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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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13/13

第13章 嘘つきのスパイ

十二月の終わり。


年内最後の授業が終わった日の午後、咲は涼とキャンパスの端のカフェにいた。窓の外は灰色の曇り空。枯れ枝。遠くの山に雪が見える。


ホットココア。涼はブラックコーヒー。ココアの甘い湯気が顔にかかる。コーヒーの苦い匂いも混ざって、カフェの中は冬の飲み物の匂いで満ちていた。


「涼」


「ん」


「前に、恋だって言ったじゃん」


「言った」


「あれからずっと考えてて」


涼がコーヒーカップを両手で包んだ。蒸気が立ち上っている。


「あたし、ずるいことしてるのかな」


「何が」


「あの子の正体を知ってて、あの子はあたしのこと知らない。毎日ノートを交換してるけど、あの子は匿名の相手だと思ってる。あたしだけが、顔も名前も学科も全部知ってて」


「毎日日記を読んでるようなものでしょ」


咲の口が止まった。


涼の声は平坦だった。責めているのではない。事実を言っている。


「……うん」


「あんたはその子の正体を知ってて、その子はあんたのこと知らない。その子はノートの中で本音を書いてる。弱いところも、怖いところも、全部さらけ出してる。で、あんたはそれを毎朝読んで、知らない人のふりして返事を書いてる」


窓の外で風が吹いた。カフェの看板が揺れた。


「それを恋って呼んでいいのかな」


涼の目が、まっすぐ咲を見ている。涼しい目。冷たくはない。でも、甘くもない。


「少なくとも、対等じゃない」


咲はココアのカップを見つめた。茶色い液面に、蛍光灯の光が映っている。


対等じゃない。


知っている側と、知らない側。見ている側と、見られていない側。あたしは綴の全部を知っていて、綴はあたしの「ノートの文字」しか知らない。


綴がノートに書いてくれた言葉。「あなただけが本物のあたしを知ってる」。あの信頼は、「相手が自分のことを知らない」という前提の上に成り立っている。


その前提を、あたしはとっくに壊している。知っているのに、壊していないふりをしている。


「……わかってる」


「わかってるなら、なんで言わないの」


「言ったら綴は……あの子は壊れる」


涼の眉がわずかに動いた。


「壊れる?」


「あの子にとって、ノートは唯一の場所なの。自分でいられる場所。顔も名前も知らない相手だから安心して書ける場所。そこに『最初からぜんぶ知ってた』って言ったら、あの子の安全な場所がなくなる」


涼はコーヒーを一口飲んだ。カップを置いた。


「咲」


「ん」


「言わないことも嘘だよ」


沈黙。


カフェの中に流れているクリスマスソングが、やけにはっきり聞こえた。ジングルベル。鈴の音。


「いつかは言わなきゃいけない。遅くなればなるほど、傷は深くなる」


咲は目を伏せた。


わかっている。わかっている。涼の言っていることは正しい。


十月に名前を知った。十二月の今まで、二ヶ月半。二ヶ月半、知らないふりをして、毎朝ノートに返事を書いた。


二ヶ月半分の嘘が、いつか明かされたとき、綴はどう思うだろう。


「二ヶ月半も黙ってたの?」


「あたしの弱いところ全部読まれてたの?」


「あたしを知ってて、知らないふりして、ぜんぶ見てたの?」


そう思われる。


思われて当然だ。


「涼」


「ん」


「あたし、スパイみたいだ」


涼が首を傾げた。


「あの子の世界を、こっそり覗いてる。あの子が何も知らないところで、あの子の名前を知って、顔を見て、歩く姿を目で追って。で、ノートでは何も知らない人のふりして、笑顔で返事書いて。——これ、スパイじゃん。嘘つきのスパイ」


涼はしばらく黙っていた。


コーヒーの残りを飲み干した。カップが空になる音。


「嘘つきのスパイは、自分のことをスパイだって自覚してるぶん、まだマシだよ」


「マシって何」


「自覚がない嘘つきよりはマシってこと。咲は自分がずるいことしてるってわかってる。わかった上で苦しんでる。それは少なくとも、あの子のことを大事に思ってるからでしょ」


咲は答えなかった。


涼が立ち上がった。コートを羽織る。


「年末年始、ゆっくり考えな。答えは咲が出すものだから、私が出すものじゃない」


「……涼」


「ん」


「ありがとう」


涼はうなずいた。マフラーを巻いて、カフェのドアを押して出ていった。ドアが閉まるとき、冷たい風が入ってきた。十二月の風。コーヒーと甘い焼き菓子の匂いが一瞬かき消されて、すぐにまた戻った。


咲はココアの残りを飲んだ。冷めていた。甘さだけが舌に残った。


---


翌日。年内最後のスタジオ。


朝七時。401号室。


ノートを開いた。二冊目。綴が書いた新しいページ。


> 今年もあと三日。

>

> 年越し、何するの? あたしは一人暮らしだから一人で年越し。テレビ見て、みかん食べて、たぶん曲作ってる。

>

> 去年の大晦日は、一人でゲーム作ってた。年が変わったことに気づかなくて、気づいたら一月一日の午前三時だった。あけましておめでとうを自分で自分に言った。虚しかった。

>

> 今年は、あなたがいるから。

>

> 直接「あけましておめでとう」は言えないけど、年が変わった瞬間に、心の中であなたに言う。届かないけど。文字にしたら数日後にしか届かないけど。

>

> 来年の今頃は、どうなってるかな。まだこうやってノートで話してるかな。それとも……

>

> ……それとも、の先は、まだ書けない。


咲はノートを膝に置いた。


「あなたがいるから」。


あたしが、いるから。


あたしがいることで、この子の大晦日が変わる。一人でゲームを作って、日付が変わったことにも気づかなかった子が、今年は誰かのことを思いながら年を越す。


あたしも、そうだ。


去年の大晦日は、家族と紅白を見て、弟の颯太とふざけて、お母さんのおせちをつまみ食いして。楽しかった。でも特別じゃなかった。


今年は、年が変わった瞬間に綴のことを思う。


ペンを取った。


> あたしは実家で年越し。家族で紅白見て、除夜の鐘を聴いて、初詣。いつもの年末。

>

> でも今年は、年が変わった瞬間にあなたのこと考えると思う。あなたも一人で同じ瞬間を過ごしてるんだって思ったら、一人じゃない気がする。

>

> 来年は正直な年にしたい。あなたにも、自分にも。


書き終えた。


ポケットの中で、ペンのキャップを握った。ずるいな、と思った。


「正直な年にしたい」。


嘘つきのスパイが、正直になる年。


ノートを棚に戻した。


今日で年内のスタジオは最後。次に来るのは一月の四日。冬休みの間、ノートは棚の上で眠っている。


五日間、ノートのない朝。


五日間、綴の言葉のない朝。


それが、こんなに心細いと思うとは、半年前には想像もしなかった。


---


年末。


実家。


大晦日。リビングのテレビで紅白が流れている。お母さんがおせちの最終仕上げをしている。お父さんが新聞を読んでいる。颯太がスマホでゲームをしている。


いつもの年末。温かい家。温かい家族。


咲はこたつに入って、みかんの皮を剥いていた。皮から弾けた汁の、甘酸っぱい匂い。手がオレンジ色になる。


颯太がスマホから顔を上げた。


「姉ちゃん、今日ぼーっとしすぎ」


「してない」


「してる。さっきみかん三つ連続で剥いて、一個も食べてない」


手元を見た。確かに、皮だけ三つ分がこたつの上に積まれていた。


「……食べる」


みかんを口に入れた。甘い。冬の味。


綴は、今頃何をしているだろう。


一人暮らしのアパートで、テレビを見て、みかんを食べて。曲を作っているかもしれない。


一人で。


あたしには家族がいる。弟がいて、両親がいて、こたつがあって。でも綴は一人だ。去年の大晦日、年が変わったことにも気づかなかった。


胸の奥が、締まった。


「姉ちゃん」


「ん」


「彼氏できた?」


咲はみかんを噴き出しかけた。


「できてない」


「嘘。最近ずっと上の空じゃん」


「上の空じゃない」


「じゃあ彼女?」


咲の手が止まった。


颯太は冗談で言ったのだ。中学生特有の、深い意味のない冗談。でも当たっている。当たりすぎている。


「……誰もいないよ」


「ふーん」


颯太はもうスマホに戻っていた。興味を失ったらしい。


咲はこたつの中で膝を抱えた。


彼女。


綴は、女の子だ。あたしが好きになったのは、女の子。


そのことについて、咲は一度も迷ったことがなかった。


ノートの中の「あの人」に惹かれた。文字に。言葉に。ユーモアに。やさしさに。不器用さに。全部に。その人が女の子だとわかったとき——何も変わらなかった。好きなものは好きだった。それだけ。


だから問題は「女の子を好きになった」ことじゃない。


問題は、嘘をついていること。


あたしはスパイだ。綴の世界をこっそり覗いて、知っているのに知らないふりをして、毎朝ノートに笑顔の返事を書く、嘘つきのスパイ。


涼が言った。「言わないことも嘘だよ」。


正しい。


紅白の歌声がリビングに流れている。誰かが情感たっぷりにバラードを歌っている。


歌で伝えられたら、どんなに楽だろう。舞台の上なら何でも歌える。愛の告白も、別れの嘆きも、再会の喜びも。台本があって、楽譜があって、演出があって、照明が落ちた客席の向こうに観客がいて、自分の声は役の声であって自分自身の声ではないから、どんなに恥ずかしい言葉でも歌えた。


でも台本のない場面で、自分の言葉で、自分の声で、「ずっと知ってた、ごめんなさい、でも好き」と言うのは。


歌より、ずっと難しい。


---


午前零時。


除夜の鐘が鳴った。テレビの中で。遠くのお寺から、かすかに本物の鐘の音も聞こえた。


「あけましておめでとう」。家族の声。「おめでとう」「ことしもよろしく」。颯太が「お年玉」と手を出して、お父さんが笑っている。


咲は窓の方を向いた。


夜空。星が見えない。曇っている。でも、どこかに星はある。見えないだけで。


あけましておめでとう。


心の中で、言った。綴に。


あなたも今、この瞬間を過ごしてる。一人で。テレビの前で。あるいは曲を作りながら。


届かないけど。


あけましておめでとう。


来年は。いや今年は、正直になる。あなたに。


いつ、どうやって伝えるか、まだわからない。でも、このまま嘘をつき続けることだけは、もうできない。


---


一月四日。


冬休み明け。朝の空気は年末より冷えていた。


401号室のドアを開けた。五日ぶりの部屋。空調が止まっていたから、中も冷えている。締め切った部屋の、埃っぽくて少し甘い空気。蛍光灯を点ける。空調を入れる。


棚の上の、二冊のノート。


二冊目を手に取った。


綴の字。


---


> あけましておめでとう。

>

> 年が変わった瞬間、ちゃんとあなたのこと考えてた。テレビの前で一人で「あけましておめでとう」って呟いた。声に出した。小さい声だったけど。

>

> 今年はもう少し、声を出したい。

>

> このノートに書いてるみたいには無理だけど。でも、一歩だけ。

>

> 一歩の大きさは、たぶんすごく小さい。他の人から見たら「え、それだけ?」ってくらい。でもあたしにとっては、すごく大きい。

>

> ……正月に初詣に行った。一人で。近所の小さな神社。おみくじ引いたら「吉」だった。「吉」って、大吉でも小吉でもなくて、ちょうどいい。ちょうどいい幸せが来る年。いいね。ちょうどいい。

>

> あなたにとっても、ちょうどいい年になりますように。


---


咲はノートを胸に当てた。


「年が変わった瞬間、あなたのこと考えてた」。


同じだ。同じ瞬間に。


あたしも、あなたのことを考えていた。


目が熱くなった。泣きはしない。泣かない。でも嬉しい。こんなに嬉しいのに、こんなに後ろめたい。


嬉しい気持ちの後ろに、いつも嘘がくっついている。


今年は正直になる。


涼に言った。ノートにも書いた。自分にも言い聞かせた。


正直になる。いつか。いつか必ず。


ペンを取った。


> あけましておめでとう。今年は正直になりたい。あなたにも、自分にも。

>

> おみくじ「吉」いいね。あたしは「末吉」だった。「焦らず待てば良し」だって。待つのは得意。……嘘。苦手。でも今年は待つよ。大事なことだから。

>

> あなたの一歩が、どんなに小さくても。あたしはちゃんと見てる。


書き終えた。


「あたしはちゃんと見てる」。


見てる。見すぎてる。知りすぎてる。


嘘つきのスパイが書く「正直になりたい」。


矛盾している。矛盾しているのに、嘘じゃない。本当に正直になりたい。嘘をやめたい。知らないふりをやめたい。


でもやめた瞬間に、このノートが壊れるかもしれない。


ノートを棚に戻した。


---


一月中旬。


授業が再開して、キャンパスに人が戻った。冬の空気は冷たいけれど、日差しは少しずつ強くなっている。


咲は声楽科棟を出て、正門に向かって歩いていた。四限が終わった午後三時半。日が傾きかけている。冬の午後は短い。どこかの研究棟の換気口から、暖房の乾いた匂いが漏れていた。


メディア芸術科棟の前を通りかかった。


前方に、人影が見えた。


銀色の髪。小柄な背中。リュック。


綴。


十月に名前を知ってから、何度かキャンパスで見かけた。いつも遠くから。声をかけたことは一度もない。目を合わせたこともない。


今日は、距離が近い。


道が一本。咲は正門に向かって歩いている。綴はメディア芸術科棟から出て、同じ道を歩いている。向きは同じ。正門の方。


咲は少し歩を緩めた。追い抜かないように。


でも綴が足を止めた。


リュックのサイドポケットから何かを探している。ペンだろうか。手が止まって、また歩き出した。


その瞬間、綴が振り返った。


目が——合った。


一瞬。ほんの一瞬。


綴の目は大きくて、グレーがかった黒で、前髪の下から覗いていた。何かに驚いたような、でも驚きとも違う、不思議そうな目。


綴がすぐにうつむいた。目を逸らして、歩き出した。少し早足で。


咲は立ち止まった。


心臓が、うるさい。


あの子の頬が、赤かった。


一瞬だった。目が合って、うつむくまでの、一秒にも満たない時間。でも見えた。綴の頬がかすかに赤かったのが。


寒さのせいかもしれない。一月の午後は冷える。頬が赤くなるのは当然だ。


でも耳まで赤かった。


あの子は、あたしの顔を見て、赤くなった。


あたしのことを知っているのだろうか。名前までは知らないかもしれない。でも「声楽科の子」として認識しているのかもしれない。噂で聞いたことがあるのかもしれない。キャンパスで見かけて、何となく覚えているのかもしれない。


綴の小さな背中が遠ざかっていく。正門に向かって。リュックの左の肩紐がやっぱり少し緩い。


追いかけたかった。


「待って」と言いたかった。「あたし、春日咲。毎朝あなたのノートを読んでます」と。


言えない。


咲は目を閉じた。冬の風が頬に当たった。


言えない。まだ。


でも、いつまで「まだ」を続けるのだろう。


十月から。十一月。十二月。一月。


四ヶ月。


四ヶ月分の「まだ」が積み重なっている。


涼の声が頭に響く。「遅くなればなるほど、傷は深くなる」。


目を開けた。綴の姿はもう正門の向こうに消えていた。


---


その夜。


咲は布団の中で目を閉じていた。


まぶたの裏に、綴の顔が浮かんだ。あの一瞬の、目が合った瞬間の顔。驚いたような。不思議そうな。少しだけ、怯えたような。


そして、赤い頬。


綴は、あたしのことが気になっているのだろうか。


ノートの相手としてではなく。キャンパスですれ違う、顔も名前も知らない、でもなぜか目が離せない、そういう存在として。


もしそうなら。


綴は今、二つの方向から引っ張られていることになる。ノートの中の「あの人」への気持ちと、キャンパスの「声楽科の子」への気持ち。


どちらも——あたしだ。


どちらもあたしなのに、綴はそれを知らない。


別々の人間だと思っている。


それは残酷じゃないか。


綴がいつか「あの人」に会いたいと思って一歩を踏み出したとき、目の前に現れるのが「声楽科の子」だったら、綴はどう思うだろう。


嬉しいだろうか。それとも、裏切られたと思うだろうか。


布団を頭まで引き上げた。暗闇の中で、考え続けた。


スパイを、やめなければならない。


いつかじゃなく。いつかの「いつか」は、永遠に来ない。


でも今じゃない。まだ今じゃない。


綴が「声を出したい」と書いた。「一歩だけ」と。


あの子が自分の足で歩き出そうとしている。その足を、あたしの告白で止めてはいけない。


……本当に?


それは本当に綴のためなのか。あたしが告白を先延ばしにする言い訳じゃないのか。


わからない。


わからないまま、目を閉じた。


---


一月下旬。


スタジオ401。朝。


ノートを開いた。


---


> 最近、不思議なことがある。

>

> キャンパスで、ときどき目に入る人がいる。声楽科の子だと思う。セミロングの茶色い髪で、歩き方がまっすぐで、遠くからでもわかる。

>

> 一回だけ目が合った。びっくりして逸らしちゃった。(逸らすのあたしの持病)

>

> なんで気になるんだろう。話したこともないのに。名前も知らないのに。

>

> ……あなた以外の人のことをここに書くのは初めてかもしれない。変な感じ。でも嘘つかないって決めたから、書く。

>

> あの人のこと、なんか気になる。理由はわからない。


---


咲はノートを膝に置いた。


手が震えていた。


「声楽科の子」。「セミロングの茶色い髪」。「一回だけ目が合った」。


あたしだ。


綴が、あたしのことを書いている。ノートの相手としてではなく。キャンパスで見かけた、名前も知らない「声楽科の子」として。


「なんか気になる。理由はわからない」。


あたしの胸が苦しい。


嬉しいはずだ。綴があたしを気にしてくれている。ノートの外で、あたしという存在に反応してくれている。


でも嬉しさの裏に、鋭い痛みがある。


綴は二人の人間に心を分けている。ノートの「あの人」と、キャンパスの「声楽科の子」。どちらにも気持ちが動いている。


どちらもあたしだ。


綴だけが、それを知らない。


あたしが黙っているから。


ペンを握った。何を書けばいいのかわからなかった。


「その子、あたしだよ」。書けるわけがない。


「気になる人がいるんだ、いいね」。白々しすぎる。


「嘘つかないって決めたんでしょ」。それはあたしに返ってくる刃だ。


長い時間、ペンを持ったまま動けなかった。


蛍光灯の光。空調の音。窓のない部屋。


ようやく、書いた。


> 嘘つかないで書いてくれてありがとう。

>

> 気になる人がいるの、わかるよ。理由がわからないまま気になるのって、たぶん一番正直な感情だと思う。理屈じゃなくて、心が先に動いてるってことだから。

>

> ……あたしにも、似たようなことがある。ずっと言えなかったけど。

>

> あなたのことが、気になってる。ノートの中の、あなたのことが。理屈じゃなく。


書き終えた。


「あなたのことが、気になってる」。


今さらだ。九ヶ月も書いてきて、今さら「気になってる」なんて。


でも嘘じゃない。気になってるどころじゃない。好きだ。恋だ。涼に言われるまでもなく、もうとっくに。


でも「好き」は書けなかった。


今「好き」と書いたら、次のステップは「会いたい」で、その次は「あたしが誰か教える」で、その先は止められなくなる。全部が連鎖する。雪崩のように。


だから「気になってる」で止めた。


嘘つきのスパイは、正直になると決めた年にも、まだ嘘をついている。


ノートを棚に戻した。


ピアノの前に座った。蓋を開けた。木と埃とかすかな金属の匂い。長い間閉じていた楽器の、古い呼吸のような匂い。


何も弾かなかった。鍵盤の白と黒を見つめた。


綴はノートの中であたしに「嘘つかないって決めた」と書いた。あの子は自分に正直になろうとしている。あたしは逆だ。正直になりたいと書きながら、嘘を上塗りしている。綴が一歩進むたびに、あたしの嘘は一段深くなる。


いつか必ず伝える。いつか。


「いつか」は——嘘つきの口癖だ。


目を閉じた。深呼吸。一回。二回。


目を開けて、鍵盤に指を置いた。


低いCを一つ、鳴らした。


音が部屋に広がって、消えた。


スパイは、今日も歌う。綴が夜に呼吸する、この部屋の空気に。声を残す。


声は消える。朝に歌った声は、夜には消えている。


でも——声は、嘘をつかない。


音に、嘘は混ぜられない。


だから今はまだ、歌う。言葉にできないものを、歌に乗せる。


それしか、できない。


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