
金木犀の木の下にいるウサギ。花がぱらぱらと降ってきていて、ウサギの耳の上にも一つ乗っている。口を小さく開けて、匂いを嗅いでいるような顔。
咲はそのイラストに指で触れた。
この線。この線を、知っている。
六月の掲示板で見た「雨兎」と同じ線。メディア芸術科棟の前の。
匿名展示のイラスト。メディア芸術科の学生。
銀色の髪。指先の青いインク。金木犀の前で立ち止まる子。うつむいて歩く子。
点。
ぜんぶ、点。
でも——
咲は椅子に座ったまま、ノートを膝に置いて、両手で顔を覆った。
点と点のあいだに、線が引かれようとしている。引きたくない。引いてしまったら、もう元に戻れない。
あの子が——あの、ほとんど声を出さない、目を合わせない、教室の隅にいるような子が、このノートを書いているとしたら。
この饒舌で、面白くて、鋭くて、正直で、ときどき泣きたくなるほどやさしい言葉を書いているのが、あの子だとしたら。
指の隙間から、ノートが見える。緑色の表紙。角が少し潰れた、使い込まれたノート。
まだ線は引かない。
まだ。
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発声練習をした。今日は集中できなかった。
スケールを上がっていく途中で、何度か音がぶれた。喉のせいじゃない。頭のせいだ。
ノートにペンを取った。
何を書くか迷った。
あの子のことを書くわけにはいかない。「今朝、あなたかもしれない人を見た」なんて書いたら、この関係が壊れる。あの人はノートの中でしか自分でいられないと書いていた。「会ったら黙ってしまう」と。
だから、知らないふりをする。
まだ何も知らない人のまま、返事を書く。
> 金木犀、セーブポイントってわかるな。あたしは毎年この匂いがすると「ここまで来たな」って思う。春からの半年間が、ちゃんと自分のものだったんだなって確認できる匂い。
>
> もみじ、すごくきれい。ガタガタじゃないよ。シグナルちゃんの仲間がまた増えた。秋の新メンバー。
>
> ……あなたの描くウサギ、好き。いつも何か考えてる顔してて、でも言えなくて、でも言いたそうで。この子に会うたびに、あなたに会いたくなる。
書き終えた。
最後の一行を見つめた。「あなたに会いたくなる」。
嘘じゃない。会いたい。
——もしかしたら、もう会っている。
ノートを棚に戻した。もみじは筆箱に入れた。シグナルちゃんの隣。秋の新メンバー。
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夕方。
講義が終わって、咲は涼とキャンパスの端にある小さなカフェに入った。学生が何人かいる。窓際の席。涼がアイスコーヒー、咲がホットのカフェラテ。
十月の日が傾くのは早い。窓の外が、もうオレンジ色に染まっている。金木犀の匂いが、開いた窓からかすかに入ってくる。
涼がストローをくわえながら、咲を見た。
「今日、ぼーっとしてたね」
「……してた?」
「してた。三限のグループ発表で台詞飛ばしかけてた」
「あれは……ちょっと、考え事してて」
「うん。知ってる」
沈黙。涼がアイスコーヒーをかき混ぜる音。氷がカラカラと鳴る。
「咲」
「うん」
「最近、何か気になることある?」
咲はカフェラテのカップを両手で包んだ。まだ温かい。
気になること。
ある。ありすぎる。
でも涼に話したことは一度もない。ノートのこと。朝のスタジオで、知らない人の言葉を読んでいること。半年以上、顔も名前も知らない人と文字で会話していること。
それが、もしかしたら、あの子かもしれないということ。
「……涼は、ノートの話、覚えてる?」
「ノート?」
「前に……ちょっとだけ話したことあったかな。朝、スタジオに置いてあるノートで、誰かとやりとりしてるって」
涼の目が少し開いた。「あー……。春に、なんか楽しそうだったやつ?」
「うん」
「まだ続いてるんだ」
「半年」
涼がストローから口を離した。まっすぐ咲を見ている。涼しい目。でも、冷たくはない。
「それで?」
「……その人のこと、だんだん、わかってきた」
「わかってきた」
「誰なのか。どの学科の、どんな子か。全部じゃないけど……たぶん、この子だって思う子が、いる」
涼はしばらく黙っていた。アイスコーヒーの氷が溶けて、カラン、と小さな音を立てた。
「ねえ、そのノートの人のこと、もしかして」
咲は顔を上げた。涼の目を見た。
涼が言った。
「好き?」
窓の外で風が吹いた。金木犀の花がぱらぱらと散る。オレンジ色の粒が、夕陽の中を舞う。
「……まだわかんない」
嘘だ。わかっている。わかりかけている。
「でも、気になる子がいて」
涼はうなずいた。それだけだった。
「がんばれ」も「大丈夫?」も言わなかった。ただうなずいて、アイスコーヒーの残りを飲み干した。
「帰ろっか」
「うん」
カフェを出た。キャンパスの道に、金木犀の匂いが満ちていた。
夕闇の中を歩きながら、咲は思った。
今夜、あの子は。あの銀色の髪の子は、スタジオ401のドアを開けて、あたしが棚に戻したノートを手に取る。あたしの書いた言葉を読む。「あなたに会いたくなる」を読む。
あの子が何も知らないまま。
あたしだけが知っている。
この秘密の重さを、どうすればいいのか、まだわからなかった。




