第17章 ずっと知ってた
二月十二日。水曜日。
朝。401号室。
ノートを開いた。
綴の字があった。昨夜のもの。
---
> 今日はちゃんと来れた。二日続けて。偉い。(自分で自分を褒めるスタイル)
>
> まだぐちゃぐちゃだけど、ぐちゃぐちゃなりに書いてみる。
>
> ……もうすぐ、あたしの誕生日なの。二月十四日。バレンタインの日。(自分で言うのちょっと恥ずかしい)
>
> 去年は一人でケーキ買って、一人で食べた。ろうそくも立てた。一人で吹き消した。虚しかった。
>
> 今年は、あなたがいるから。
>
> 直接は祝ってもらえないけど。顔も合わせたことないけど。でもあなたが「おめでとう」って書いてくれたら、たぶん、去年よりずっとうれしい。
>
> ……重いかな。ごめん。でも嘘つかないって決めたから。
---
咲はノートを膝に置いた。
二月十四日。
知ってた。
知ってた。ずっと前から。スパイだから。名前も、学科も、誕生日も。
綴は「書いたことない」と思って、勇気を出して書いてくれたのだ。初めて誕生日を打ち明けてくれたのだ。
でもあたしは、もう知っていた。
目が熱くなった。
手のひらを見た。右手。ペンを握る手。十ヶ月、この手でノートに返事を書いてきた。
この手は嘘をついてきた手だ。
「両方本物だよ」と書いた手。「ぐちゃぐちゃでいいよ」と書いた手。「手のひらで包むよ」と書いた手。
全部、本当の気持ちだった。嘘は一行もない。
でも、知っていることを隠していたのは、嘘だ。
涼の声が頭に響く。
「それを恋って呼んでいいのかな。対等じゃない」。
「言わないことも嘘だよ」。
「遅くなればなるほど、傷は深くなる」。
四ヶ月。
十月に名前を知ってから、四ヶ月。
四ヶ月分の「知らないふり」が、もう限界だ。
綴が殻を壊した。「もう隠れない」と。
あたしは「あたしも殻を壊す」と書いた。「約束する」と。
約束した。
今日だ。
今日、伝える。
ペンを握った。
ノートに何を書くべきか。「誕生日おめでとう」と書いて、二日後まで待つべきか。
待てない。もう待てない。
綴が「ぐちゃぐちゃ」と苦しんでいる。スタジオに来ない日がある。ノートに書けなくなっている。あの饒舌だった子が、言葉を失いかけている。
あたしが文字で返しても、もう足りない。
「ぐちゃぐちゃでいいよ」と書いても、綴には届かない。文字は届くけど、温度が届かない。声のトーンが届かない。手のひらの温かさが届かない。
あたしの声で。あたしの口で。あたしの体温で、伝えなければならない。
ノートにペンを置いた。
書いたのは、一行だけ。
> 誕生日、おめでとう。ちゃんと言いたいから、待ってて。
それだけ書いて、ノートを棚に戻した。
---
一限。声楽の講義。イタリア歌曲の分析。
何も頭に入らなかった。
ノートに書いた一行が、ずっと頭の中にある。「ちゃんと言いたいから、待ってて」。
あれを読んだ綴は、何を思うだろう。「ちゃんと言いたい」の意味が、わかるだろうか。わからないかもしれない。ただの誕生日のメッセージだと思うかもしれない。
でも、今夜にはわかる。
今日の放課後に、あたしがあの子の前に立つ。
心臓が、朝からずっと速い。
二限。発声の実技。
声が出た。いつも通り。スケールを上がって、アリアを歌って。声は裏切らない。十年以上鍛えてきた声は、心がどれだけ揺れていても、正しい音程で出る。
声のプロだと、涼は言った。
今日、声で伝える。楽譜のない言葉を。台本のない告白を。
昼。学食。
涼が向かいに座った。
「咲」
「ん」
「今日、顔やばいよ」
「……やばい?」
「腹くくった顔してる」
涼はトレーを置いて、箸を取った。今日の定食は鯖の味噌煮。涼は箸をつけずに、まっすぐ咲を見た。
「今日?」
「……うん」
「伝えるの」
「うん」
涼はうなずいた。
「場所は?」
「メディア芸術科棟の前。放課後。四時半くらいに、あの子が出てくるはず」
「一人で?」
「一人で」
涼は鯖の味噌煮を一口食べた。箸を置いた。
「咲」
「ん」
「言い訳、用意しないでね」
「言い訳?」
「『あなたの安全な場所を壊したくなかった』とか。『言うタイミングがなかった』とか。全部ほんとだけど、全部言い訳にもなる。その子の前では、言い訳なしで」
咲は涼を見た。
涼の目。涼しくて、まっすぐで。でも今日は、少しだけ温かい。
「ごめんなさい、と、好き。それだけでいい」
咲は箸を握った。
「……涼」
「ん」
「ありがとう」
「いいよ。終わったら連絡して」
涼はそう言って、鯖の味噌煮に戻った。
---
四時。
三限が終わった。四限はない日。
咲は声楽科棟を出て、キャンパスの道を歩いた。
二月の午後。空は灰色がかった水色。日差しは弱いけれど、あたたかい。梅が咲き始めている。正門の近くの植え込みに、白い花が一つ、二つ。そばを通ると、冷たい空気の底に甘酸っぱい香りがかすかに混じっていた。
メディア芸術科棟。
五階建てのビル。ガラス張りのエントランス。自動ドア。前にベンチが三つ。十月に綴がスケッチブックを広げていたベンチ。
咲はベンチの一つに座った。
待った。
四時半に綴が出てくるとは限らない。授業の終わり方次第。でも水曜は四限で終わるはず。前にノートに書いてあった。「水曜は四限まで」と。
スパイの知識だ。
ベンチの座面はひんやりと冷たかった。コートのポケットに手を入れて、膝の上で拳を握った。指先の感覚を確かめる。手が震えていないことを確かめる。震えていた。
四時十分。
四時二十分。
四時半。
自動ドアが開いた。学生が何人か出てくる。綴じゃない。
四時三十五分。
ドアが開いた。
二人。
一人はショートカットの快活そうな子。環だ。綴のそばにいつもいる子。
もう一人。
銀色の髪。小柄。リュック。うつむいて歩いている。
綴。
咲の手が握りしめられた。立ち上がった。
足が動かない。
五メートル。綴と環が自動ドアを出て、ベンチの前を通りかかろうとしている。
環がこちらを見た。
咲と目が合った。環は一瞬だけ首を傾げて、それから何かを察したような顔をした。
環が綴の腕を軽くつついた。
「綴。誰か待ってるよ」
綴が顔を上げた。
目が合った。
綴の目が大きくなった。グレーがかった黒い目。前髪の下から覗いている。
声楽科の、あの子。キャンパスで何度かすれ違った、あの子。一月に目が合った、あの子。
綴は半歩、後ずさった。
環が綴の背中を軽く押した。ほんの少しだけ。「うち、先帰るね」。それだけ言って、自転車置き場の方に歩いていった。
二人きりになった。
メディア芸術科棟の前。ベンチの横。二月の午後の、傾きかけた日差し。
三メートルの距離。
咲は息を吸った。
深く。横隔膜を下げて。肋骨を広げて。声楽の呼吸。
声を出す前に、涼の言葉を思い出した。「言い訳なしで」。
「如月さん」
声が出た。自分の声。いつもの声。舞台で鍛えた声。でも少し、震えていた。
綴の体がびくりと動いた。
名前を、知っている。
この人が、自分の名前を知っている。声楽科の、話したこともない人が、「如月さん」と呼んだ。
綴の唇が動いた。声は出なかった。
咲は一歩、前に出た。
「あたし、春日咲。声楽・舞台芸術科の二年。スタジオ401を、朝使ってる」
風が吹いた。二月の風。綴の銀色の髪が揺れた。
綴の目が見開かれた。
スタジオ401。朝。
朝、使ってる。
「あなたがノートの人だって」
咲の声が震えていた。もう声楽の呼吸じゃなかった。ただの、咲の声だった。
「ずっと知ってた。秋から」
沈黙。
二月の空の下。メディア芸術科棟の前。ベンチの横。遠くで自転車のベルが鳴った。どこかで鳥が鳴いた。
綴の顔が変わった。
赤くなった。
青くなった。
白くなった。
順番に。一つずつ。感情が切り替わるたびに、顔の色が変わった。
赤は恥ずかしさ。あのノートに書いたこと全部。ケチャップの話も、泣きそうになった夜も、「好き」を認めた日も、「殻を壊した」と書いた一行も。全部、この人に読まれていた。
青は恐怖。この人は、知っていた。秋から。四ヶ月以上。あたしの名前も、顔も、学科も、全部知った上で、「顔も名前も知らない人」のふりをして、毎朝返事を書いていた。
白は理解。この人が、あの言葉を書いてくれた人。「両方本物だよ」と。「ぐちゃぐちゃでいいよ」と。「手のひらで包むよ」と。「ひびが入ったなら、そこから光が入るよ」と。
全部、この人。
目の前の、この人。
セミロングの茶色い髪。まっすぐな立ち方。少しだけ掠れた声。息が、不安定に揺れている。
「ごめん。ずっと言えなくて……」
咲の声が、途切れた。
ごめん。その一言に、四ヶ月分の嘘と、四ヶ月分の後ろめたさと、四ヶ月分の「言いたかったのに言えなかった」が詰まっていた。
綴の目に涙が溜まった。
何が何だかわからなかった。
恥ずかしい。怖い。裏切られた。あの安全な場所は、もうない。「顔を知らない人」はいなかった。最初から、秋から、この人は、あたしの全部を知っていた。
でも。
同時に。
この人が。
あの温かい言葉を。あの「全部知りたい」を。あの「おかえり、あなた」を。
書いてくれた人。
感情が多すぎて、口が開かない。喉が閉じている。いつものように。いつもの如月綴のように。
声が、出ない。
涙だけが、こぼれた。一滴。頬を伝って、顎から落ちた。
咲が一歩、近づいた。
「綴……」
名前を呼ばれた。下の名前で。この人の声で。
ここにいたい、と思った。
走った。
考える前に、体が動いた。
振り返って、走り出した。リュックが揺れる。銀色の髪が風に流れる。メディア芸術科棟の横を駆け抜けて、中庭を突っ切って、正門の方に。
兎の本能。
追い詰められたら、逃げる。理由もなく。考える前に。足が勝手に動く。
走りながら、呼吸が乱れた。前が霞む。足がもつれかける。でも止まれない。
何も言えなかった。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も「どうして黙ってたの」も「会いたかった」も。何一つ。
何一つ、声にならなかった。
また、喉が止めた。
一番大事なときに。一番声を出さなきゃいけないときに。
正門を駆け抜けた。守衛さんが何か言った。聞こえなかった。
走った。走った。走り続けた。
---
咲は、その場に立っていた。
綴が走り去った方を見ていた。銀色の髪が、中庭の向こうに消えていくのが見えた。リュックの左の肩紐が揺れていた。
追わなかった。
追えなかった。
追ったらあの子はもっと逃げる。追い詰められた兎は、もっと遠くに逃げる。
足の力が抜けた。ベンチに座り込んだ。
手が震えていた。膝の上で。
風が吹いた。二月の風。冷たい。梅の花びらが一枚、風に飛ばされて、足元に落ちた。さっきまで感じていた甘酸っぱい香りは、もうわからなかった。風が運び去ったのか、あたしの鼻が感じなくなったのか。
言った。
言ってしまった。
四ヶ月分の秘密を。十ヶ月分の嘘を。全部。
綴の顔が脳裏に焼きついている。赤くなって、青くなって、白くなった顔。涙が一滴こぼれた顔。何も言えずに走り出した背中。
あたしは正しかったのだろうか。
今日言うべきだったのだろうか。
綴がまだぐちゃぐちゃで、ヒヨコがよろよろしている時に、新しい衝撃を与えて、よかったのだろうか。
わからない。
でも、もう戻れない。
言ってしまった。ボールペンで書いた文字が消せないように。声に出した言葉は、消せない。
ポケットの中に、手を入れた。
指先に、何かが触れた。小さな、プラスチックの感触。
青いペンのキャップ。
十月に拾った。綴がベンチに落としたペンのキャップ。四ヶ月間、ずっとポケットに入れていた。
握りしめた。
返さなきゃ。
これは綴のものだ。返さなきゃいけない。
でも今日は、もう返せない。
足音がした。早い足音。走ってくる。
「咲!」
涼だった。息を切らせて走ってきた。コートの裾が翻っている。
「どうだった?」
咲は涼を見上げた。
ベンチに座ったまま。手をポケットに入れたまま。青いペンのキャップを握ったまま。
目が赤いのは、自分でわかった。泣いてはいない。泣いていないけれど、泣きそうだった。
「逃げられた」
涼は立ち止まった。
息を吐いた。白い息。
それからベンチの隣に座った。何も言わなかった。
二人で並んで座っていた。メディア芸術科棟の前。二月の午後。日が傾いて、影が長くなっている。
しばらくして、涼が口を開いた。
「追わなかったんだ」
「追えなかった」
「うん。正解」
「正解?」
「兎は追ったら逃げる。でも、追わなかったら、戻ってくるかもしれない」
咲は空を見上げた。灰色がかった水色の空。夕方に向かって、少しずつオレンジ色が混じり始めている。
「涼」
「ん」
「あたし、間違ってた?」
「間違ってない」
「でも、あの子……」
「間違ってない。遅すぎたかもしれないけど、間違ってはいない。言わないままの方が、ずっと間違ってた」
咲は目を閉じた。
涼の言葉が、少しだけ楽にしてくれた。
でも、楽になっちゃいけない。
あの子は今、一人で走っている。二月の冷たい空気の中を。泣きながら。何も言えないまま。
あたしがそうさせた。
「涼」
「ん」
「あの子が戻ってくるまで、待つ」
「うん」
「待つしか、できない」
涼はうなずいた。
二人はしばらく黙ってベンチに座っていた。
日が沈んでいく。空がオレンジから紫に変わる。街灯が点き始める。
咲は立ち上がった。
「帰ろう」
「うん」
二人で正門に向かって歩いた。
咲のポケットの中で、青いペンのキャップが冷たかった。
いつか、返す日が来る。
来なければ、いけない。




