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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第16章 兎の脱走

殻を壊した翌日の朝、如月綴は教室のドアに手をかけた。


引いた。重い。いつもと同じ金属のドアハンドルなのに、今日は指先に力が入らなかった。


教室に入った瞬間、何人かの視線がこちらを向いた。すぐに逸らされた。でも確かに、見られた。


席に着いた。鞄を机の上に置いた。


前の席の子が振り返った。今まで一度も話したことがない子。


「如月さん、昨日すごかったね」


「……」


何と答えればいいかわからなかった。ありがとう? すみません? 気にしないでください?


「あ、えっと」


「……ありがとう、ございます」


それだけ絞り出して、うつむいた。


前の席の子は微笑んで、前に向き直った。


斜め後ろの方で、ひそひそ声が聞こえた。


「如月さん、昨日の」


「なんかびっくりしたよね」


「ちょっと怖かったっていうか」


「えー、うちはかっこいいと思ったけど」


「ケチャップ」


綴は教科書を開いた。文字が頭に入ってこなかった。


---


昼休み。学食。


環と向かい合って座っていた。日替わり定食。今日は豚の生姜焼き。


カウンターで受け取ったトレーからは、生姜と醤油の甘辛い匂いが湯気と一緒に立ちのぼっていた。隣のテーブルでは誰かがカレーうどんを啜っていて、スパイスの香りが混ざって漂ってくる。学食の昼どきはいつもこんなふうに、いくつもの匂いが重なって空気が厚くなる。


環がごはんを食べながら、綴の様子をちらちら見ていた。


「綴」


「……ん」


「食べてないよ」


箸を見た。生姜焼きを一切れ持ち上げたまま、五分くらい止まっていた。


口に入れた。噛んだ。生姜の辛みが舌の奥を刺したけれど、味がどこか遠かった。


「なんか、みんなが、見てる」


「うん。そりゃそうだよ。昨日あれだけやったら」


「あれだけ……」


「うちはいいと思うけど。でもまあ、周りはびっくりするよね。十八ヶ月黙ってた子がいきなりしゃべりだしたら」


箸を置いた。


「環。あたし、どうすればいいの」


「どうって」


「みんなに、なんて言えばいいの。昨日のこと」


環は生姜焼きを一切れ食べて、みそ汁を飲んで、それからまっすぐ綴を見た。


「何も言わなくていいよ」


「でも」


「昨日言いたいこと言ったんでしょ。じゃあそれでいい。フォローなんていらない。ありのままでいればいいよ」


「ありのまま……」


「ありのままがケチャップ大好きの夜中のゲーマーなら、それでいいんだよ」


綴は箸を握ったまま、俯いた。


ありのまま。


それがわからない。


殻を壊した。「おとなしい如月さん」を壊した。でも壊した後に出てきたのは、何だ?


ノートの中のあたし? 饒舌で、面白くて、大胆な?


違う。ノートの中のあたしは、紙の上でだけ成立する。対面ではあのテンションで喋れない。あの言葉が口から出ない。


かといって、もう「おとなしい如月さん」にも戻れない。壊してしまった。


じゃあ、今のあたしは何なのか。


殻を壊した中身。ぐちゃぐちゃの。どっちでもない。おとなしくもないし、饒舌でもない。怒れるけど笑えない。声は出たけど止め方がわからない。


中途半端だ。


「環」


「ん」


「あたし、今、気持ち悪い」


「気持ち悪い?」


「なんか、皮を剥いだヒヨコみたい。殻は壊したけど、羽がまだ乾いてなくて、裸で風に当たってる感じ」


環はしばらく黙って、それから小さく笑った。


「綴、たとえ上手いね」


「……茶化さないで」


「茶化してない。ヒヨコはね、殻から出たらすぐ歩けるわけじゃないよ。最初はよろよろするし、ぶつかるし、コケる。でもそのうち歩ける。飛べる。鳴ける」


「……ヒヨコは飛ばない」


「ニワトリも一応飛ぶよ。低いけど」


綴は少しだけ笑ってしまった。


環はいつもこうだ。深いところに触れてから、すぐに軽くする。重さを、笑いで中和してくれる。


「ゆっくりでいいよ、綴。急がなくていい」


環はそう言って、みそ汁を飲み干した。


---


ゆっくりでいいと環は言った。


でも、周りはゆっくりじゃなかった。


「如月さんの一件」は、三日ほど話題になった。


戸惑って距離を置く子がいた。今まで目も合わせなかったのに、急に肩をぽんと叩いてくる子もいた。三年間同じクラスなのに初めて名前を呼ばれた相手もいた。


「如月さんって本当は面白い子なんだね」


「前からちょっと気になってたんだ」


「ゲーム作ってるの? 見せてよ」


綴はどれにもうまく対応できなかった。


面白い子だと言われても、何を返せばいいかわからない。「見せてよ」と言われても、作品を人に見せる準備ができていない。学園祭のあれは匿名だったからできた。名前を出して見せるのは、まだ無理だ。


「……ごめん、ちょっと」


「あ、うん。いいよいいよ」


相手は引いてくれた。でもその引き方が、「やっぱりおとなしい子だ」と思い直した引き方に見えた。


殻を壊しても、中身がこれじゃ、結局同じだ。


声を出しても。怒れても。ケチャップの話をしても。


対面では、まだ、こんなもの。


---


夜。スタジオ401。


ドアを開けると、防音扉の向こうの空気がひんやりと肌に触れた。空調を止めたあとの、こもった静けさの匂い。蛍光灯の下で吸音材の白い壁が光っている。


ノートを手に取った。


ペンを握った。


書こうとした。


書けなかった。


今まで当たり前のように出ていた言葉が、出てこない。


いつもなら、今日あったことを書く。面白く。軽く。ツッコミを入れながら。「今日さあ」から始めて、オチをつけて。


でも今日の出来事は、面白くない。


面白くできない。


学食で環と話したこと。周りの反応。「面白い子なんだね」と言ってきた人。「やっぱりおとなしい」と引いていった人。


どれも笑いに変換できない。


ノートの中のあたしは、何でも笑いに変えられるはずだった。辛いことも、悲しいことも、恥ずかしいことも、ぜんぶ「ネタ」にして、軽く書けた。


今、それができない。


殻を壊したら、ノートの中の自分まで壊れてしまったのだろうか。


「おとなしい如月さん」は壊した。でも「ノートの中の饒舌な如月さん」も、一緒に壊れかけている。


どっちもあたしだったのに。


どっちも中途半端になった。


ペンを握ったまま、十分。二十分。


ようやく、書いた。


---


> ごめん。最近うまく書けない。

>

> 殻を壊したら、中身もぐちゃぐちゃだった。ノートの中のあたしも、表のあたしも、どっちも中途半端で。

>

> 前は、ここでは何でも書けた。面白く書けた。自分でも信じられないくらい、言葉が出てきた。

>

> 今は出てこない。殻を壊したはいいけど、中身が丸出しで、どうしていいかわからない。

>

> ヒヨコが殻から出たら、羽が乾くまでよろよろするらしい。今のあたしがそれ。よろよろしてる。

>

> ……あなたに読ませる文章じゃないね。ごめん。


---


書き終えた。


ページを見た。字が小さい。いつもより。余白が多い。いつもならページいっぱいに書くのに、今日は半分も埋まっていない。


ノートを棚に戻した。


パソコンの電源を入れた。作業をしようとした。


できなかった。


何もできなかった。


スタジオを出た。帰った。


---


翌朝。咲が書いた返事。


翌夜。綴がそれを読んだ。


---


> ぐちゃぐちゃでいいよ。

>

> あたしはぐちゃぐちゃのあなたのことも知りたい。

>

> おとなしいあなたも、饒舌なあなたも、面白いあなたも、泣いてるあなたも、怒ってるあなたも、中途半端なあなたも。全部。

>

> ヒヨコがよろよろしてたら、あたしが手のひらで包むよ。羽が乾くまで。


---


綴はノートを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。体が凍りついている。呼吸だけが浅く速くなって、指先の感覚が遠くなっていく。


「あたしが手のひらで包むよ」。


この人は。


いつもそうだ。あたしが崩れそうなとき、ちょうどいい場所に手を差し出してくれる。強く引っ張らない。突き放さない。ただ、手のひらを見せてくれる。


怖い。


この人の前に立つのが怖い。


今のぐちゃぐちゃの自分を見られるのが、怖い。ノートの中の饒舌な自分を期待されて、目の前ではよろよろしている自分を見せることになるのが、怖い。


でも。


この人は「ぐちゃぐちゃでいい」と書いた。


「全部」と書いた。


信じていいのだろうか。


綴はノートを閉じた。棚に戻した。


椅子に座って、天井を見上げた。


白い吸音材。蛍光灯の光。


九ヶ月。いや、もう十ヶ月になる。あの四月の夜に、ノートを忘れたところから始まった。


十ヶ月、この人と文字を交わした。


文字を通して、あたしはこの人を信じている。


でも「会う」となると怖い。


文字の関係は安全だった。顔が見えない。声が聞こえない。あたしの一番いいところだけ見せられる。


会ったら全部が見える。よろよろしているヒヨコが。声が小さくて、目を合わせられなくて、教室では一言も喋れないのにノートでは饒舌で、その落差が見える。


がっかりされる。


ノートのあたしが好きだったのに、目の前のあたしは、こんなもの。


そう思われる。


……でもこの人は、「全部知りたい」と。


目を閉じた。


怖い。会いたい。怖い。会いたい。


二つの気持ちが交互に来て、どちらが本物かわからない。


両方、本物だ。


---


次の夜。


綴はスタジオに来なかった。


寒かったから。二月の夜は冷える。それが理由のはずだ。


ノートに書くことが思いつかなかったからじゃない。あの人の返事を読むのが怖かったからじゃない。


翌々日の夜は来た。でもノートを手に取って、棚に戻した。書かずに。


あの人は二日分の返事を書いてくれていた。一日目は「今日はお休み? ゆっくりしてね」。二日目は「待ってるよ。いつでも」。


「待ってるよ」。


その一言が重い。


待ってくれている。あたしが書くのを。あたしが来るのを。


あたしは、この人を待たせている。十ヶ月間ずっと返事を書いてくれた人を。


ペンを取った。


> ……ごめん。来なかった。

>

> 怖い。ここに来るのが。あなたの返事を読むのが。読んだら、あなたの優しさが、あたしの中のぐちゃぐちゃに触れるから。触れたら崩れそうで。

>

> でも来ちゃった。来ないのはもっと怖いから。あなたの声が聞こえない日は……文字の声だけど……息ができないみたいになるから。

>

> 矛盾してるね。怖いのに来る。逃げたいのに戻る。

>

> 兎だから。逃げるけど、寂しがり。


書き終えた。


「兎だから」。


シグナルちゃん。あの折り紙のウサギ。耳を片方だけ立てて、何か言いたそうな顔をしている。


あのウサギは、あたしだ。


逃げるけど、見つけてほしい。隠れるけど、探してほしい。怖いけど、会いたい。


ノートを棚に戻した。


スタジオを出た。廊下は暗い。蛍光灯が半分消えている。


階段を下りながら、考えた。


明日、来よう。明後日も。


逃げても、戻る。兎はそういう生き物だ。


でも、いつか、逃げるのをやめなければならない。


いつか。


まだ「いつか」と言っている。あの人も、きっと「いつか」と書いている。


二人とも「いつか」の中にいる。


誰かが、その「いつか」を「今日」に変えなければ。


正門を出た。二月の夜。星が見える。冬の星座は明るい。オリオンが西に傾き始めている。もうすぐ春の星座に替わる。


もうすぐ、二月十四日。


あたしの誕生日。


誰も知らない。ノートの相手にも、書いたことがない。


書こうか。「もうすぐ誕生日なの」って。


書いたら。あの人は何をしてくれるだろう。


想像して、少しだけ笑った。


自転車に乗った。ペダルを踏んだ。


冷たい空気が頬を切る。でも少しだけ、ぬるくなった気がする。


春が、近い。


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