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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第10章 音のない手紙

スタンドライトの明かりが、机の上に楕円形の白を作っている。その中に緑色のノートが開いている。蛍光灯は消してある。深夜のスタジオ401は、スタンドライトだけの明かりだと狭くなる。防音扉の向こうの廊下から、かすかに暖房の配管が軋む音がする。吸音材の匂いと、インクの匂いと、自分の手の温度が混じった空気。


如月綴は椅子に座って、開いたままのノートを見つめていた。


好きだと自覚してから、ノートに向かうのが怖くなった。


ペンを持っている。キャップは外した。でも書けない。


今まで書いていたのと同じように書けばいい。食べ物の話。天気の話。日常の些細なこと。ふざけたツッコミ。くだらない観察。


でも全部の文字の裏に「好き」が滲んでしまう気がする。


「今日の学食」と書いても、「あなたと食べたい」が透ける。「雨が降った」と書いても、「あなたと同じ雨を見ていたい」がにじむ。


ペンを置いた。


ノートを閉じた。


パソコンを開いた。


---


DAWの画面。


白い波形の並ぶタイムライン。空のプロジェクト。何も入っていない。


ヘッドホンを被った。


ピアノの前に座った。鍵盤に指を置いた。まだ弾かない。


何を作るのかは、わかっていた。


この人に届けたいものがある。言葉じゃ足りない。折り紙でも足りない。ゲームは作った。でもゲームはあたしを形にしただけで、この人への気持ちを形にしたわけじゃない。


音にしたい。


あたしの中にある、名前のない感情を。好きという二文字では収まりきらない、もっと大きくて、重くて、でも壊れそうに柔らかいものを。


低い鍵盤を一つ押した。


C。


音がヘッドホンの中で鳴って、耳の中を満たした。低い振動。鍵盤から指を離しても、余韻がしばらく残る。


もう一つ。E♭。


マイナーの響き。寂しさじゃない。寂しさの手前にある、静けさの音。誰もいない部屋で、一人でノートを開いた時の、あの静けさ。


ここから始めよう。


---


一音目。


ピアノの低い和音。Cm。左手がゆっくりとアルペジオを弾く。一音ずつ、階段を下りるように。暗い部屋。一人。静かな呼吸。


二小節目。右手が入る。単音のメロディ。高い音。細い音。ノートにペンを走らせている時の、あの感覚。頭の中から言葉が出てきて、手が動いて、紙の上に文字が生まれる。その一連の動きを、音にする。


四小節目。メロディが少しだけ上がる。返事があった。誰かが書き込んでくれた。「あたしも」。たったそれだけの言葉が、どれだけ温かかったか。


綴は弾きながら、DAWに録音していた。


ミスタッチは直さない。今はとにかく、出す。出して、形にする。


八小節目。シンセサイザーのパッドが入る。柔らかい音。空気みたいに薄い音が、ピアノの周りを包む。スタジオの空調の音に似ている。401号室の空気。二人で、会ったことはないのに二人でいる場所。


弾き続けた。


中盤。十六小節目。


感情が変わる。


メロディが跳ねる。オクターブ上がる。折り紙のウサギがページの間から落ちた瞬間。「シグナルちゃん」と名づけてくれた瞬間。学園祭でゲームを見つけてくれた瞬間。


嬉しくて、怖くて、恥ずかしくて、でも嬉しい。


右手が走る。左手が追いかける。和音が厚くなる。Cm から A♭ へ、E♭ へ、そして——


F。


あの、三十分かけて見つけたF。全部を変える一音。


音が膨らんだ。シンセの音量が上がる。ピアノが激しくなる。


途中で止まった。


綴の指が、鍵盤の上で止まった。


二十四小節目。


怖い。


この先を弾いたら。この先を音にしたら、もう戻れない。


この感情に名前をつけることになる。音にしたら。「好き」が、音になってしまう。


指が震えている。


鍵盤の上に手を置いたまま、綴は目を閉じた。


ヘッドホンの中の残響。自分が今まで弾いた音の余韻が、まだ耳の中で揺れている。


弾け。


弾かないと、また喉の検閲に止められる。手からは出せるんだから。いつもそうだったでしょ。口がだめなら手で。文字がだめなら音で。


止まるな。


指が動いた。


二十五小節目。


一音。高いC。ピアノだけ。シンセは止まる。


たった一音。長く伸ばす。サステインペダルを踏んだまま。音が防音室の中で共鳴して、壁に吸い込まれて、また返ってくる。


自分の音が、自分に返ってくる。


それが、声に似ていると思った。


声は出ない。でも音は出る。この音が、あの人に届くなら。


一音が消えていく。減衰。長い減衰。静寂に向かって、音が薄くなっていく。


最後の振動が消えた。


静寂。


ヘッドホンの中に、自分の呼吸だけが残った。


---


録音を止めた。


タイムラインを見る。三分十二秒。


再生ボタンを押した。自分の曲を、最初から聴いた。


低い和音。静かな始まり。メロディが入ってくる。シンセが空気を作る。感情が膨らんでいく。止まる。一音。減衰。静寂。


聴き終えた。


ヘッドホンを外した。


恥ずかしい。


全部入っている。全部。寂しさも、喜びも、怖さも、好きも。隠しようがないくらい、あたしの感情がそのまま音になっている。


これを、あの人に聴かせる。


本気で?


本気だ。


あたしの声は、これだ。音の形をした声。口から出ない代わりに、鍵盤から出る声。


鞄の中を探った。USBメモリ。レポート提出用に持っていた白いメモリ。


曲のファイルをコピーした。ファイル名は、何にしよう。


「無題」にした。タイトルはない。つけられない。この曲に名前をつけたら、気持ちに名前をつけることになる。まだ、そこまでの勇気はない。


USBメモリを手のひらに乗せた。軽い。指の腹でプラスチックの継ぎ目をなぞる。三分十二秒の感情が入っているとは思えないほど、軽い。


ノートを開いた。


あの人が最後に書いたページの次。余白に、一行だけ書いた。


> 聴いてほしいものがある。


USBメモリをページの間に挟んだ。


ノートを閉じた。棚の上に置いた。


胸の奥で、何かが震えていた。声にならない声。喉から出ない言葉。音にはなったけれど、まだ届いていない。


明日の朝、あの人がこのノートを開く。USBを見つける。パソコンに挿す。ヘッドホンをつける。


再生ボタンを押す。


あたしの三分十二秒が、あの人の耳に流れ込む。


怖い。


でも聴いてほしい。


---


翌朝。


春日咲はスタジオ401のドアを開けた。


いつも通り。蛍光灯を点ける。空調をつける。朝のスタジオには、まだ夜の気配が残っている。インクの匂い。紙の匂い。昨夜ここにいた人の指先の温度が、空気の底に沈んでいるような感覚。棚の上のノート。


手に取った。開いた。


一行。


「聴いてほしいものがある」


ページの間から、白いUSBメモリが滑り落ちた。手のひらで受け止めた。


軽い。小さい。


咲は、そのUSBメモリをしばらく見つめた。


この人が——綴が——音を送ってきた。


言葉でも、折り紙でも、イラストでもなく。音を。


机の上にはパソコンがある。スタジオの備え付けのデスクトップ。授業や制作で使うためのもの。電源を入れた。ファンが回り始める低い音。起動を待つ間、USBメモリを手の中で転がした。白いプラスチックの表面がひんやりしている。指先に、かすかにインクの匂いがした。綴の手に触れていたものに、触れている。


パソコンが立ち上がった。USBを挿した。


フォルダが開く。ファイルがひとつだけ。「無題.wav」。


ヘッドホンをつけた。スタジオの備え付けのモニターヘッドホン。耳を覆う。外の音が遮断される。


再生ボタンをクリックした。


---


最初の音が来た。


低いピアノ。ゆっくりとした和音が、ヘッドホンの中でじわりと広がる。暗い。静か。でも冷たくはない。暗闇の中に、かすかに温かいものがある。ベッドの中で目を閉じている時のような、一人だけど安全な暗さ。低音の振動が耳の奥を通って、胸骨のあたりまで沁みてくる。


メロディが入ってくる。


右手の単音。細い線。でも確かな線。この人の描くイラストの線と同じだ。迷いがなくて、意志がある。一音ごとに、綴の指が鍵盤を押す感触が伝わってくるような気がした。


シンセの音が広がった。空気みたいな音。401号室の空気。二人で共有しているこの部屋の空気。耳の中が温かくなる。ヘッドホンのパッドに包まれた耳が、音の温度を感じている。


咲の目が熱くなった。


中盤。感情が動く。


メロディが跳ねる。嬉しさだ。何かを見つけた喜び。誰かに届いた喜び。音が明るくなり、和音が開いていく。閉じていた指がそっと広がるように、こわばっていた体がほどけるように、音楽の色彩が変わった。


途中で揺れる。怖い。嬉しいのに怖い。近づきたいのに逃げたい。ウサギが走って、立ち止まって、また走る。そういう音。咲の心臓がテンポに引きずられるように速くなる。


和音が厚くなっていく。感情が溢れる。


そして、止まった。


一音。


高いピアノの音が、一つだけ。


長く伸びる。シンセは消えている。ピアノの一音だけが、ヘッドホンの中で震えている。その振動が鼓膜を越えて、喉の奥まで降りてくる。声を出す場所の、すぐそばまで。


咲は息を止めていた。


この音は——叫びだ。声にならない叫び。口から出ない言葉の、音の形。


「好き」。


この音は「好き」だ。


咲にはわかった。歌を学んでいるから。声を学んでいるから。人の声に込められた感情を読み取る訓練を、何年も積んできたから。声でなくても、音の中に宿る感情は読める。この一音の震え方、この減衰の仕方、この響きの密度が、何を伝えようとしているか。


この一音に、全部入っている。


恐れ。渇望。孤独。そして——かすかな、でも確かな希望。


音が減衰していく。消えていく。薄くなっていく。咲の胸の中で、何かがきつく締まった。この音が消えてしまうのが怖い。もう少し、もう少しだけ鳴っていてほしい。


静寂。


ヘッドホンの中に、自分の心臓の音だけが残った。速い。こんなに速く打っている。


---


曲が終わった。


咲はヘッドホンを外せなかった。


もう一度再生した。最初から。低いピアノ。メロディ。シンセ。感情が膨らんで、止まって、一音。減衰。静寂。二度目は一度目と違う場所が光った。四小節目のメロディの上昇が、最初に聴いた時より温かく感じられた。二度目に聴いて初めてわかることがある。言葉を読み返すのと同じだ。


三回聴いた。


三回目が終わった時、咲はヘッドホンをゆっくり外した。イヤーパッドが耳から離れる瞬間、外の世界の音がじわりと戻ってくる。空調の低い唸り。蛍光灯の微かなハム音。窓のない部屋。朝の光は入ってこない。


それでもこの部屋は今、音で満ちていた。もう鳴っていないのに。耳の奥にまだ残っている。あの最後の一音が、鼓膜の記憶の中で、まだ震えている。


ノートを開いた。ペンを取った。


手が震えていた。涙が一滴、ノートの上に落ちた。慌てて手の甲で拭いた。紙が少しだけ波打った。


書いた。


> 聴いた。3回聴いた。

>

> これは手紙だね。声のない手紙。

>

> 今まで読んだどの言葉よりも、あなたのことがわかった気がする。言葉にならないものが全部、音の中にあった。最後の一音が、まだ耳から離れない。

>

> あなたの声を、聴いた気がする。


ペンを置いた。


USBメモリをノートの上に戻した。返すべきか迷ったけれど、返さなかった。このまま持っていたい。この三分十二秒を、いつでも聴けるように。


ノートを棚に戻した。


ピアノの前に座った。蓋を開けた。鍵盤の白と黒が、朝の蛍光灯の下で静かに並んでいる。


いつもは発声練習から始める。リップロールで唇を震わせて、ハミングで鼻腔を温めて、母音発声でスケールを上っていく。毎朝のチューニング。声が体に馴染んだことを確認してから、歌い始める。


今日は違った。声を出す前に、ピアノを弾いた。


綴が弾いたのと同じ鍵盤で、違う音を。


低いCを押す。さっきヘッドホンの中で聴いた最初の音と同じ音が、今度はスタジオの空気を直接震わせた。防音材に吸われて、柔らかく返ってくる。スケールを上げていく。声は出さない。ピアノだけ。綴の音の余韻の中で、自分の指を動かす。


同じ鍵盤。同じ部屋。


あなたの音を聴いた。


次はあたしの声を、届ける番だ。


---


その夜。


綴はスタジオに入って、ノートを開いた。


USBメモリはなかった。持っていってくれたのだ。


返事があった。


「聴いた。3回聴いた」。


「これは手紙だね。声のない手紙」。


声のない手紙。


そうだ。あれは手紙だ。あたしの声が出ない代わりに、音で書いた手紙。


「あなたの声を、聴いた気がする」。


綴はその文字に指で触れた。


ページの一箇所が、わずかに波打っていた。水滴の跡。


涙だ。


泣いた。


この人が、あたしの音を聴いて、泣いた。


綴はノートを胸に抱えた。緑色の表紙が頬に当たる。紙の匂い。インクの匂い。七ヶ月分の言葉の重さ。


声にならない声が、胸の奥で震えていた。


好きだ。


この人のことが、好きだ。


顔も名前も知らない。声も聞いたことがない。


あの人はあたしの音を聴いて泣いてくれた。あたしの折り紙に名前をつけてくれた。あたしのゲームの前で泣きそうになっていた。あたしの言葉を半年以上読み続けて、毎朝返事を書いてくれた。


この人が好きだ。


でもこの二文字を——「好き」の二文字を——どうやって届ければいいのか。


音にはした。たぶん伝わった。でも音は音で、言葉じゃない。


いつか。


いつか、あたしの口から、あたしの声で、この人に「好き」と言いたい。


ノートを膝の上に置いた。ペンを取った。


> 恥ずかしい。でも、聴いてくれてありがとう。

>

> 言葉にできないことが多すぎて、音にするしかなかった。あなたに届けたいものが、文字の中に収まらなくなってきてる。

>

> 涙の跡、見つけた。ノートのページが少し波打ってた。泣かせてごめん。でも嬉しい。あたしの音が、あなたに届いたんだなって思ったら。


書き終えた。


ペンを置いた。


スタンドライトの明かりの中、緑色のノートが棚の上にある。


明日の朝、あの人がこれを読む。


そしてまた返事をくれる。


この往復がいつまでも続けばいいのに、とは思わなかった。


いつかは終わる。紙の上の距離は、いつか閉じる。あたしが踏み出すか、あの人が踏み出すか。


今夜はまだ、ここにいていい。


ノートの中に。音の中に。あたしだけの声が響く場所に。


もう少しだけ。


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