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ラビット・シグナル  作者: はるうた


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第9章 学園祭の夜

あたしの声は、画面の中にしかない。


口から出る言葉は、いつも途中で喉に引っかかって消える。文字にすれば出てくる。絵にすれば出てくる。コードを書けば、画面の中のウサギが代わりに走ってくれる。


だからゲームを作った。声の代わりに。


奏明祭まで、あと三日。メディア芸術科棟の一階は、ここ一週間ずっと戦場だった。展示パネルの組み立て。配線。モニターの設置。あちこちから電動ドリルの音が響き、接着剤のツンとした刺激臭と、誰かが持ち込んだ缶コーヒーの甘い匂いが混じり合っている。


如月綴は、展示ブースの隅で画面を見つめていた。


ノートパソコンの液晶に映っているのは、自分が作ったゲーム。横スクロールのアクション。Unityで組んだ。背景は手描きの水彩で塗って、スキャンして取り込んだ。空のグラデーションが淡い紫から薄い橙へ溶けていく。地面は濃い藍色のシルエット。タイトル画面には何も書いていない。名前もタイトルもない。ただ、小さなウサギが画面の左端にいて、長い耳を片方だけ立てて、右の方を見ている。八コマのスプライトで描いた、ドット絵の白いウサギ。


テストプレイ。最終確認。


ステージ1。ウサギが走る。手紙を一通、口にくわえている。届けたい。でも道が遠い。穴を跳び越えて、風に流されて、でも手紙を離さない。


ステージ2。手紙がちぎれそうになる。ウサギは後ろ足で地面を踏み鳴らす。とん、とん。声が出ないから、足で叩く。その振動で画面が揺れて、手紙が折り紙に変わる。折り紙のウサギにして、風に乗せる。自分の足では届けられないから、風に託す。


ステージ3。折り紙が風に飛ばされて、山を越えて、川を越えて、画面の向こう側に影が見える。手紙を届けたい相手。でも近づくと、相手は遠ざかる。


最終ステージ。


ウサギは走り続ける。折り紙を何度も折り直す。風が吹くたびに飛ばす。そしてようやく、折り紙が、画面の向こうの影に届く。


影が振り返る。


でもウサギの姿はもう見えない。画面の手前にいて、向こうには行けない。


折り紙だけが、二人をつないでいる。


エンディング。画面が暗転して、ウサギが一人で座っている。手紙を一通、抱えている。まだ書き終わっていない手紙。画面の下に、小さな文字が出る。


「まだ、書いている途中です」


暗転。タイトルに戻る。


綴はノートパソコンを閉じた。


大丈夫。動く。バグはない。三日前に直した衝突判定も、昨日調整した風の挙動も、ちゃんと動いている。


「綴」


振り返ると、環がいた。段ボール箱を抱えている。


「パネル足りないかも。一枚もらってきていい?」


「……うん」


「あと、展示の名前。まだ空欄だけど」


「匿名で」


「やっぱり?」


「匿名で」


環はにこっと笑って、「了解」と言って段ボールを持って行った。


匿名。作品の後ろに自分がいることは、知られたくない。作品は見てほしい。遊んでほしい。でもそれを作ったのが如月綴だということは、いらない。


ゲームの中にあるのは、あたしの気持ちだ。


会いたいのに会えない。届けたいのに声にならない。だから折り紙にして、風に乗せる。あたしにはそれしかできない。


誰のことを思って作ったか。


わかっている。わかっていて、認めていない。認めるのが、まだ怖い。


---


奏明祭、当日。


十一月の第一週の土曜日。朝からキャンパスが騒がしい。正門にアーチが立ち、模擬店のテントが並んでいる。学生だけじゃなく、近隣の人も来ている。子供の声。ソースの焦げる匂いが鉄板の白い湯気に乗って流れてくる。たこ焼きの出汁の香り、甘いワッフルの生地が焼ける匂い、どこかのブースから漂うドリップコーヒーの苦い香ばしさ。それら全部が十一月の冷たい空気の中で混ざって、学園祭の匂いになっている。どこかでバンドが演奏している。ベースの低音が地面を伝って靴底まで振動してくる。


綴は人混みが苦手だった。


メディア芸術科の展示ブースに入ったら、そこから出ないつもりでいた。ブースの中は外の喧騒から少しだけ遠くて、パーテーションの布と機材の金属の匂いがする。折りたたみ椅子に座って、ノートパソコンで別の作業をしているふり。


来場者が入ってくる。ウサギのゲームのモニターの前に、何人か座る。


コントローラーを持って、遊び始める。


「かわいい」「このウサギ何?」「意外とむずい」「折り紙になるの? すごい」


声が聞こえる。綴は画面を見ているふりをして、耳だけ向けていた。


環が隣に来た。


「綴のゲーム、結構人気だよ」


「……匿名だから関係ない」


「関係なくても嬉しいでしょ」


「……べつに」


「はいはい。口元ゆるんでるよ」


綴は口を手で押さえた。環は笑って、他のブースの手伝いに行った。


昼前に、環がたこ焼きを買ってきた。「ブースに籠りっぱなしでしょ。食べな」。熱い。ソースの匂い。一人では買いに行けなかった味を、黙って食べた。


午前中だけで、二十人くらいが遊んでくれた。ほとんどが途中で「むずい」と笑いながらやめていく。操作を覚える前に飽きる人もいたし、折り紙のウサギを見て「えっ、かわいい」と言ってくれる人もいた。でも最終ステージまでたどり着いた人は、三人だけだった。


それでよかった。全員に届かなくていい。届く人に届けばいい。


---


午後。


声楽科のステージ発表は、キャンパスの中央にある野外ステージで行われた。


綴は見ていない。展示ブースにいたから。


でもブースの外から、かすかに歌声が風に乗って聞こえた。遠い。何を歌っているかまではわからない。でも声が、空気を震わせているのはわかった。


きれいな声だ、と思った。


誰の声かは、知らない。


---


午後二時過ぎ。


展示ブースに、新しい来場者が入ってきた。


女の子が二人。一人はセミロングの茶色い髪。もう一人は黒髪を結んだ、涼しい顔の子。


茶髪の子が、ウサギのゲームのモニターの前で足を止めた。


タイトル画面のウサギを見ている。じっと見ている。


コントローラーを手に取った。


遊び始めた。


綴はパーテーションの陰から、ちらりと見た。


ステージ1。ウサギが走る。茶髪の子は、すぐにコツを掴んだ。ジャンプのタイミング。風への乗り方。上手い。でもそれ以上に、画面から目を離さない。集中している。何かを読み取ろうとするように、画面を見ている。


ステージ2。手紙が折り紙に変わるところで、茶髪の子の手が一瞬止まった。


画面を見ている。折り紙のウサギが風に乗って飛んでいく。


なんだろう。


あの子、すごく真剣だ。ゲームを遊ぶというより、画面の奥に何かを探しているような、何かを確かめているような目をしている。


ステージ3を越えた。最終ステージに入った。今日、四人目。


ウサギが走る。折り紙を折り直す。風に乗せる。画面の向こうの影に......


届いた。


影が振り返る。でもウサギは見えない。折り紙だけが。


エンディング。ウサギが一人で座っている。手紙を抱えている。


「まだ、書いている途中です」


暗転。


茶髪の子が、コントローラーを膝の上に置いた。


動かない。


画面はタイトルに戻っている。ウサギが左端にいて、右を見ている。でもその子は、もうタイトル画面を見ていなかった。うつむいている。


隣の黒髪の子が、茶髪の子の方を見た。


「大丈夫?」


茶髪の子が顔を上げた。


泣きそうな顔をしていた。


目が赤い。唇を噛んでいる。泣いてはいない。でも泣くのを堪えている。その表情が、パーテーション越しでもはっきりとわかった。


「……うん。大丈夫」


声がかすかに震えていた。


「すごいゲームだった」


「泣きそうだよ、咲」


「泣いてない。……泣いてないよ」


二人が立ち上がった。咲と呼ばれた茶髪の子が、もう一度だけモニターを振り返った。


タイトル画面のウサギ。耳を片方だけ立てて、右を見ている。


「……行こう」


二人がブースを出ていった。


綴はパーテーションの陰で、息を止めていた。


今の子。


ゲームで、泣きそうになっていた。


あたしのゲームで。誰にも見せたことのない、声にならない気持ちを全部詰め込んだゲームで。


胸の奥が、じんと熱くなった。


あの子は、誰だろう。


「咲」と呼ばれていた。それしかわからない。顔は、遠くてよく見えなかった。茶色い髪。それだけ。


名前だけが、頭の中に残った。


---


学園祭の夜。


キャンパスにはまだ明かりが灯っていた。模擬店のテントは畳まれ始めている。ゴミ袋を運ぶ学生。笑い声。疲れた顔。楽しかった顔。鉄板の上に残ったソースの焦げた匂いが、片付けの空気の中にまだかすかに漂っている。祭りの残り香。


展示の片付けを手伝ってから、綴は一人で外に出た。


環は打ち上げに行った。「綴も来なよ」と言ってくれたけれど、首を振った。人が多い場所は、まだ、だめだ。


夜の空気は冷たかった。十一月。コートのポケットに手を入れる。


正門の方に向かって歩きながら、空を見上げた。星が見える。冬の星座には早いけれど、秋の空は澄んでいる。


誰かが、あたしのゲームを見て泣きそうになった。


折り紙のウサギ。届けたいのに会えない。手紙を託して、風に乗せて。


あの子は何を感じたのだろう。


あの最終ステージで、何を。


わからない。でも、泣きそうな顔をしていた。あのゲームが、あの子の胸に届いた。


声が届いたということだろうか。


口から出る声じゃなくて、画面の中の、ウサギの動きと、折り紙の軌道と、「まだ、書いている途中です」という小さな文字が。


あれが、あたしの声だ。


届いた、のかもしれない。


正門を出た。自転車に乗る。ペダルを踏む。


十一月の夜風が冷たい。息が白い。街灯の光を通り過ぎるたびに自分の影が伸びて、縮んで、また伸びる。学園祭の喧騒から離れると、街はもう日常の静けさに戻っていて、遠くで電車の走る音がかすかに聞こえた。


家に着いたら、ノートに書こう。あの人に。今日のこと。誰かが泣きそうになってくれたこと。


あの人は、学園祭に来ただろうか。


来ていたら、あのゲームを見ただろうか。


見ていたら、わかっただろうか。あのウサギが、あたしだと。


---


翌日の夜。


スタジオ401。


ノートを開いた。


あの人の返事があった。


> 学園祭に行きました。メディア芸術科の展示で、ウサギのゲームを遊んだ。

>

> 手紙を届けたいのに会えない。手紙を折り紙にして、風に乗せる。最後は届くのに、ウサギは姿が見えなくて。

>

> あのウサギはあなた?


綴の手が止まった。


見つかった。


あの人が、あのゲームを見つけた。匿名のゲームを。何百人もの来場者の中から、あたしのゲームを見つけて、遊んで、あのウサギがあたしだと気づいた。


指先が震えている。


ペンを取った。


> ……見つかった。

>

> うん。あたしが作った。恥ずかしい。全部あたしだってバレてる気がする。でも、遊んでくれたんだ。最後まで。


書き終えた。ページを閉じようとして、もう少しだけ開いたまま、待った。


何か、もっと書きたい。


でも言葉が見つからない。「嬉しい」じゃ足りない。「ありがとう」は前に折り紙で送った。「あなたに会いたい」は、まだ怖い。


ノートを閉じた。棚に置いた。


---


翌朝の返事は、二行だけだった。


> 泣きそうになった。あのゲーム、全部伝わってきた。

>

> 言葉より、ずっと。


綴はその二行を、何度も読んだ。


泣きそうに。


あの人が、あたしのゲームで泣きそうになった。


あの子だろうか。あの茶髪の子。コントローラーを置いて、うつむいて、目を赤くしていた子。


「咲」。


学園祭の日に聞いた名前と、ノートの文字が、頭の中で重なりかけた。


いや。


違うかもしれない。たくさんの人が遊んでくれた。泣きそうになったのが一人とは限らない。


でも、もしあの子だったら。


もしあの泣きそうな顔が、ノートに返事を書いてくれる人の顔だったら。


綴はノートを胸に抱えた。


緑色の表紙。角が潰れた、使い込まれたノート。七ヶ月分のやりとりが詰まったノート。紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。この匂いはもう、あの人の匂いと同じだ。


——好きだ。


この人のことが。


顔も名前も知らない。声も聞いたことがない。


でも好きだ。この人の言葉が。この人の優しさが。あたしのシグナルを拾ってくれる、この人が。


認めた。


ようやく。


綴はノートを抱えたまま、スタジオの天井を見上げた。吸音材の白い表面。蛍光灯の光。


好きだ。


でもそれを、どうやって伝えればいいのか。まだわからない。


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