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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第19章 月の兎

二月十四日。


如月綴の、二十歳の誕生日。


---


朝、目が覚めた。


白い天井が見えた。アパートの天井。布団の中にいた。昨日も一昨日も、ほとんどここにいた。布団から出たのは、トイレと、水を飲みに行ったときと、環からのメッセージに「大丈夫」と返したときだけ。


大丈夫じゃない。


でも「大丈夫じゃない」と返したら環が来る。来たら、話さなきゃいけない。話す言葉が、ない。


二日間、頭の中をぐるぐる回っているのは、一人の顔。


春日咲。


セミロングの茶色い髪。まっすぐな立ち方。少し震えていた声。


「あたし、春日咲。スタジオ401を、朝使ってる」


「あなたがノートの人だって、ずっと知ってた。秋から」


秋から。


十月。金木犀の季節。あのときから、あの人は、あたしの名前を知っていた。顔を知っていた。


毎朝、あたしのノートを読んで、あたしだと知った上で、返事を書いていた。


「がっかりされるのが怖い」と書いた日も。


「声が出ない」と書いた日も。


「殻を壊した。もう隠れない」と書いた日も。


全部、読まれていた。あたしの顔を知っている人に。


恥ずかしい。


布団を頭まで引き上げた。暗闇。


恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。


あたしの弱さも。涙も。怒りも。ケチャップの話も。「好きだ」と認めた夜のことも。


全部、あの人が読んでいた。あたしの顔を思い浮かべながら。


教室で黙っているあたしを見ていた。キャンパスですれ違ったとき、あたしだとわかっていた。学園祭でゲームを遊んで泣きそうになったとき、あたしが作ったゲームだと知っていた。全部知っていて、「顔も名前も知らない人」のふりをしていた。


裏切られた、と思った。


安全だと思っていた場所は、安全じゃなかった。「顔を知らない人だから安心して書ける」。その前提が、十月の時点で壊れていた。あたしだけが、壊れていることを知らなかった。


---


でも。


布団の中で、目を閉じて、もう一つの感情がある。


裏切りの裏側に、温かさが、ある。


あの人が書いてくれた言葉。十ヶ月分の言葉。


「唐揚げに嘘がないの、わかります」。最初の一行。あの一行で、あたしの世界が変わった。


「両方本物だよ」。あたしが「ノートの中のあたしと外のあたし、どっちが本物?」と書いたときの返事。


「シグナルちゃん」。折り紙のウサギに名前をつけてくれた。


「ひびが入ったなら、そこから光が入るよ」。あたしが殻を壊した日の返事。


「ぐちゃぐちゃでいいよ。手のひらで包むよ」。


「全部知りたい」。


全部、あの人が書いた。春日咲が書いた。


あたしの名前を知っていて、顔を知っていて、教室で黙っているあたしを見ていて。それでも「全部知りたい」と。


あたしの弱さを全部読んだ上で、「全部好き」だと。


嘘だろうか。


嘘じゃない。あの文字は嘘じゃなかった。十ヶ月読んできてわかる。あの人の言葉に嘘は一行もなかった。


知っていたのに知らないふりをしたのは、嘘だった。


でも書いてくれた言葉は、嘘じゃなかった。


矛盾している。でも、人は矛盾する。あたしだってそうだ。おとなしいのに饒舌。声が出ないのに作品にはぜんぶ入れる。逃げたいのに見つけてほしい。


矛盾している人間のことを、あたしは、責められない。


布団の中で、膝を抱えた。


わからない。


怒っていいのか。許していいのか。会いに行くべきか。もう会わないべきか。


何もわからない。


---


昼。


スマホが鳴った。


環からのメッセージ。


「誕生日おめでとう。今から行っていい?」


返事を打った。「……いいよ」


三十分後、チャイムが鳴った。


ドアを開けた。


環がいた。手にコンビニの袋を持っている。


「入るよ」


「……うん」


環が靴を脱いで上がった。六畳のワンルーム。散らかっている。机の上にノートパソコン。棚に本と画材。床に脱ぎっぱなしの服。


環はコンビニの袋からケーキを出した。小さいやつ。ショートケーキ。ろうそくが一本ついている。


「二十歳だから、ほんとは二十本だけど。一本でいいでしょ」


「……うん」


環がろうそくを立てた。ライターで火をつけた。


小さなオレンジ色の炎。


「はい。吹いて」


綴はケーキの前に座って、ろうそくの炎を見つめた。


去年も、一人で吹き消した。


今年は、環がいる。


ふっ、と吹いた。炎が消えた。薄い煙が上がって、ろうの焦げた匂いが鼻をかすめた。甘い匂いじゃない。乾いた、少しだけ苦い匂い。でもそれが、誕生日の匂いだった。


「おめでとう」


「……ありがとう」


環がケーキを二つに切った。プラスチックのフォーク。二人で食べた。生クリームが舌の上でほどけて、いちごの酸味がその奥から追いかけてくる。スポンジは冷たかった。コンビニの棚から出したばかりの、ひんやりした甘さ。高級じゃない。でも、今この瞬間に食べるケーキの味がした。


しばらく黙って食べた。


環が先にフォークを置いた。


「綴」


「……ん」


「何があったか、聞いていい?」


綴は膝を抱えた。ベッドの上。


環は床に座って、綴を見上げている。


「……あの日。水曜。メディ芸棟の前で」


「うん」


「声楽科の子が、待ってた」


「あの子ね。うちが『誰か待ってるよ』って言ったとき、綴の顔見てびっくりした。真っ白になったから」


「……あの子が」


声が詰まった。喉が、また。


でも、環にだけは言える。環にだけは。


「あの子が……ノートの、相手だった」


環の目が、少し大きくなった。


「ノートって、綴がスタジオでずっとやってた、あの?」


「……うん。交換ノート。十ヶ月。あの子が朝にスタジオを使ってて、あたしが夜に使ってて。ノートを通して、ずっとやりとりしてた」


環は何も言わなかった。聴いていた。


「あの子は、あたしが如月綴だって、秋から知ってたって。名前も、顔も。ぜんぶ知ってて、ずっと黙ってた」


「……」


「恥ずかしくて。怖くて。何も言えなくて、逃げた」


「逃げたんだ」


「逃げた」


沈黙。


窓の外で車が通る音がした。


「綴」


「ん」


「綴がずっと何か作ってたの、うちは知ってたよ」


綴は顔を上げた。


「曲とか。折り紙とか。ゲームとか。誰にも見せないって言ってたけど、ずっと何か作ってた。夜遅くまでスタジオに残って」


環はまっすぐ綴を見ていた。


「あれ全部——誰かに届けたかったんでしょ」


「……」


「誰かに聞いてほしかったんでしょ。見てほしかったんでしょ。『好き』って言いたかったんでしょ」


綴の目が——熱くなった。


「……うん」


「届いたんだよ。その子に」


環の声は、静かだった。


「折り紙も、曲も、ゲームも、ノートの言葉も。全部その子に届いたんだよ。で、その子は全部受け取って、全部ちゃんと読んで、泣いて笑って、あんたに会いに来た」


涙が落ちた。膝の上に。


「逃げてちゃ、届いたものが戻っちゃうよ」


綴は膝に顔を埋めた。


泣いた。声を出さずに。肩が震えた。


環は何も言わなかった。隣には来なかった。床に座ったまま、綴が泣き終わるのを、待っていた。


---


五分。十分。


泣き止んだ。


顔を上げた。目が腫れている。鼻が詰まっている。


環がティッシュの箱を差し出した。


「ありがとう」


鼻をかんだ。目を拭いた。


「環」


「ん」


「あたし、あの人のこと、好き」


環は笑った。


「知ってたよ」


「……いつから」


「去年の夏くらいから。綴、スタジオに行く日だけ機嫌がよかったから」


「……そんなにわかりやすかった?」


「綴は隠すの下手だよ。表情は動かないけど、手がソワソワしてたし、スタジオの鍵持ってくとき目がキラキラしてたし」


綴は顔を手で覆った。


「恥ずかしい……」


「恥ずかしがることじゃないよ。好きなんでしょ」


「好き」


「じゃあ、行きなよ」


環が立ち上がった。コンビニの袋をゴミ箱に入れた。


「あの子、待ってるんでしょ」


「……たぶん」


「たぶんじゃなくて、待ってるよ。あんたのこと知ってて、四ヶ月黙ってて、それでもわざわざメディ芸棟の前で待ってて、自分から名乗ったんだよ。待ってないわけないじゃん」


環はコートを羽織った。


「うちは帰るね。ケーキ美味しかった」


「……環」


「ん」


「ありがとう」


「いいよ。誕生日プレゼントは、あんたが自分で取りに行きな」


環はにこっと笑って、ドアを開けて出ていった。


ドアが閉まった。


綴は一人になった。


---


午後。


ベッドの上で膝を抱えたまま、考えていた。


部屋の中を見回した。


机の上。ノートパソコン。DAWのショートカットがデスクトップにある。


棚の上。画材。スケッチブック。折り紙の紙束。ハサミ。ペン。


本棚。プログラミングの本。デザインの本。音楽理論の本。


床の隅。去年の学園祭に出したゲームのデータが入ったUSBメモリ。


壁に貼ったメモ。曲のアイデア。コードの断片。イラストのラフスケッチ。


ぜんぶ、作品だ。


あたしが作ったもの。声が出ない代わりに、手で作ったもの。


曲。ゲーム。イラスト。折り紙。プログラム。動画。


全部、「好き」の代わりだった。


誰かに「好き」と言いたくて、でも声が出なくて、だから作品に入れた。メロディの中に、コードの進行の中に、折り紙の折り目の中に、ゲームの最終ステージに。声にならない「好き」を、手が届くかぎりの場所に埋めた。


シグナル。


ラビット・シグナル。


兎が送る信号。声にならない「好き」。


春日咲は、それを受け取ってくれた。


折り紙のウサギに「シグナルちゃん」と名前をつけた。曲を聴いて泣いた。ゲームをプレイして泣きそうになった。ノートの言葉を読んで、毎朝返事を書いてくれた。


十ヶ月。


あたしのシグナルを、十ヶ月、受信し続けてくれた。


受信者がいなければ、シグナルはただのノイズだ。


あの人がいたから、あたしの「好き」は、意味を持った。


「好き」の代わりに作品を作ってきた。でも、いつまでも代わりのままじゃ、だめだ。


作品は作品。声は声。


代わりじゃなく、あたしの声で。


綴は顔を上げた。


窓の外。夕方の空。オレンジ色が滲んでいる。二月の日は、まだ短い。


でも少しずつ、長くなっている。


立ち上がった。


---


夜。


コートを羽織った。マフラーを巻いた。リュックは持たない。手ぶら。


アパートのドアを開けた。


二月の夜の空気。冷たい。息が白い。どこかの換気扇から、夕飯の残り香が漂ってくる。味噌汁の匂い。誰かの暮らしの匂い。


空を見上げた。


月が出ていた。


半月。欠けている方が上。冬の空気は澄んでいて、月の光がやけに硬い。地面にくっきりと影ができている。自分の影。


月の兎。


あたしは月にいる兎だ。地上から見える。でも遠い。声が届かない距離にいる。


でも今夜は、降りる。


月から、降りる。


自転車に乗った。ペダルを踏んだ。


夜道。街灯。等間隔の光。吐く息が白い。唇が乾いている。


大学まで、自転車で十五分。夜のキャンパスは暗い。正門は閉まっているけれど、裏門は学生証で開けられる。


裏門のカードリーダーに学生証を通した。ランプが緑に光った。門が開いた。


暗いキャンパス。街灯だけが点いている。建物はほとんど消灯している。


メディア芸術科棟。


四階。廊下。蛍光灯は消えている。非常灯だけが薄い緑色の光を放っている。


自分の足音が廊下に響いた。とん、とん。スタンピングじゃない。警戒の音じゃない。会いに行く足音。


401号室の前に立った。


ドアノブに手をかけた。


冷たい。


いつも通り、鍵はかかっていない。


回した。開いた。


暗い部屋。蛍光灯を点けた。白い光。空調はつけなかった。


冷えた空気の中に、かすかに紙とインクの匂いがした。十ヶ月間、このスタジオに染みついた匂い。防音室の、密閉された空気。あたしと咲の、時間の匂い。


机の上。


ノートが、開いたまま置いてあった。


咲の文字が、こちらを見ていた。


---


読んだ。


一行目から、最後の一行まで。


三ページ分の、長い手紙。


「四月の朝だった」。


「ただの好奇心だった」。


「好奇心じゃなくなった」。


「折り紙のウサギが挟まれてた日、あたしはスタジオの中で一人で泣いた」。


「秋にあなただってわかったとき、怖かった」。


「あたしが書いた言葉に、嘘は一行もない」。


「全部あなたでしょう。あたしは全部知ってる。全部好きだよ」。


「待ってる」。


読み終えた。


ノートを持ったまま、椅子に座っていた。


涙が出なかった。もう出尽くしたのかもしれない。二日間で。


代わりに、胸の中に何かが満ちていた。熱い。重い。でも苦しくない。肋骨の内側が温かく湿っているような感覚。泣いたあとの顔は冷えているのに、体の奥だけが熱を持っている。


「全部好きだよ」。


全部。


おとなしいあたしも。饒舌なあたしも。ケチャップをかけすぎるあたしも。殻を壊したあたしも。逃げたあたしも。


全部。


全部を知って、好きだと言ってくれる人が、いる。


ペンを探した。


リュックがない。手ぶらで来た。ペンを持っていない。


机の引き出しを開けた。替えのペンがあるはず。あった。青いボールペン。いつもの。


ノートの、咲の手紙の次のページを開いた。


白いページ。


ペンを握った。


何を書くか、考えなかった。


考えたら、書けなくなる。


手が動いた。


---


> 読んだ。全部。

>

> 怒ってる。嘘。怒れない。怒りたかったけど、あなたの手紙読んだら怒れなくなった。

>

> 恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。でも、あなたが「嘘は一行もない」って書いてくれたから。あたしも嘘なしで書く。

>

> あなたに会いたい。

>

> ノートじゃなくて。作品じゃなくて。あたしの声で。

>

> 明日の朝、ここで。


---


書いた。


書いてしまった。


「明日の朝、ここで」。


手が震えていた。ペンを置いた。


時計を見た。午後十一時。あと一時間で、誕生日が終わる。


いい。


これが、二十歳の誕生日プレゼントだ。あたしから、あたしへの。


「会いたい」を、書けた。


ノートを机の上に置いた。開いたまま。咲がそうしたように。


立ち上がった。


棚を見た。折り紙のウサギ。シグナルちゃん。水色。耳を片方だけ立てて。


「行ってくるよ」


声に出した。小さく。スタジオの空気に向かって。


蛍光灯を消した。ドアを開けた。廊下に出た。


暗い廊下。非常灯の緑色の光。


階段を下りた。外に出た。


二月十四日の夜空。月がまだ出ていた。半月。雲が流れて、月が隠れて、また出てくる。月の向こうに、オリオン座が西へ傾いていた。冬の夜空は、兎がいなくなっても広い。


月の兎は、もう、月にいない。


地上に降りた。


マフラーに顔を埋めて、自転車で帰った。


ペダルを踏むたびに、胸の中の熱いものが揺れた。


「明日の朝」。


あと数時間。


あと数時間で、あたしは、あの人の前に立つ。


声を出す。震えても。小さくても。


あたしの声で。


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