第14章 ひびが入る
一月下旬。
期末発表の季節。
メディア芸術科の二年生は、後期の制作課題をプレゼンテーション形式で発表する。一人十五分。制作物の上映またはデモ、コンセプトの説明、質疑応答。
如月綴の発表は、四日目の三番目だった。
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教室。階段教室ではなく、普通の講義室。机を壁に寄せて、正面にスクリーンとプロジェクター。学生が二十人ほど。教授が二人。
一番目の発表。3DCGのショートフィルム。宇宙を漂うクラゲの映像。きれいだった。拍手。
二番目。インタラクティブなWebアプリ。地図の上にユーザーの記憶を書き込めるサービス。面白い。拍手。
三番目。
「次、如月さん」
教授の声。穏やかな声。
綴は席を立った。
足が重い。教壇までの五歩が、五十歩に感じた。
USBメモリを教卓のパソコンに挿した。画面にプロジェクトのフォルダが表示される。ファイルを選ぶ。手が震えている。マウスのクリック音が、自分にだけ大きく聞こえた。
スクリーンに映像が流れ始めた。
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作品は、インスタレーション映像だった。
「共鳴体」。タイトルはそれだけ。
音声入力に反応してパーティクルが生成される映像。声を出すと、画面の中に光の粒が生まれる。大きな声なら激しく、小さな声なら静かに。高い音は暖色に、低い音は寒色に。声の形が、色と動きになって画面に残る。
デモ映像では、綴自身の声を録音して入力していた。小さな、かすかな声。「あ」。「い」。「う」。一音ずつ。
画面の中で、淡い光の粒が生まれた。薄い橙色。ゆっくりと上に漂い、広がりながら輝度を落としていく。「い」で青白い粒が加わり、「う」で深い藍色の粒が低い位置に沈む。一音ごとに色が変わり、軌跡が重なって、画面の中に声の地層ができていく。
声が途切れると、パーティクルは徐々に減衰する。粒の光が細くなり、動きが緩やかになり、画面の端でかすかに瞬いて消えかける。でもゼロにはならない。最後の一粒が、画面の隅でほのかに光り続ける。声が消えても、痕跡は残る。
映像が終わった。三分四十二秒。
教室が静かだった。
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「如月さん、コンセプトの説明をお願いします」
教授の声。
綴は口を開いた。
「……声の」
声が出ない。出ているのかもしれないけれど、自分の耳に届かないくらい小さい。
「すみません、もう少し大きな声で」
教授が申し訳なさそうに言った。悪意はない。聞こえないから、聞こえるようにしてほしいだけだ。
綴は息を吸った。横隔膜を下げようとした。下がらなかった。胸が固い。喉が詰まっている。
「声の……可視化を、テーマに」
何とか出た。音量は普通の人の半分くらい。でも教授は頷いた。
「声を色と動きに変換する仕組みですね。技術的なアプローチは?」
「Unityで……音声入力のデータを、周波数帯域ごとに分解して、パーティクルのパラメータに……」
言葉が途切れた。技術的な話はできる。できるはずだ。頭の中には全部ある。周波数解析の方法も、パーティクルシステムの設計も、色の変換アルゴリズムも。
全部頭にある。全部、喉を通らない。
「……すみません」
小さな声。
教授が助け舟を出してくれた。「映像を見れば技術力はわかります。では、制作の動機を教えてもらえますか。なぜ声を可視化しようと思ったのか」
——声が届かないから。
声が小さくて、消えてしまうから。
あたしの声は教室の空気に溶けて、誰にも届かないから。
でも可視化すれば、残る。光になれば、見える。聞こえなくても、見える。
それが、あたしのやりたいことだ。
口を開いた。
「……声が、小さい人でも」
止まった。
「……届くように」
それだけだった。
教授が頷いた。「なるほど。ありがとうございます」。優しい声だった。
質疑応答。
最初の質問は技術的なもので、綴は短い言葉で何とか答えた。二番目も。
三番目。
男子学生が手を挙げた。同じ学年の、よく発言する子。名前は覚えていない。
「映像はきれいだと思います。技術的にもすごいと思う。でも、もうちょっとメッセージ性が欲しいかな、って」
綴は黙った。
「パーティクルがきれいなのはわかるんだけど、見てる側としては『だから何?』ってなるというか。もっとこう、社会的なテーマとか、問いかけみたいなものがあると」
言葉が続いた。綴の耳に入ってきた。全部入ってきた。
「かわいいけど、もっとメッセージ性が欲しい」。
かわいいけど。
かわいい。
おとなしい如月さんが作った、きれいでかわいい映像。でもメッセージ性がない。表面はきれいだけど中身がない。
違う。
違う。
あるよ。
メッセージは、ある。声が届かない人間の話をしている。声が小さくて消えてしまう人間が、それでも何かを残そうとする話をしている。あの光の粒の一つひとつが、あたしの叫びだ。
「メッセージ、あるよ」
声が出た。
教室が、静まった。
二十人の目が綴に向いた。教授が二人。全員が。
綴の手が震えていた。声が震えていた。でも、出た。
「……ちゃんと見てくれたら、わかる」
それだけ言って、止まった。
喉が閉じた。もう一言も出ない。口を結んだ。手がこぶしになっている。爪が掌に食い込んでいる。
沈黙。三秒。五秒。
教授が口を開いた。「ありがとう、如月さん。とても——伝わりました」
質問した男子学生が、少しばつの悪そうな顔をした。「あ、ごめん。言い方が悪かった」
「いえ……」
綴は教壇を離れた。席に戻った。
足が震えていた。椅子に座る。膝の上で拳を握ったまま。指の関節が白い。
隣の席で、環がいた。
環は何も言わなかった。ただ笑っていた。静かに。口元だけ、ゆるく上がっている。
「やるじゃん」とも「すごい」とも言わなかった。
ただ笑って、前を向いて、次の発表を見始めた。
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発表が全部終わった。五時半。教室を出た。
廊下。蛍光灯。外はもう暗い。一月の日はまだ短い。
「綴」
環の声。後ろから。
「……ん」
「帰ろ」
並んで歩いた。廊下。階段。靴の音。
環は何も聞かなかった。発表のことも、声を出したことも。黙って隣を歩いた。
正門の手前で、環が口を開いた。
「あの映像、うちは好きだよ」
「……」
「メッセージ性がないなんて、思わなかった。全部見えてた。声が小さくても残るって話でしょ」
綴は足を止めた。
環が振り返った。
「綴の声、ちゃんと聞こえたよ。今日」
環は笑って、自転車置き場の方に歩いていった。
綴は一人になった。
正門の街灯の下。一月の夜。息が白い。手がまだ震えている。
声を出した。
人前で。教室で。二十人の前で。
たった二言。「メッセージ、あるよ」と「ちゃんと見てくれたら、わかる」。合わせて二十文字もない。
でもあたしにとっては、壁を殴ったような感覚だった。
拳を見た。爪の跡がついている。赤い。
おとなしい如月さん。静かな如月さん。声が小さくて、意見を言わなくて、いつも端っこにいる如月さん。
今日、その如月さんが声を上げた。
ひびが入った。
一年半かけて積み重ねた「おとなしい」の鋳型に、ひびが入った。
怖かった。声を出した瞬間、教室の空気が変わった。全員の目がこっちを向いた。あの視線の重さで、つぶされるかと思った。
でも後悔はない。
あの子の、批評した子の言葉は、悪意じゃなかった。素直な感想だった。でも「かわいいけど中身がない」と言われて、黙っていられなかった。
あたしの作品は、あたしそのものだ。声が出ない代わりに、あたしの全部を入れてある。声が小さくても消えないように。目に見えなくても残るように。
それを「かわいいけど」の一言で片づけられるのが、許せなかった。
許せないと思えた自分に、驚いている。
おとなしい如月さんは、怒れないはずだった。
怒れた。
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スタジオ401。
ドアを閉めた。防音扉。世界が切り替わる。
棚のノートを手に取った。二冊目。椅子に座った。
ペンを握った。手がまだ震えていた。
書き始めたら、止まらなかった。
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> 今日、ちょっと壊れた。
>
> 人前で声を出した。たった二言。でもあたしにとっては、壁を殴ったみたいな感覚だった。
>
> 期末発表。自分の作品をプレゼンする授業。作品は、声の小さい人の声を光に変える映像。自分でもいいものが作れたと思ってた。
>
> 発表は最悪。声が出ない。コンセプトも技術も全部頭にあるのに、喉を通らない。いつも通り。いつもの如月綴。
>
> でも質疑のとき、ある人に「かわいいけどメッセージ性がない」って言われて——
>
> 壊れた。
>
> 「メッセージ、あるよ」って言った。「ちゃんと見てくれたらわかる」って。
>
> 教室が全部こっちを見た。二十人。目がぜんぶ。怖かった。心臓が暴れて、手が震えて、声も震えてた。
>
> でも——止められなかった。
>
> 「かわいいけど中身がない」って言われて黙ってたら、あたしの作品が可哀想だった。あの作品にはあたしが全部入ってる。声が出ないあたしの代わりに、光が声になってくれてる。それを「かわいいけど」で片づけられたくなかった。
>
> こわかった。でも後悔してない。
>
> あたしの中の「おとなしい如月さん」に、ひびが入った。
>
> ひびが入ったら——もう元には戻れない。戻りたくない。
>
> 友達が帰り際に「声、ちゃんと聞こえたよ」って言ってくれた。泣きそうになった。泣かなかったけど。(強がり)
>
> ……あなたにも聞こえてたらよかったのに。あたしの声。たった二言だったけど。あの二言を、あなたに聞いてほしかった。
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書き終えた。
ペンを置いた。指先が震えている。字が途中からふるえている。
ページを見つめた。走り書きの文字。インクが少しかすれている。ペンを強く握りすぎていた。
深呼吸。一回。二回。三回。
まだ震えている。体の芯が熱い。発表のときのあの瞬間の熱が、まだ残っている。
パソコンの電源を入れた。今夜は作業をしよう。発表で見せた「共鳴体」をもっと良くしたい。パーティクルの減衰をもう少しゆっくりにして、声の痕跡がもっと長く残るように。
DAWの画面を開いた。波形を見る。自分の声のデータ。小さい。波形がほとんど見えないくらい小さい。
でも、ある。
ゼロじゃない。
小さいけれど、ちゃんとある。
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翌朝。
春日咲は401号室のドアを開けた。
いつもの朝。蛍光灯。空調。棚の上の緑のノート。
手に取った。開いた。
読み始めて、息が止まった。
「今日、ちょっと壊れた。人前で声を出した」。
「メッセージ、あるよって言った。ちゃんと見てくれたらわかるって」。
「教室が全部こっちを見た。二十人。目がぜんぶ。怖かった」。
「でも——止められなかった」。
咲はノートを膝に置いた。
手が震えていた。
あの子が、声を出した。
人前で。教室で。二十人の前で。
あの、口を開いても喉が詰まって、声が消えて、うつむくことしかできなかった子が。
「あたしの作品が可哀想だった」。
「あの作品にはあたしが全部入ってる」。
入ってる。知ってる。あたしは知ってる。
学園祭のウサギのゲーム。USBに入れた曲。折り紙のウサギ。全部、綴の声の代わりだった。声が出ない代わりに、作品に全部を入れてきた。
その作品を「かわいいけど中身がない」と言われて、怒った。
怒れたのだ。この子は。
「おとなしい如月さん」に、ひびが入った。
涙が落ちた。
ノートの上に。一滴。
慌てて袖で拭いた。文字がにじまないように。でも遅かった。綴の文字の上に、小さなシミが残った。
「……ごめん」
声に出して謝った。誰もいない部屋で。
ペンを取った。手が震えていた。涙が止まらない。拭いても拭いても出てくる。
泣くな。泣いたらノートが濡れる。あの子の言葉が。
深呼吸。一回。二回。
鼻をすすって、目を拭いて、ペンを握り直した。
書いた。
> 読んだ。全部読んだ。
>
> 泣いてしまった。ごめん。ノートに少しシミがついた。
>
> ひびが入ったなら——そこから光が入るよ。
>
> あなたの声、ちゃんと聞こえてる。ここまで届いてる。文字でも、作品でも、今日の二言でも。全部。
書き終えた。
「ひびが入ったなら、そこから光が入るよ」。
——あたしが、その光でありたい。
でもあたしは、まだ嘘をついている。知っているのに知らないふりをしている。
綴がひびを入れた。自分の檻に。
あたしも、あたしの嘘に、ひびを入れなければならない。
いつか、じゃなく。
もうすぐ。
ノートを棚に戻した。
椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
蛍光灯の光。空調の音。窓のない部屋。
もうすぐ、二月だ。
綴の誕生日は、二月十四日。
あの子は、何も知らない。あたしがあの子の誕生日を知っていることも。
嘘つきのスパイが知っている、もう一つの秘密。
目を閉じた。深呼吸。
立ち上がった。発声練習を始めた。
今日はいつもより声を張った。壁に声をぶつけた。防音室だから、どれだけ出しても外には漏れない。
叫ぶように歌った。
綴が壁を殴ったように、咲は壁に声をぶつけた。
届け。
どうか——届け。




