第18章 スタジオ401・不在
二月十三日。木曜日。
朝六時四十分。
春日咲は401号室のドアを開けた。
蛍光灯を点けた。空調を入れた。いつもの手順。十ヶ月間、毎朝繰り返してきた手順。
閉め切った部屋の空気が鼻に触れた。防音材の乾いた匂い。その下に、かすかにインクの匂いと、ラベンダーの甘い残り香が混じっている。綴が夜にここにいた痕跡。
棚の上のノートを見た。
動いていない。
昨日の朝、咲が棚に戻した位置のまま。角度も、傾きも、変わっていない。
手に取った。開いた。
咲が昨日の朝に書いた返事の後ろ。白紙。
綴は、昨夜、来なかった。
ノートを膝に置いた。
わかっていた。逃げられた時点で、わかっていた。今夜も、明日の夜も、来ないかもしれない。
兎は逃げたら、しばらく隠れる。巣穴の奥で、じっとしている。安全だと思えるまで、出てこない。
椅子に座った。
部屋の中を見回した。
今まで何百回と見てきた部屋。でも今日は、違って見えた。
ここは、二人の部屋だった。
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棚の上。緑色のノートの隣に、小さな折り紙が並んでいる。
水色のウサギ。シグナルちゃん。六月にノートに挟まれていた、最初の一体。耳を片方だけ立てて、何か言いたそうな顔をしている。
黄色い星。シグナルちゃんの最初の仲間。七月。「ありがとう」の代わりに。
白い鶴。ピンクの花。緑のカエル。夏の間に増えた家族。
赤いもみじ。十月。爪で切り込みを入れた、繊細な切り紙。
それから、小さな雪の結晶。白い折り紙。十二月に挟まれていた。六角形の、幾何学的な結晶。畳んで切って広げた、切り紙の技法。
全部、綴が折って、ノートに挟んでくれたもの。
咲はウサギを手に取った。小さい。親指の先ほど。水色の紙。折り目がくっきりしている。丁寧に折られている。
「シグナルちゃん」。咲がつけた名前。綴は笑ってくれた。ノートの中で。「名前つけてくれたの? うれしい。でもちょっと恥ずかしい」と。
ウサギを棚に戻した。
机の上を見た。
壁際に、小さなピンで留められた紙がある。学食の日替わりメニュー表のコピー。五月に綴が「木曜の学食が好き」と書いた週のもの。咲がコピーして持ってきた。綴がそのコピーの余白に「この唐揚げに嘘はなかった」と書き添えた。
その隣に、もう一枚。九月の学園祭のパンフレット。メディア芸術科の展示のページ。匿名のウサギのゲームが載っている。小さな写真。タイトル画面のウサギ。
ぜんぶ、二人の痕跡。
文字だけで繋がっていた。顔も合わせたことがなかった。でも、ここには二人がいた。
朝と夜。声と文字。咲と綴。
同じ空気を、違う時間に吸っていた。
咲は椅子に深く座って、天井を見上げた。吸音材の白い表面。蛍光灯。
鼻の奥で、もう一つの匂いを探した。綴のシャンプーか、指先についた絵の具か。十ヶ月、同じ空気を交代で吸い続けてきたのに、咲は綴の匂いを直接嗅いだことがない。知っているのは、部屋に残された気配だけだった。
この部屋の空気は、綴の夜を覚えているだろうか。綴がキーボードを打つ音。ペンが紙を走る音。ときどきピアノを弾く音。
咲が朝に歌う声は、夜には消えている。綴が夜に弾く音も、朝には消えている。
でも空気は、覚えているかもしれない。
そう思いたかった。ずっと。
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発声練習をしなかった。
今日は、声を出す気になれなかった。
ピアノの前に座った。蓋は開けなかった。
ポケットのスマホが震えた。涼。「ごはん食べた?」。返事を打った。「食べた」。嘘だった。
黒い蓋の表面に、わずかに指紋が残っている。咲のものか、綴のものか。どちらのものかわからない。同じ鍵盤に、二人の指が触れている。
立ち上がった。
ノートを手に取った。
ペンを握った。
今日は、返事じゃない。
手紙を書く。
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> 綴へ。
>
> あたしが最初にこのノートに書いた日のこと、覚えてる?
>
> 四月の朝だった。スタジオに来たら、棚の上にノートがあった。誰かの忘れ物だと思って、開いちゃった。中身を読んじゃった。
>
> 食堂の日替わりの話。木曜のメニューが好きだって。唐揚げに嘘がないって。猫に見つめられてフリーズした話。プリンを食べて「世界は優しい」って書いてた。
>
> 笑っちゃったの。声に出して。ひとりきりの朝のスタジオで。こんな面白い人がいるんだ、って。文字の向こうに、誰かの体温を感じた朝だった。
>
> それで、つい、余白に返事を書いた。「唐揚げに嘘がないの、わかります」って。あれが最初。あたしの最初の一行。書いたあと、自分でもびっくりした。知らない人のノートに返事を書くなんて、あたしらしくないって思った。でも、書かずにはいられなかった。
>
> あの日は、ただの好奇心だった。
>
> でも読み続けるうちに、好奇心じゃなくなった。あなたの言葉を読むことが、あたしの朝になった。発声練習の前にノートを開くのが、日課になった。
>
> あなたの言葉に笑って、あなたの孤独に泣いて、あなたが作ったもの全部に胸を動かされた。折り紙のウサギが挟まれてた日、あたしはスタジオの中で一人で泣いた。あなたが「ありがとう」を言えなくて、代わりに折り紙を折ったんだって、わかったから。
>
> USBに入ってた曲を聴いた日も泣いた。三回聴いた。三回目で、あの最後の一音が「好き」だってわかった。声を学んでるあたしだから、聴こえたのかもしれない。あなたの声は小さいけど、ちゃんと音になってた。
>
> 秋にあなただってわかったとき、怖かった。
>
> 金木犀のトンネルで、あなたの指先にインクの青が見えた日。息が止まった。メディア芸術科棟の前で、あなたがスケッチブックに描いているのを見た日。環ちゃんが「綴」って呼んだ声が聞こえた日。ペンのキャップを拾った日。一つひとつは小さな偶然だったのに、並べたら必然みたいに見えた。
>
> ぜんぶの点が繋がって、あなただってわかった。わかった瞬間、嬉しさより先に恐怖が来た。顔のない相手だから書けた言葉がある。名前のない関係だから守れた距離がある。それが壊れるのが、怖かった。
>
> 言いたかった。すぐに。「あたしがノートの相手だよ」って。
>
> でも怖かった。言ったら、この関係が壊れると思った。あなたがやっと「自分でいられる場所」を見つけたのに、あたしがそれを壊すかもしれない。あなたは「顔を知らない人だから安心して書ける」と言ってた。その安心を、奪いたくなかった。
>
> だから黙ってた。四ヶ月。
>
> あなたが殻を壊した日も、黙ってた。「もう隠れない」を読んで泣いたのに、ノートに「おかえり」としか書けなかった。
>
> でも涼に言われたの。「言わないことも嘘だ」って。
>
> あたしは嘘をつきたくない。少なくとも、あなたには。
>
> あなたが怒ってるなら、怒っていい。裏切られたって思うなら、そう思っていい。あたしがずるかったのは本当だから。知ってたのに黙ってた。あなたの日記をこっそり読んでるみたいなことを、四ヶ月やった。
>
> でも——あたしが書いた言葉に、嘘は一行もない。
>
> 「両方本物だよ」は本当。「ぐちゃぐちゃでいいよ」も本当。「手のひらで包むよ」も本当。「ひびが入ったなら、そこから光が入るよ」も。全部、本当。
>
> ノートの中のあなたも、教室で黙ってるあなたも、あの日「私はそんな子じゃない」って叫んだあなたも、昨日逃げたあなたも——全部あなたでしょう。
>
> あたしは全部知ってる。全部好きだよ。
>
> 待ってる。
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書き終えた。
ペンを置いた。指先が冷たかった。
長い手紙だった。ノート三ページ分。書き始めたら止まらなかった。十ヶ月分の気持ちが、一気にペンを通って紙の上に溢れた。
字が途中から乱れている。震えていたから。
最後の二行を見つめた。
「全部好きだよ」。
「待ってる」。
これがあたしの、最後のノートの言葉になるかもしれない。
綴がもう来なかったら。この手紙を読んでくれなかったら。読んでも、許してくれなかったら。
でも、書いた。
嘘なしで。言い訳なしで。涼が言ったように。
ノートを閉じなかった。
手紙のページを開いたまま、机の上に置いた。綴が来たら、すぐに目に入るように。
棚ではなく、机の上。開いたまま。
立ち上がった。
部屋を見回した。
折り紙のウサギ。学食のメニュー表のコピー。ピアノ。棚。一冊目のくすんだ緑のノート。
もう一度、シグナルちゃんを見た。水色のウサギ。耳を片方だけ立てて、右を見ている。
何を見ているの。
何を待っているの。
誰を、探しているの。
ドアに向かった。
ドアノブに手をかけて、振り返った。
机の上のノート。開いたページ。咲の文字。
もし綴が今夜来なかったら、この手紙はこの部屋の空気の中で、一晩、待つことになる。
それでいい。
空気は覚えている。この部屋は覚えている。朝に歌った声も、夜に弾いた音も、ノートに書いた言葉も。
ドアを開けた。廊下に出た。
鍵はかけなかった。
いつも通りに。この部屋はいつも、鍵をかけない。誰でも入れる。綴が夜に来て、咲が朝に来る。その間、ドアは閉まっているけれど、鍵はかかっていない。
いつも通りに。
何も変わっていないように。
この部屋だけは、二人の場所のままで。
廊下を歩いた。階段を下りた。
外に出た。二月の朝。空気が冷たい。でも日差しがある。弱い冬の日差し。
梅が咲いている。白い花。小さい。でも、咲いている。冷たい空気の中に、ほのかに甘い梅の香りが漂っていた。冬の終わりの匂いだ。
明日は、二月十四日。
綴の誕生日。
来てくれるだろうか。
来なくてもいい。来なくても、あたしはまた朝に来る。ノートを見る。待つ。
何日でも。何週間でも。
声のプロが、最後に言った言葉が「待ってる」だなんて、笑えるかもしれない。
でも、これがあたしにできる、最後のこと。
待つ。
あなたが戻ってくるまで。




