第15章 私はそんな子じゃない
二月。
ひびは、広がっていた。
一月の期末発表で声を出して以来、如月綴の中で何かが変わっていた。変わったというより——ずれた。今まで噛み合っていたものが、噛み合わなくなった。
授業中。黙って座っている。いつもと同じ。でも今までと違うのは、黙っていることが苦しいと自覚していること。
前は気づかなかった。黙っていることが当たり前すぎて、それが苦しいことだと思っていなかった。空気のように息苦しさがあって、でもそれを息苦しさだと名前をつけていなかった。
ひびが入ったら、空気が入ってきた。外の空気。自由な空気。
その空気を吸ったら、もう、元の息苦しさには戻れなかった。
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水曜日。三限のあと。
教室に残っている学生が五、六人。片付けをしながら、雑談している。暖房で温められた教室にこもった空気。ホワイトボードマーカーの溶剤と、誰かのハンドクリームの甘い香りが混ざっている。
綴は鞄に教科書を入れていた。帰ろうとしていた。
後ろの席で、声が聞こえた。
「如月さんって、ほんと清楚だよね」
女子が二人。同じ学年の子。名前はあまり覚えていない。何度か同じ授業を取っている子。
「おとなしくて、いい子だよね。声聞いたことほとんどないけど」
「前の期末発表で初めてちゃんと声聞いた気がする。きれいな声だったよね」
「うんうん。でもほんと、清楚って感じ」
悪意はなかった。
褒めているのだ。「清楚」は褒め言葉として使っている。「おとなしい」も「いい子」も。善意の、何気ない、日常の一コマ。
でも綴の手が、止まった。
教科書が鞄に入らない。入れようとしている手が、震えている。
清楚。
おとなしい。
いい子。
声を聞いたことがない。
また。
また箱に入れられる。きれいな、やわらかい箱。居心地がいいはずの箱。でも箱だ。
一年半前の自己紹介から始まった箱。十二文字の「よろしくお願いします」から始まった箱。
毎日、毎授業、毎回のグループワークで強化されてきた箱。
期末発表で声を出したのに、「きれいな声だった」で、また箱に入れられた。
きれいな声。清楚な子が、たまにきれいな声を出した。それだけ。
違う。
あれはきれいな声じゃなかった。震えていた。怖くて。でも止められなくて。作品を守りたくて。
それを、「きれいな声だったよね」。
何かが、弾けた。
鞄を置いた。立ち上がった。椅子が音を立てた。
教室の中にいた五、六人が、ちらりとこちらを見た。
心臓が暴れている。手が震えている。足も。全身が。
口を開いた。
「私は......」
声が小さかった。でも出ていた。
二人の女子がこちらを見た。驚いた顔。如月さんが振り返った。如月さんが口を開いた。
「私は、みんなが思ってるような子じゃない」
声が震えていた。でも、出ていた。教室の中に、響いていた。
「おとなしくなんかない」
五、六人が全員こちらを見ている。手が震えている。喉が詰まりそうになる。でも止まらない。止められない。ひびの向こうから、十八ヶ月分の空気が押し出されてくる。
「言いたいことは山ほどある。授業のたびに黙ってたけど、頭の中では意見がぜんぶあった。テーマだって、コンセプトだって、技術のことだって。ぜんぶ、ぜんぶあったのに、喉が通さなかっただけで」
息を吸った。震える息。
「料理にケチャップをかけすぎるし、人のイラストを見たら辛辣な感想が出てくるし、夜中にゲーム作ってるし、折り紙が好きだし、雨の音を三種類に聴き分けるし」
言葉が溢れている。ノートの中のあたしが、喉の検閲を突破して、口から出てきている。
「清楚なんかじゃない。おとなしくもない。いい子でもない。ノートの中では......」
止まった。
ノート。
今、「ノートの中では」と言いかけた。
息が詰まった。教室の空気が、重くなった。
五、六人が綴を見ている。驚いた顔。戸惑った顔。何が起きているのかわからない顔。一番近い席の子が、椅子ごと少し後ろに引いていた。
「ノートの中では」の続きが、喉の手前で止まっている。
ノートのことは、言えない。あれはあたしと、あの人だけのものだ。
口を閉じた。
唇が震えていた。目が熱い。泣きそう。泣くな。泣いたら、また「かわいそうな子」の箱に入れられる。
教室が静かだった。誰も何も言わなかった。
靴の音がした。
環が、席を立っていた。
教室の後ろの方から歩いてくる。いつもの快活な足取り。でも表情は、笑顔でも、驚きでもなかった。穏やかだった。
綴の前に来た。
環の目が、綴の目を見た。まっすぐ。
「知ってたよ」
環の声。普通の音量。普通のトーン。
「綴はそういう子だって。うちは、ずっと知ってた」
綴の目から、涙がこぼれた。
堪えられなかった。目の奥が熱くなって、まばたきをした瞬間に、ぼろっと。大粒の涙が、頬を伝った。
「……たまき」
声が、割れた。
環が綴の腕を取った。「行こ」。それだけ言って、教室のドアに向かった。綴の腕を引いて。
教室の中の五、六人は、まだ固まっていた。
ドアが閉まった。廊下に出た。
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廊下。蛍光灯。窓の外は曇り空。二月の午後。
環が綴を廊下の端のベンチまで連れていった。座らせた。隣に座った。
綴は泣いていた。声を出さずに。涙だけが止まらなかった。
環は何も言わなかった。隣に座って、前を向いていた。
三分。五分。十分。
廊下を学生が何人か通り過ぎた。泣いている綴を見て、ちらりと視線を向けて、通り過ぎていった。
ようやく、涙が止まった。鼻をすすった。目を袖で拭いた。
「……環」
「ん」
「あたし、今......すごいことした?」
「すごいことした」
「……教室で叫んだ」
「叫んでたね」
「ケチャップの話した」
「してた。あれ面白かった」
「……面白がるとこじゃない」
「面白いよ。ケチャップかけすぎは初耳だったけど。料理に?」
「……なんにでも」
環が笑った。声を出して。
綴も、笑ってしまった。泣きながら。涙と笑い声が混ざった。
「最悪だ」
「最悪じゃないよ」
「だって......みんなの前で。あんなこと」
「あんなこと言ってよかったんだよ。十八ヶ月分でしょ。溜まってたの」
綴は膝を抱えた。ベンチの上で小さくなった。
「……環は、知ってたの」
「何を」
「あたしが、おとなしくないってこと」
環は少し首を傾げた。
「入学の時から。自己紹介で声が出なかったとき、綴の手が拳になってたの見えた。あれ、緊張じゃなくて悔しさだなって思った」
「……見てたんだ」
「うちだって目はあるよ」
環はそう言って、前を向いた。
「綴はずっとそうだった。黙ってるけど、中身はうるさい。表情は動かないけど、手がいつも何かを作ってる。しゃべれないけど、しゃべりたいのは、見てればわかる」
綴は膝に顔を埋めた。
「……なんで今まで言わなかったの」
「綴が自分で言うまで待ってた」
「……」
「他人が『あんたは本当はこうでしょ』って言っても意味ないじゃん。自分で殻を割らないと。ひなは中からつつかないと出てこれないでしょ」
綴は顔を上げた。
環が笑っていた。いつもの笑顔。明るくて、まっすぐで、でもその奥に十八ヶ月分の忍耐がにじんでいた。入学の日からずっと、環は綴の拳を見ていた。黙っている綴の中に、しゃべりたがっている誰かがいることを知っていた。知っていて、待っていた。十八ヶ月。
「……ありがとう」
「いいよ。やっと出てきたね、綴」
風が廊下の窓から入ってきた。二月の風。冷たい。でも十一月のあの日より、少しだけぬるい。風の中にかすかに水の匂いが混じっていた。雪ではない。遠くの雨か、それとも春の気配か。
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夜。
スタジオ401。
ドアを閉めた。
防音材と古い空調のかすかな埃っぽさ。この部屋の匂い。あの人の朝の気配が、まだどこかに残っているような気がした。
椅子に座った。
机に突っ伏した。
泣き疲れた。目が腫れている。鼻が詰まっている。頭がぼんやりする。
でも、不思議と、軽い。
体の中に詰まっていた何かが、今日、ぜんぶ出た。十八ヶ月分の「おとなしい如月さん」が、教室の床にぶちまけられた。
散らかったままだ。片づけていない。明日教室に行ったら、みんなの目が怖い。怖いけど。
でも、軽い。
肩が。胸が。喉が。
初めて、喉が開いている気がする。
しばらく突っ伏していた。
やがて体を起こした。ノートを手に取った。
ペンを握った。
たくさん書こうとした。今日の教室のこと。環のこと。泣いたこと。笑ったこと。ケチャップの話をしたこと。清楚じゃないと宣言したこと。
でも書けなかった。たくさんは。
一行だけ、書いた。
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> 今日、殻を壊した。もう隠れない。
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それだけだった。
それだけで、ぜんぶだった。
ペンを置いた。ノートを棚に戻した。
机に突っ伏した。目を閉じた。
あの人が、明日の朝、これを読む。
たった一行。でもあの人なら、わかってくれる。あたしに何が起きたか。あたしが何を壊したか。
あの人が何を書いてくれるか。それだけが、今のあたしの支えだ。
目を閉じたまま、小さく笑った。
もう隠れない。
もう戻らない。
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翌日。
噂は、半日で広がった。
「メディア芸術科の如月さんが、授業で急にキレた」
「キレたっていうか、急にしゃべりだしたっていうか」
「おとなしい子でしょ? あの銀髪の」
「清楚じゃないって言ったらしい」
「ケチャップがどうとか」
「え、ケチャップ?」
声楽科棟の廊下で、咲はその噂を聞いた。
四限の終わり。教室を出たところで、前を歩いていた二人組の会話が耳に入った。廊下には練習室から漏れてくるピアノの和音と、蒸気暖房の乾いた空気の匂いが充満していた。
「如月さんって知ってる? メディア芸術科の」
「ああ、あの静かな子?」
「その子が、昨日の授業でいきなり立ち上がって、『私はみんなが思ってるような子じゃない』って」
咲の足が止まった。
「おとなしくないって。言いたいことは山ほどあるって。ケチャップがどうとか、ゲーム作ってるとか、いろいろ言って。最後、泣いちゃったらしいけど」
「えー、すごい。何があったの」
「わかんない。でも友達の橘さんが『ずっと知ってた』って言って、二人で教室出てったらしい」
二人組は歩いていった。声が遠ざかる。
咲は廊下の壁に背をつけて、立っていた。
手が震えていた。
綴が。
綴が、殻を壊した。
人前で。教室で。「清楚じゃない」と。「おとなしくない」と。「言いたいことは山ほどある」と。
あの子が、ついに。
目が熱くなった。廊下には人がいる。泣けない。
鞄を握った。指が白くなるくらい。
胸が震えていた。嬉しさ。誇らしさ。そして、焦り。
綴が動いた。
綴が自分の足で、檻の外に出た。
あたしは、まだ檻の中にいる。「知らないふり」の檻の中に。
綴が殻を壊したのに、あたしはまだ嘘をついている。
もう、「いつか」は言えない。
綴が殻を壊したのに、あたしだけがスパイを続けているのは、もう、許されない。
でも今日じゃない。今日はまだ。
今日はまだ。まず、ノートに返事を書く。明日の朝。
明日の朝、あたしは401号室に行って、綴の一行を読む。そして。
何を書けばいいだろう。
「すごい」? 足りない。
「がんばったね」? 上から目線だ。
「あなたを誇りに思う」? あたしにその資格があるのか。
嘘をつき続けているあたしに、殻を壊した綴を褒める資格が、あるのか。
「咲?」
声がした。振り返った。涼がいた。
「……涼」
「顔、やばい」
「やばい?」
「泣きそう」
「……泣いてない」
涼は咲の隣に立った。壁に背をつけて。
「何かあった?」
「……メディア芸術科の子が」
「ノートの子?」
「殻を壊したって。人前で」
涼は黙った。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「じゃあ、そろそろ咲も、壊す番だね」
咲は涼を見た。
涼の目が、まっすぐこちらを見ていた。涼しい目。でも温かい。
「……うん」
声が、震えた。
「うん。もうすぐ」
涼はうなずいた。
それだけだった。
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翌朝。
401号室。
ノートを開いた。
一行。
「今日、殻を壊した。もう隠れない。」
咲はその一行を、何度も読んだ。
五回。十回。
短い。たった一行。でもこの一行に、綴の十八ヶ月が詰まっている。
入学の日。自己紹介で声が出なかった日。「おとなしい子」のレッテルが貼られた日。毎日の沈黙。毎回のグループワーク。毎学期の自己紹介。
十八ヶ月の「おとなしい如月さん」。
それを、「もう隠れない」と。
涙が滲んだ。拭いた。もうノートに落とさない。
ペンを取った。
長い時間、考えた。何を書くか。
嘘つきのスパイが書ける言葉。殻を壊した勇敢な子に、まだ嘘をついたまま書ける言葉。
資格がないと思った。でも書かなければ、綴は明日の夜、空白のページを見ることになる。それだけは、だめだ。
書いた。
> もう隠れないで。おかえり、あなた。
>
> ずっと待ってた。ノートの中のあなたが、外に出てくるのを。
>
> あなたの声は、ちゃんと届いてる。ここに。ずっと前から。
>
> あたしも、もうすぐ。あたしも、殻を壊す。約束する。
書き終えた。
「あたしも、殻を壊す」。
これは約束だ。
ノートに書いた以上、守らなければならない。
綴がもう隠れないと言ったように、あたしも、嘘を隠すのをやめなければならない。
もうすぐ。
もうすぐ、あたしは、あなたの前に立つ。
ノートを棚に戻した。
窓のない部屋。蛍光灯。空調の音。
咲は目を閉じて、深く息を吸った。
横隔膜を下げて、肋骨を広げて。声楽の呼吸。
目を開けた。
二月だ。
もうすぐ、二月十四日。
綴の誕生日。
あの子が知らない、あたしだけが知っている日付。
その日までに、決める。
全部。




