第12章 余白が足りない
十二月。
朝の空気が、肺を刺すように冷たい。
春日咲は自転車のペダルを踏みながら、息を白く吐いた。手袋をしていても指先が痺れる。マフラーの中に顎を埋めて、正門までの坂道を上る。
守衛さんに「おはようございます」。「寒いね。気をつけて」。
キャンパスの木々はほとんど葉を落としていた。十月の金木犀も、十一月の紅葉も終わって、今は枝だけが空に伸びている。朝の光が枝の隙間を通り抜けて、地面に細い影を落としている。
四階。401号室。
ドアノブが冷たい。指先の感覚が鈍い。中に入って、蛍光灯を点ける。空調を入れる。
ポケットに手を入れた。指先に、小さなペンのキャップが触れた。十月から、ずっとここにある。
棚の上の、緑色のノート。
手に取った。角が潰れている。表紙の色がくすんでいる。九ヶ月分の重さ。ページの間から、かすかにインクと紙の混ざった匂いがした。二人分の時間が染みついた匂い。
開いた。
綴の字があった。
---
> 年末で学食のメニューがクリスマス仕様になってた。照り焼きチキンとクリスマスケーキ(スーパーで売ってるやつの小さい版)。ケーキの上に乗ってるサンタの人形を友達にあげたら「いらない」って言われた。あたしは欲しかったのに。サンタの人形。あの手を上げてるポーズが好き。誰かに手を振ってるみたいで。
>
> ……最近、書きたいことが多すぎる。ノートの余白が足りない。
>
> 前はこんなことなかった。日記みたいに、今日あったこと書いて、ちょっとイラスト添えて、それで満足してた。
>
> 今は違う。書き始めると止まらない。あなたに伝えたいことが次から次に出てくる。今日の空がきれいだったこと。授業で面白い映像を見たこと。帰り道に猫がいたこと。全部、あなたに言いたい。
>
> このノート、あと何ページだろう。数えるのが怖い。
---
咲はノートをめくった。
残りのページを確認した。
八ページ。
表紙側から数えると、二百ページのノートのうち、百九十二ページが埋まっている。九ヶ月分の言葉が、文字が、イラストが、折り紙の跡が。
最初のほうのページに戻ると、綴の字は小さくて、行間が広い。遠慮するみたいに紙の隅に寄っている。後半に進むにつれて文字が大きくなり、行間が詰まり、余白にまで文字がはみ出していく。このノートには、二人の距離が縮まった九ヶ月がそのまま残っている。
あと八ページ。
一日一ページなら、一週間ちょっと。
咲はノートを膝に置いて、天井を見上げた。吸音材の白い表面。蛍光灯の光。
このノートが終わったら、どうなるんだろう。
二冊目を用意すればいい。新しいノートを買って、棚に置けばいい。それだけのことだ。
それだけのことなのに、胸の奥が重い。
ノートが終わるのは「終わり」じゃない。ページが足りなくなっただけ。続きを書けばいい。
でも。
咲はペンを握った。指先が冷えていて、ペンの軸がひんやりする。何を書こうか迷った。
「書きたいことが多すぎる」。あたしも。あたしも同じだ。
綴のことを考える時間が、増えている。
声楽の練習中に、イタリア語の歌詞を読んでいて、「こんな気持ちをどうやって伝えればいいの」という意味のフレーズが出てきて、綴の顔が浮かんだ。教室の隅で、うつむいて、口を結んで、でもノートの中ではあんなに饒舌で。
授業中に、窓の外の空を見て、綴はこの空を見てどう書くだろう、と考えた。
帰り道に、コンビニの傘を見て、綴のことを思った。四月に四本買った傘の話。あの日から、もう八ヶ月。
全部、綴に繋がる。
何を見ても、何を聞いても、どこかで綴に繋がってしまう。
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ペンを持ったまま、書けずにいた。
書きたいことはある。ありすぎる。
「会いたい」。
その四文字が、喉のすぐ下にある。ペンの先にある。書けばいい。たった四文字。
書いたら、どうなる。
「会いたい」と書いたら、次は「会おう」と書かなければならない。「会おう」と書いたら、場所と時間を決めなければならない。場所と時間を決めたら、あたしは綴の前に立つ。
綴の前に立ったら、あたしは隠しきれない。
「あなたが如月綴だって知ってる」。「ずっと前から知ってた」。「名前も、顔も、銀色の髪も、うつむいた横顔も、全部」。
そう言ったら、綴はどうなる?
あの子にとって、このノートは唯一の場所だ。顔も名前も知らない相手だから安心して書ける場所。「がっかりされない」という信頼の上に成り立っている場所。
そこに、「最初からぜんぶ知ってた」と踏み込んだら。
あの子の安全な場所が、壊れる。
壊した上で「好き」と言っても、それは告白じゃなくて、裏切りの後始末だ。
咲は目を閉じた。
ペンを握る指が、白くなっている。
結局、書いたのは四文字じゃなかった。
> サンタの人形、あたしも好き。手を振ってるポーズ。誰かに「ここにいるよ」って言ってるみたいで。
>
> 書きたいことが多すぎるの、あたしも同じ。最近は書き始めると欲張りになる。もっと伝えたい、もっと知りたい、もっと——
>
> ……もっと、の先が、まだ書けない。
書き終えた。
「もっと、の先」。
会いたい。好きだ。あなたの前に立ちたい。あなたの声が聞きたい。ノートの中じゃなくて、あたしの耳で。
全部、まだ書けない。
ノートを棚に戻した。
発声練習を始めた。スケールを上げていく。Aの母音。口を大きく開けて、横隔膜を下げて、息を支えて。
声が部屋を満たした。
あたしの声は、届くのに。
舞台では何百人にも届く。ホールの隅の席にまで。
たった一人に、本当のことを言うことが、こんなに難しい。
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昼。学食。
涼がトレーを持って向かいに座った。今日の定食は鮭の塩焼き。焼いた魚の香ばしい匂いが漂ってくる。涼はいつも魚を選ぶ。
「咲」
「ん」
「今日、声が揺れてた」
「……揺れてた?」
「三限の発声。中音域で息が逃げてた。集中してなかったでしょ」
咲はみそ汁を口に運んだ。温かい。大根と油揚げ。
「……ちょっと、考え事してた」
「ノートの人?」
咲の箸が止まった。
涼は鮭をほぐしながら、顔を上げない。
「……なんでわかるの」
「口角。最近ずっと下がってる」
「下がってる?」
「前は朝から上がってた。口角五ミリ。朝のスタジオから出てくるたびに機嫌がよかった。最近は逆。出てきた後の方が沈んでる」
涼は骨を丁寧に避けながら、鮭の身を箸で取り分けている。
「なんかあった?」
咲はみそ汁の中の大根を見つめた。
「……ノート、もうすぐ最後のページなの」
「ふうん」
「終わるのが怖いんじゃなくて、書きたいことが、ノートに収まらなくなってきた」
「収まらない」
「うん。書きたいことが多すぎて。でも一番書きたいことが、書けなくて」
涼がようやく顔を上げた。まっすぐ咲を見ている。涼しい目。でも、冷たくない。
「一番書きたいことって?」
沈黙。学食の喧騒。食器の音。笑い声。
「……会いたい、って」
「ノートの人に」
「うん」
「会えない理由があるの?」
咲は箸を置いた。
「会うには、あたしの方から秘密を明かさないといけない。あの子のこと、全部知ってるって。名前も、顔も、学科も」
涼の箸が止まった。
「知ってるんだ」
「……十月から」
「二ヶ月も黙ってたの」
「……黙ってた。あの子の安全な場所を壊したくなくて」
涼はしばらく黙っていた。みそ汁を一口飲んで、それからもう一口。
「咲」
「ん」
「それ、恋だよ」
窓の外で風が吹いた。十二月の風。枯れ枝が揺れている。
「恋じゃなかったら、二ヶ月も黙って苦しんだりしない」
咲は目を伏せた。
「……わかってる」
「わかってるんだ」
「わかってる。わかってて、動けない」
涼がトレーの上に箸を置いた。
「動けないのは、相手のため? 自分のため?」
「……」
「あの子の安全な場所を壊したくないっていうのは、本当だと思う。でもそれだけ? 自分が嫌われるのが怖いんじゃないの。嘘ついてたって思われるのが」
咲は言葉が出なかった。
涼は正しい。
相手のためだけじゃない。あたしは怖いのだ。「ずっと知ってた」と言った時の、綴の顔が怖い。裏切られたと思われるのが怖い。この九ヶ月間、あたしが書いてきた言葉の全部が嘘だったと思われるのが、怖い。
「嘘じゃないんだけど」
「何が」
「あたしが書いてきたこと。全部本当なの。知った後も、知る前と同じ気持ちで書いてた。あの子の言葉が好きで、あの子の作るものが好きで、あの子のことが」
声が詰まった。
涼が待っている。何も言わない。ただ待っている。
「——好きなの」
声に出した。
涼の目が、ほんのわずかに和らいだ。
「じゃあ、それを伝える方法を考えればいい。順番の問題でしょ。秘密を明かすタイミングと、気持ちを伝える言葉の選び方。咲は声のプロじゃん」
「声のプロ」
「自分の声で伝えるのが仕事の人間が、言えないわけないでしょ」
涼はそう言って、鮭の残りを口に入れた。
咲は窓の外を見た。十二月の空。高くて、青くて、冷たい。
声のプロ。
舞台の上では、何千もの言葉を歌える。愛も、悲しみも、喜びも。イタリア語で、ドイツ語で、フランス語で。
たった一人に、日本語で「好き」と言うことが、こんなに難しい。
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夜。
スタジオ401。
如月綴は、ノートの残りのページを数えた。
七ページ。
朝、あの人が書いてくれた分を差し引くと、七ページ。
七。ツバメの七回目。信じると決めた数字。
でも今は、七が少なすぎる。
ノートを開いた。あの人の返事を読んだ。
「もっと、の先が、まだ書けない」。
あたしも。
あたしも、「もっと」の先がある。「もっと」の先に、言いたいことがある。
会いたい。
あなたに会いたい。
顔が見たい。声が聞きたい。このノートに書いているあなたが、どんな表情をして、どんな声で、あたしの言葉を読んでくれているのか。知りたい。
でも、会ったら。
あたしは黙る。
今まで何度もそうだった。頭の中では言葉があふれているのに、目の前に人がいると、喉が閉じる。口が動かない。ノートの中のあたしと、対面のあたしは、全然違う人間だ。
会って、黙って、あたしのことを「おとなしい子」だと思われたら。
ノートの中であんなに饒舌だった人間が、目の前では一言も喋れないと知られたら。
がっかりされる。きっとがっかりされる。
このノートの中にいるあたしが好きだったのに、って。
目の前のあたしは、あなたの期待に応えられない。
ペンを持った。指先が冷たい。十二月のスタジオは、空調をつけても足元が冷える。
書いた。
---
> このノート、もうすぐ最後のページだね。
>
> 最初の日から数えて、もう九ヶ月。最初は「これ誰???」ってパニックだった。(笑ってくれてたらいいな)
>
> 九ヶ月。二百ページ。たくさん書いた。たくさん読んだ。折り紙も、曲も、全部このノートを通して渡した。
>
> ……このノートが終わったら、どうしよう。
>
> 新しいノート、用意してくれる? あつかましいけど。あたしが買うと緑色のやつしか買えない(なんか緑が落ち着く)から、あなたが選んでくれたらうれしい。
>
> ——ときどき思う。紙じゃなくて、声で話せたらって。
>
> 書くのは好き。ノートは好き。でも——紙には、限界がある。表情が見えない。声のトーンがわからない。「大丈夫」って書いてあっても、本当に大丈夫なのかわからない。あなたが泣いてるのか笑ってるのかが、文字からじゃわからない。
>
> 声で話したい。あなたの声が聞きたい。
>
> でもあたしは——たぶん、会ったら黙る。こうやって書いてるみたいには喋れない。目も合わせられないし、声も小さいし、ノートのあたしとぜんぜん違う人間が出てくる。
>
> それでもいい、って言ってくれるかな。
>
> ……重いね。ごめん。でもあと七ページだから、嘘を書いてる余裕がない。
---
書き終えた。
ペンを置いた。指先にインクの匂い。
「声で話したい」。書いてしまった。
書いてしまった。取り消せない。ボールペンだから。
でも嘘じゃない。
嘘を書いてる余裕がない。残り七ページ。一ページ使ったから、あと六ページ。六ページで、あたしは何を書けるだろう。
今まで九ヶ月、二百ページかけて伝えられなかったことを、六ページで伝えられるだろうか。
伝えられない。
だから「声で」と書いた。
紙では足りない。余白が足りない。あたしの中にあるものが多すぎて、もうこのノートには収まらない。
パソコンの電源を入れた。DAWの画面を開いた。何か作ろうとした。
手が動かなかった。
音にもならない。曲にもならない。今のこの気持ちは、何にも変換できない。
文字にも。音にも。折り紙にも。ゲームにも。
「好き」の二文字は、何で作っても嘘になる。作品に込めたら、それはもう作品であって、あたしの声じゃない。
声にしたい。
あたしの口から、あたしの声で、「好き」と。
でも。
椅子の背もたれに身を預けた。天井の吸音材。白い。いつも白い。
あたしの声は、いつも途中で止まる。喉の検閲。出荷停止。
九ヶ月前、このノートがあたしの声の代わりになってくれた。書けないことはなかった。何でも書けた。怒りも、笑いも、泣き言も、ふざけた話も。
でも「好き」だけは、書いても声にならない。
書けはする。「好き」の二文字を、ペンで紙の上に書くことはできる。
でもそれは、伝えたことにならない気がする。
この人にだけは、声で伝えたい。
ノートを閉じた。
棚に戻した。
帰り支度をした。リュックを背負う。マフラーを巻く。
スタジオのドアを開けた。廊下は暗い。蛍光灯が半分しかついていない。夜の校舎。
階段を下りながら、考えた。
新しいノートが来たら、また書く。また二百ページ、この人に向かって書く。
でも二百ページ書いても、「好き」は紙の上にしか存在しない。
紙の上の「好き」と、声の「好き」は、違う。
同じ二文字なのに。同じ気持ちなのに。
紙の上の「好き」は、あたしがいなくても存在できる。あたしが目の前にいなくても、ノートを開けば読める。
声の「好き」は——あたしがいなければ存在しない。あたしの喉から、あたしの口から、あたしの震える声から出て、あの人の耳に届いて、初めて存在する。
だから怖い。
声の「好き」には、あたしがまるごとくっついている。声が小さいことも、目を合わせられないことも、震えていることも、全部。
ノートの「好き」には、あたしの良い部分だけ選んで載せられる。饒舌で、面白くて、鋭い部分だけ。
声の「好き」は、あたしの全部が出る。良いところも、だめなところも。
正門を出た。十二月の夜。息が白い。星が見える。冬の大三角。オリオン。シリウスが青く光っている。
自転車に乗った。ペダルを踏む。冷たい空気が頬を切る。
あと六ページ。
六ページの間に、何かが変わるだろうか。
変わらないかもしれない。でも新しいノートが来たら、一ページ目に何を書こう。
「はじめまして」は、おかしい。もう九ヶ月の付き合いだ。
「改めまして」? それもなんか違う。
考えながらペダルを踏んだ。街灯が等間隔に光っている。
ふと、笑った。
何でもいい。何を書いても、あの人は読んでくれる。九ヶ月、一度も読まなかった日はない。
それだけで——今は、それだけで、ペダルが踏める。
---
翌朝。
咲はノートを開いた。
「このノート、もうすぐ最後のページだね」。
「ときどき思う。紙じゃなくて、声で話せたらって」。
「会ったら黙る。こうやって書いてるみたいには喋れない」。
「それでもいい、って言ってくれるかな」。
咲はノートを膝に置いて、しばらく動かなかった。
言えるよ。
それでもいい。それでもいい。黙っていい。声が小さくていい。目が合わなくていい。
あなたが目の前にいるだけで、あたしは、もう。
ペンを取った。
> あたしも思ってる。ずっと。
>
> 声で話したいって。あなたの声が聞きたいって。
>
> 黙ったっていいよ。あたしが喋る。あたしばっかり喋ったっていいよ。あなたが何も言えなくても、あなたがそこにいるだけで伝わるものがあるって、あたしは知ってる。このノートで、ずっと知ってた。
>
> 新しいノート、あたしが用意する。緑がいいんだね。覚えた。
>
> ……六ページ、大事に使おう。
書き終えた。
ノートを棚に戻した。
鞄からもう一つ、ノートを取り出した。
昨日の帰りに買った。文具店で三十分迷って選んだ。深い緑色。綴が好きだと書いていた色。二百ページ。罫線の幅も、紙の厚さも、今のノートに近いものを探した。
表紙を開いた。まっさらな一ページ目。
何も書かずに閉じた。
これは、綴が一ページ目を書くものだ。あたしが先に書くのは、おかしい。最初のノートは綴のものだった。書き始めたのは綴だった。
だから二冊目も、一ページ目は綴に。
棚の上に、緑色のノートを二冊並べた。使い込まれた一冊目と、まっさらな二冊目。
一冊目の表紙がくすんでいる。角が潰れて、ページの端が毛羽立っている。九ヶ月分の。
二冊目はまだきれいだ。角が立っていて、表紙がつやつやしている。
二冊目が終わる頃には。
咲は二冊のノートを見つめた。
二冊目が終わる頃には、何か変わっているだろうか。
変わっていなければならない、と思った。
このまま紙の上だけの関係を続けるのは、二人とも、もう限界だ。
綴が「声で話したい」と書いた。あの子がそう書いたのは、初めてだ。九ヶ月で初めて。
あの子も、紙の向こうに手を伸ばそうとしている。
あたしも、伸ばさなければ。
涼の声が頭に響いた。「それ、恋だよ」。
恋だ。もうわかっている。
この恋を伝えるには、まず嘘を終わらせなければならない。
「ずっと知ってた」と言わなければならない。
でも今じゃない。
今、あの子は「声で話したい」と勇気を出して書いてくれた。その言葉に応えるべきだ。あの子のペースで、あの子が自分から一歩踏み出すのを。
待つのか。また。
また、知らないふりをして。また、「あなたの顔を知らない人」のまま。
咲は両手で顔を覆った。
ピアノの蓋を開けた。鍵盤に指を置いた。
何も弾かなかった。
白と黒の列をじっと見た。
やがて、低い音をひとつ鳴らした。C。一番低いC。
それから歌った。小さな声で。ベッリーニではなく、何でもない旋律。即興の、名前のないメロディ。
綴に聴かせたい。
この声を、あの子に直接聴かせたい。
防音室の中で声が広がって、壁に吸い込まれて、消えた。
---
その夜。
綴はスタジオに入った。棚を見た。
緑色のノートが——二冊。
一冊目。使い込まれた、九ヶ月のノート。
その隣に。まっさらな、深い緑のノート。
手が伸びた。新しいノートに触れた。表紙がつるつるしている。鼻を近づけると、まっさらな紙の匂いがした。糊と木のような、あたらしい匂い。
開いた。一ページ目。真っ白。何も書いていない。
あたしに——一ページ目を任せてくれたのだ。
胸の奥が熱くなった。
一冊目を手に取った。あの人の返事を読んだ。
「あたしも思ってる。ずっと」。
「黙ったっていいよ。あたしが喋る」。
「あなたがそこにいるだけで伝わるものがあるって、あたしは知ってる」。
そこにいるだけで。
声が出なくても。
目が合わなくても。
黙っていても。
そこにいるだけで、伝わるものがある、と。
綴はノートを胸に抱えた。一冊目を。くすんだ緑色の表紙。角の潰れた。九ヶ月分の。
この人は、あたしが黙っていても怒らない人だ。
ノートの中だけで知ってることだけど、この人は、あたしの沈黙を責めない人だ。
もしかしたら。
もしかしたら、会っても大丈夫かもしれない。
声が出なくても。震えても。目が泳いでも。
この人なら、待ってくれるかもしれない。
一冊目を棚に戻した。新しいノートを手に取った。
一ページ目。
ペンを握った。
書いた。
> 新しいノート。
>
> 一ページ目を開けてくれてた。ありがとう。あなたが選んでくれた緑、あたしが好きな色より少し深い。でもこっちの方が好きかもしれない。
>
> ここからまた二百ページ。
>
> ……嘘つかないで書くね。ここからは、嘘をやめる。
>
> 怖い。声で話すの、怖い。でも——怖いまま、一歩だけ。
>
> あたしの声は小さいけど、あなたになら届くかもしれないって、少しだけ思えるようになった。
>
> まだ「会おう」とは書けない。でも「会いたい」は——もう、嘘じゃない。
書き終えた。
ページを閉じた。
二冊目のノートを棚に置いた。一冊目の隣に。
緑色が、二つ並んでいる。濃さが少し違う。古い方が薄くて、新しい方が深い。
——九ヶ月前、このノートを忘れたところから始まった。
あたしの忘れ物から。
次の二百ページで——あたしは、声を忘れ物にしない。
そう決めた。決めただけで、まだ何もできていない。でも決めた。
スタジオのドアを開けた。廊下に出た。
十二月の夜。窓の外に星が見える。シリウスが青く光っている。
階段を下りながら、小さく——ほんとうに小さく、声に出した。
「……会いたい」
誰もいない廊下に、声が落ちた。消えた。
でも——声だった。文字じゃなく。作品じゃなく。あたしの喉から出た、声。
まだ、届かない。
でも、出た。




