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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第11章 透明な檻

「如月さんは静かだから、記録係がいいかな」


教授の声は穏やかだった。悪意はない。誰も傷つけるつもりのない、ただの提案。


如月綴は、頷いた。


小さく。ほとんど見えないくらいの動きで。


「じゃあ如月さんが記録、橘さんがプレゼン、残りの三人で制作分担ね。来週までにテーマ決めてきて」


グループ課題。メディア芸術演習II。四人一組の映像制作。


記録係。議事録を書いて、進捗をまとめて、ファイルを管理する。


誰とも話さなくていい役。


誰にも意見しなくていい役。


また、だ。


椅子に座ったまま、綴は手のひらを見た。ペンだこがある。右手の中指。ノートに書きすぎて、ずっとここにある。


頭の中には、映像のアイデアがあった。


テーマはもう思いついている。音と色の共感覚を題材にした実験映像。音を可視化して、色が音楽に合わせて変容するインスタレーション。技術的なアプローチも頭にある。Unityで音声入力をパーティクルに変換して、プロジェクターで投影すれば——


言えばいい。


「テーマ、考えてきました」と言えばいい。


口を開いた。


喉が詰まった。


閉じた。


隣の席で環が手を挙げた。「テーマ、何にする? みんなアイデアある?」


他の二人が案を出す。一人は「SNSと孤独」。もう一人は「AIと創作」。どちらも悪くない。でも綴の案の方が面白い。と思う。思うだけで、口には出ない。


「綴は?」


環が振ってくれた。いつもそうだ。環は必ず綴に発言の機会を作る。


「……あ、の。ない、です」


嘘だ。


ある。ある。ある。


あるのに出ない。喉の検閲が、また出荷を止めている。


「そっか。じゃあ二つの案で考えてみようか」


環が笑って、話を進めた。


綴は、膝の上で拳を握った。


---


教室を出た。


廊下。蛍光灯。十一月の午後は、もう窓の外が暗くなりかけている。四時半。日が落ちるのが早い。


「綴」


後ろから声がした。環が小走りで追いかけてくる。


「……なに」


「一緒に帰ろ」


並んで歩いた。廊下の窓から、キャンパスの街灯が見える。夕暮れのオレンジと夜の紺が混ざった空。


「ねえ」


「ん」


「さっきの授業。テーマ、本当になかった?」


綴は足を止めかけて、止めなかった。歩き続けた。


「……なかった」


「ほんとに?」


沈黙。靴の音だけ。


「……あった」


「やっぱり」


環は怒らなかった。呆れもしなかった。ただ「やっぱり」と言って、そのまま歩き続けた。


階段を下りる。一段ずつ。手すりの金属が冷たい。


「綴」


「ん」


「無理してない?」


「……してない」


声が、震えた。自分でわかるくらいに。


環もわかったはずだ。でも追わなかった。


「無理しなくていいけど、我慢もしなくていいんだよ」


それだけ言って、環は話題を変えた。学食の今週のメニューの話。金曜日にカレーフェアがあるらしい。「綴、カレー好きだよね」「……ふつう」「嘘。前に三杯おかわりしてたよ」「……二杯」


環はいつもこうだ。深いところまで一瞬触れて、すぐに手を引く。追い詰めない。でも見ていることだけは、ちゃんと伝える。


正門を出た。


「じゃあね。また明日」


「……うん」


環が手を振って、自転車置き場の方に歩いていった。


綴は一人になった。


十一月の夕方の風が、首筋を刺した。マフラーを引き上げた。息が白い。どこかから焼き芋の匂いがした。甘くて、少し焦げた匂い。キャンパスの近くの屋台だろう。


「如月さんは静かだから」。


あの一言が、まだ耳の中にある。


静かだから。


おとなしいから。


声を出さないから。


だから記録係。


だから端っこ。


だから——何も期待されない。


別に、教授が悪いわけじゃない。教授は事実を言っただけだ。如月綴は静かだ。それは事実。一年半、教室でほとんど発言したことがない。声が小さい。目を合わせない。グループワークでも意見を言わない。


事実だ。


事実が、透明な箱になって、綴を閉じ込めている。肩が重い。首の後ろが凝っている。箱の内側から押しても、手応えがない。柔らかくて、温かくて、だから余計に逃げられない。


最初に声が出なかったのは、一年半前の自己紹介。名前とよろしくお願いしますだけ。十二文字。あの十二文字が全ての始まりだった。


「おとなしい子」。そのレッテルが貼られた。一度貼られたら、もう剥がれない。毎日の沈黙が、毎回のグループワークが、毎学期の自己紹介が、そのレッテルを強化していく。


一年半分の「おとなしい如月さん」が、積み重なって、透明な檻になった。


檻を作ったのは、あたしだ。最初に声が出なかったのはあたし。毎日黙っているのもあたし。


でも、もう鍵は外からかかっている。


あたし一人じゃ、開けられない。


---


夜。


スタジオ401。


ドアを閉めた。防音扉が閉まる。世界が変わる——はずだった。


今日は変わらなかった。


教室の空気が、まだまとわりついている。「如月さんは静かだから」が、防音扉を越えてきた。


スタンドライトを点けた。椅子に座った。


ノートを開いた。ペンを取った。


書き始めた。


一度始まると、止まらなかった。


---


> 今日、また「おとなしい子」をされた。

>

> 課題のグループ分けで記録係にされた。理由は「静かだから」。それだけ。悪意はない。誰も悪くない。でもあたしの中で何かが軋んだ。

>

> もう1年半だよ。1年半、ずっとこのイメージ。おとなしい。清楚。静か。声が小さい。邪魔しない。主張しない。

>

> あたしが自分で作った檻なのかもしれない。最初に声が出なかったのはあたしだから。でもさ——檻を作ったのがあたしだとしても、鍵はもう外から閉められてる感じがする。周りの人が、善意で、あたしを「おとなしい子」の箱に入れ続けてる。悪意がないから厄介なんだ。悪意なら怒れる。善意には怒れない。

>

> テーマのアイデアはあった。面白いやつ。音を色に変換するインスタレーション。技術的にも実現可能で、コンセプトもちゃんとあって、たぶんグループの中で一番ちゃんと考えてた。

>

> でも言えなかった。口を開いて、喉が詰まって、閉じた。

>

> こうやってノートに書くと止まらないのに。こうやって文字にすると、ぜんぶ出るのに。

>

> なんで口から出ないんだろう。なんで。

>

> みんなは悪くない。でもあたしは、あたしが思ってるよりずっと、苦しい。

>

> 「おとなしい子」があたしだって、もう思いたくない。

>

> 本当のあたしは——このノートの中にいる。ここに書いてるあたしが、本当のあたし。こっちが本物なのに、誰も知らない。

>

> あなただけだ。あなただけが、本物のあたしを知ってる。

>

> ……ごめん。重いね。でも今日はこれしか書けない。


---


ペンを置いた。


指先が震えている。インクの匂い。


ノートを見つめた。走り書きの文字が、ページを埋め尽くしている。途中から字が歪んでいる。手が震えていたから。


目が熱い。泣いてはいない。泣かない。ここで泣いたら、明日のノートが水で波打つ。あの人にまた泣いたと思われる。


深呼吸をした。一回。二回。


パソコンの電源を入れた。曲の作業をしようとした。


できなかった。DAWの画面を開いても、波形が頭に入ってこない。


パソコンを閉じた。


ノートを棚に置いた。


帰ろう。今日は、もう無理だ。


---


スタジオを出た。廊下。蛍光灯。いつもと同じ。


でもいつもと違う。体が重い。足が重い。頭の中がうるさい。


ノートのあの人が、明日の朝、あれを読む。


あんなに重いものを書いて、引かれないだろうか。


「おとなしい子」の呪いの話なんか読まされて、嫌にならないだろうか。


階段を下りながら、後悔が背中を追いかけてくる。


でも消せない。ボールペンだから消せない。


十一月の夜の空気は冷たかった。息が白い。自転車に乗る。ペダルを踏む。街灯が等間隔に光っている。


帰り道、空を見上げた。星が見える。冬の星座。オリオンが東の空に上がっている。


あの人は、何を書いてくれるだろう。


何を書いてくれても、あたしは明日の夜、ここに来る。ノートを開く。あの人の文字を読む。


それだけが、今のあたしの——


マフラーに顔を埋めた。冷たい空気。温かい呼吸。


ペダルを踏んだ。


---


翌朝。


春日咲はノートを開いた。


読み始めて、すぐに手が止まった。


「おとなしい子」。


「檻を作ったのがあたしだとしても、鍵はもう外から閉められてる」。


「みんなは悪くない。でもあたしは、あたしが思ってるよりずっと、苦しい」。


咲はノートを膝に置いて、目を閉じた。


綴の顔が浮かんだ。


教室の隅で、うつむいて、口を結んで、拳を握っている姿。アイデアがあるのに言えない。頭の中には言葉があふれているのに、喉が通さない。


あの子が、こんなに苦しんでいる。


「あなただけが、本物のあたしを知ってる」。


——知ってる。


知っている。あなた以上に。


名前も。顔も。うつむいた横顔も。スケッチブックに向かう指先も。金木犀の前で匂いを嗅ぐ仕草も。全部。


でもあたしは、それを言えない。


あたしも——檻の中にいる。「知らないふりをしている人」という檻の中に。


ペンを握った。


何を書くべきか。


「大丈夫だよ」? 軽すぎる。

「頑張れ」? 無責任だ。

「あなたは一人じゃない」? 嘘だ。あたしは目の前にいるのに、そこにいないふりをしている。


長い時間、ペンを持ったまま動かなかった。


空調の音。蛍光灯の光。窓のない部屋。


ようやく、書いた。


> 重くないよ。全部読んだ。

>

> 檻の話、わかる。あたしにも似たようなものがある。周りが勝手に作ったイメージに、自分がはまっていく感覚。いい子でいなきゃ、優しくいなきゃ、正直でいなきゃ、って。

>

> でもあなたが檻の中にいるとしたら、あたしはその檻の外にいるんじゃなくて、別の檻の中から手を伸ばしてるんだと思う。

>

> 檻を壊すのは怖いよね。壊したら何が出てくるかわからないから。でもあたしは、檻の中にいるあなたも、檻から出てくるあなたも、どっちも受け止めたい。

>

> ……あたしも、正直になりたい。あなたに。


書き終えた。


最後の一行が震えていた。「正直になりたい」。


いつか——いつか必ず、本当のことを伝えなければならない。


でも今日じゃない。


ノートを棚に戻した。


ピアノの前に座った。蓋を開けた。


今日は、歌おう。この部屋で。綴が夜に曲を作る、この部屋で。


息を吸った。深く。横隔膜を下げて、肋骨を広げて。


声を出した。


小さなアリア。ベッリーニの。月の女神への祈り。


声が、防音室の中に広がった。壁に吸い込まれて、また返ってくる。


届けるように歌った。誰に?


——この部屋の空気に。綴が夜に呼吸する、この空気に。


声は残らない。朝に歌った声は、夜には消えている。


でも空気は覚えているかもしれない。この部屋が、咲の声を覚えているかもしれない。


そう思いたかった。


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