表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラビット・シグナル  作者: はるうた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/20

第15章 私はそんな子じゃない

二月。


ひびは、広がっていた。


一月の期末発表で声を出して以来、如月綴の中で何かが変わっていた。変わったというより——ずれた。今まで噛み合っていたものが、噛み合わなくなった。


授業中。黙って座っている。いつもと同じ。でも今までと違うのは、黙っていることが苦しいと自覚していること。


前は気づかなかった。黙っていることが当たり前すぎて、それが苦しいことだと思っていなかった。空気のように息苦しさがあって、でもそれを息苦しさだと名前をつけていなかった。


ひびが入ったら、空気が入ってきた。外の空気。自由な空気。


その空気を吸ったら、もう、元の息苦しさには戻れなかった。


---


水曜日。三限のあと。


教室に残っている学生が五、六人。片付けをしながら、雑談している。暖房で温められた教室にこもった空気。ホワイトボードマーカーの溶剤と、誰かのハンドクリームの甘い香りが混ざっている。


綴は鞄に教科書を入れていた。帰ろうとしていた。


後ろの席で、声が聞こえた。


「如月さんって、ほんと清楚だよね」


女子が二人。同じ学年の子。名前はあまり覚えていない。何度か同じ授業を取っている子。


「おとなしくて、いい子だよね。声聞いたことほとんどないけど」


「前の期末発表で初めてちゃんと声聞いた気がする。きれいな声だったよね」


「うんうん。でもほんと、清楚って感じ」


悪意はなかった。


褒めているのだ。「清楚」は褒め言葉として使っている。「おとなしい」も「いい子」も。善意の、何気ない、日常の一コマ。


でも綴の手が、止まった。


教科書が鞄に入らない。入れようとしている手が、震えている。


清楚。


おとなしい。


いい子。


声を聞いたことがない。


また。


また箱に入れられる。きれいな、やわらかい箱。居心地がいいはずの箱。でも箱だ。


一年半前の自己紹介から始まった箱。十二文字の「よろしくお願いします」から始まった箱。


毎日、毎授業、毎回のグループワークで強化されてきた箱。


期末発表で声を出したのに、「きれいな声だった」で、また箱に入れられた。


きれいな声。清楚な子が、たまにきれいな声を出した。それだけ。


違う。


あれはきれいな声じゃなかった。震えていた。怖くて。でも止められなくて。作品を守りたくて。


それを、「きれいな声だったよね」。


何かが、弾けた。


鞄を置いた。立ち上がった。椅子が音を立てた。


教室の中にいた五、六人が、ちらりとこちらを見た。


心臓が暴れている。手が震えている。足も。全身が。


口を開いた。


「私は......」


声が小さかった。でも出ていた。


二人の女子がこちらを見た。驚いた顔。如月さんが振り返った。如月さんが口を開いた。


「私は、みんなが思ってるような子じゃない」


声が震えていた。でも、出ていた。教室の中に、響いていた。


「おとなしくなんかない」


五、六人が全員こちらを見ている。手が震えている。喉が詰まりそうになる。でも止まらない。止められない。ひびの向こうから、十八ヶ月分の空気が押し出されてくる。


「言いたいことは山ほどある。授業のたびに黙ってたけど、頭の中では意見がぜんぶあった。テーマだって、コンセプトだって、技術のことだって。ぜんぶ、ぜんぶあったのに、喉が通さなかっただけで」


息を吸った。震える息。


「料理にケチャップをかけすぎるし、人のイラストを見たら辛辣な感想が出てくるし、夜中にゲーム作ってるし、折り紙が好きだし、雨の音を三種類に聴き分けるし」


言葉が溢れている。ノートの中のあたしが、喉の検閲を突破して、口から出てきている。


「清楚なんかじゃない。おとなしくもない。いい子でもない。ノートの中では......」


止まった。


ノート。


今、「ノートの中では」と言いかけた。


息が詰まった。教室の空気が、重くなった。


五、六人が綴を見ている。驚いた顔。戸惑った顔。何が起きているのかわからない顔。一番近い席の子が、椅子ごと少し後ろに引いていた。


「ノートの中では」の続きが、喉の手前で止まっている。


ノートのことは、言えない。あれはあたしと、あの人だけのものだ。


口を閉じた。


唇が震えていた。目が熱い。泣きそう。泣くな。泣いたら、また「かわいそうな子」の箱に入れられる。


教室が静かだった。誰も何も言わなかった。


靴の音がした。


環が、席を立っていた。


教室の後ろの方から歩いてくる。いつもの快活な足取り。でも表情は、笑顔でも、驚きでもなかった。穏やかだった。


綴の前に来た。


環の目が、綴の目を見た。まっすぐ。


「知ってたよ」


環の声。普通の音量。普通のトーン。


「綴はそういう子だって。うちは、ずっと知ってた」


綴の目から、涙がこぼれた。


堪えられなかった。目の奥が熱くなって、まばたきをした瞬間に、ぼろっと。大粒の涙が、頬を伝った。


「……たまき」


声が、割れた。


環が綴の腕を取った。「行こ」。それだけ言って、教室のドアに向かった。綴の腕を引いて。


教室の中の五、六人は、まだ固まっていた。


ドアが閉まった。廊下に出た。


---


廊下。蛍光灯。窓の外は曇り空。二月の午後。


環が綴を廊下の端のベンチまで連れていった。座らせた。隣に座った。


綴は泣いていた。声を出さずに。涙だけが止まらなかった。


環は何も言わなかった。隣に座って、前を向いていた。


三分。五分。十分。


廊下を学生が何人か通り過ぎた。泣いている綴を見て、ちらりと視線を向けて、通り過ぎていった。


ようやく、涙が止まった。鼻をすすった。目を袖で拭いた。


「……環」


「ん」


「あたし、今......すごいことした?」


「すごいことした」


「……教室で叫んだ」


「叫んでたね」


「ケチャップの話した」


「してた。あれ面白かった」


「……面白がるとこじゃない」


「面白いよ。ケチャップかけすぎは初耳だったけど。料理に?」


「……なんにでも」


環が笑った。声を出して。


綴も、笑ってしまった。泣きながら。涙と笑い声が混ざった。


「最悪だ」


「最悪じゃないよ」


「だって......みんなの前で。あんなこと」


「あんなこと言ってよかったんだよ。十八ヶ月分でしょ。溜まってたの」


綴は膝を抱えた。ベンチの上で小さくなった。


「……環は、知ってたの」


「何を」


「あたしが、おとなしくないってこと」


環は少し首を傾げた。


「入学の時から。自己紹介で声が出なかったとき、綴の手が拳になってたの見えた。あれ、緊張じゃなくて悔しさだなって思った」


「……見てたんだ」


「うちだって目はあるよ」


環はそう言って、前を向いた。


「綴はずっとそうだった。黙ってるけど、中身はうるさい。表情は動かないけど、手がいつも何かを作ってる。しゃべれないけど、しゃべりたいのは、見てればわかる」


綴は膝に顔を埋めた。


「……なんで今まで言わなかったの」


「綴が自分で言うまで待ってた」


「……」


「他人が『あんたは本当はこうでしょ』って言っても意味ないじゃん。自分で殻を割らないと。ひなは中からつつかないと出てこれないでしょ」


綴は顔を上げた。


環が笑っていた。いつもの笑顔。明るくて、まっすぐで、でもその奥に十八ヶ月分の忍耐がにじんでいた。入学の日からずっと、環は綴の拳を見ていた。黙っている綴の中に、しゃべりたがっている誰かがいることを知っていた。知っていて、待っていた。十八ヶ月。


「……ありがとう」


「いいよ。やっと出てきたね、綴」


風が廊下の窓から入ってきた。二月の風。冷たい。でも十一月のあの日より、少しだけぬるい。風の中にかすかに水の匂いが混じっていた。雪ではない。遠くの雨か、それとも春の気配か。


---


夜。


スタジオ401。


ドアを閉めた。


防音材と古い空調のかすかな埃っぽさ。この部屋の匂い。あの人の朝の気配が、まだどこかに残っているような気がした。


椅子に座った。


机に突っ伏した。


泣き疲れた。目が腫れている。鼻が詰まっている。頭がぼんやりする。


でも、不思議と、軽い。


体の中に詰まっていた何かが、今日、ぜんぶ出た。十八ヶ月分の「おとなしい如月さん」が、教室の床にぶちまけられた。


散らかったままだ。片づけていない。明日教室に行ったら、みんなの目が怖い。怖いけど。


でも、軽い。


肩が。胸が。喉が。


初めて、喉が開いている気がする。


しばらく突っ伏していた。


やがて体を起こした。ノートを手に取った。


ペンを握った。


たくさん書こうとした。今日の教室のこと。環のこと。泣いたこと。笑ったこと。ケチャップの話をしたこと。清楚じゃないと宣言したこと。


でも書けなかった。たくさんは。


一行だけ、書いた。


---


> 今日、殻を壊した。もう隠れない。


---


それだけだった。


それだけで、ぜんぶだった。


ペンを置いた。ノートを棚に戻した。


机に突っ伏した。目を閉じた。


あの人が、明日の朝、これを読む。


たった一行。でもあの人なら、わかってくれる。あたしに何が起きたか。あたしが何を壊したか。


あの人が何を書いてくれるか。それだけが、今のあたしの支えだ。


目を閉じたまま、小さく笑った。


もう隠れない。


もう戻らない。


---


翌日。


噂は、半日で広がった。


「メディア芸術科の如月さんが、授業で急にキレた」


「キレたっていうか、急にしゃべりだしたっていうか」


「おとなしい子でしょ? あの銀髪の」


「清楚じゃないって言ったらしい」


「ケチャップがどうとか」


「え、ケチャップ?」


声楽科棟の廊下で、咲はその噂を聞いた。


四限の終わり。教室を出たところで、前を歩いていた二人組の会話が耳に入った。廊下には練習室から漏れてくるピアノの和音と、蒸気暖房の乾いた空気の匂いが充満していた。


「如月さんって知ってる? メディア芸術科の」


「ああ、あの静かな子?」


「その子が、昨日の授業でいきなり立ち上がって、『私はみんなが思ってるような子じゃない』って」


咲の足が止まった。


「おとなしくないって。言いたいことは山ほどあるって。ケチャップがどうとか、ゲーム作ってるとか、いろいろ言って。最後、泣いちゃったらしいけど」


「えー、すごい。何があったの」


「わかんない。でも友達の橘さんが『ずっと知ってた』って言って、二人で教室出てったらしい」


二人組は歩いていった。声が遠ざかる。


咲は廊下の壁に背をつけて、立っていた。


手が震えていた。


綴が。


綴が、殻を壊した。


人前で。教室で。「清楚じゃない」と。「おとなしくない」と。「言いたいことは山ほどある」と。


あの子が、ついに。


目が熱くなった。廊下には人がいる。泣けない。


鞄を握った。指が白くなるくらい。


胸が震えていた。嬉しさ。誇らしさ。そして、焦り。


綴が動いた。


綴が自分の足で、檻の外に出た。


あたしは、まだ檻の中にいる。「知らないふり」の檻の中に。


綴が殻を壊したのに、あたしはまだ嘘をついている。


もう、「いつか」は言えない。


綴が殻を壊したのに、あたしだけがスパイを続けているのは、もう、許されない。


でも今日じゃない。今日はまだ。


今日はまだ。まず、ノートに返事を書く。明日の朝。


明日の朝、あたしは401号室に行って、綴の一行を読む。そして。


何を書けばいいだろう。


「すごい」? 足りない。


「がんばったね」? 上から目線だ。


「あなたを誇りに思う」? あたしにその資格があるのか。


嘘をつき続けているあたしに、殻を壊した綴を褒める資格が、あるのか。


「咲?」


声がした。振り返った。涼がいた。


「……涼」


「顔、やばい」


「やばい?」


「泣きそう」


「……泣いてない」


涼は咲の隣に立った。壁に背をつけて。


「何かあった?」


「……メディア芸術科の子が」


「ノートの子?」


「殻を壊したって。人前で」


涼は黙った。


しばらくして、小さく息を吐いた。


「じゃあ、そろそろ咲も、壊す番だね」


咲は涼を見た。


涼の目が、まっすぐこちらを見ていた。涼しい目。でも温かい。


「……うん」


声が、震えた。


「うん。もうすぐ」


涼はうなずいた。


それだけだった。


---


翌朝。


401号室。


ノートを開いた。


一行。


「今日、殻を壊した。もう隠れない。」


咲はその一行を、何度も読んだ。


五回。十回。


短い。たった一行。でもこの一行に、綴の十八ヶ月が詰まっている。


入学の日。自己紹介で声が出なかった日。「おとなしい子」のレッテルが貼られた日。毎日の沈黙。毎回のグループワーク。毎学期の自己紹介。


十八ヶ月の「おとなしい如月さん」。


それを、「もう隠れない」と。


涙が滲んだ。拭いた。もうノートに落とさない。


ペンを取った。


長い時間、考えた。何を書くか。


嘘つきのスパイが書ける言葉。殻を壊した勇敢な子に、まだ嘘をついたまま書ける言葉。


資格がないと思った。でも書かなければ、綴は明日の夜、空白のページを見ることになる。それだけは、だめだ。


書いた。


> もう隠れないで。おかえり、あなた。

>

> ずっと待ってた。ノートの中のあなたが、外に出てくるのを。

>

> あなたの声は、ちゃんと届いてる。ここに。ずっと前から。

>

> あたしも、もうすぐ。あたしも、殻を壊す。約束する。


書き終えた。


「あたしも、殻を壊す」。


これは約束だ。


ノートに書いた以上、守らなければならない。


綴がもう隠れないと言ったように、あたしも、嘘を隠すのをやめなければならない。


もうすぐ。


もうすぐ、あたしは、あなたの前に立つ。


ノートを棚に戻した。


窓のない部屋。蛍光灯。空調の音。


咲は目を閉じて、深く息を吸った。


横隔膜を下げて、肋骨を広げて。声楽の呼吸。


目を開けた。


二月だ。


もうすぐ、二月十四日。


綴の誕生日。


あの子が知らない、あたしだけが知っている日付。


その日までに、決める。


全部。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ