巫 002
火曜日、ついに決戦の新月だった。
昼休みの教室、凪冴と遥希はどちらからともなく顔を見合わせて歴研の部室へと向かう。
教室ではできるだけ普通に会話をしてきたが、妙なぎこちなさは残った。
「今日、必ずお兄さんを家に帰すから」
「うん」
「絶対、約束するから」
今日のために凪冴はできる限りのことをしてきた。神威に体を貸しては奪い返してきた。チョコレートと見ると見境のない彼のせいで何度体重増加の危機を感じたかはわからない。
全ては今日、彼のためだった。だから、その先のことはまだ考えていない。
「信じるよ」
その言葉で全て救われる気がした。
彼は凪冴以上に不安で仕方がないだろうに優しい眼差しで、真っ直ぐと強い言葉をぶつけてくる。
「ありがとう」
今日だけは全力で戦える。無敵になれる。そんな気分だった。
「水野さん、変わったね」
遥希は笑っていた。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった凪冴は動揺する。
「そう、かな……?」
「何か頼もしくなったっていうか……ちょっと別人になったみたいでドキドキするかな」
遥希の言葉は凪冴の心を更に揺るがした。どこか照れ臭そうで、急に先日の言葉を思い起こさせて、凪冴は自分の顔が赤くなっているような気がした。
だが、部屋に二人っきりでいながら、その空気をぶち壊す存在がいた。凪冴の中にいた。
『俺様のおかげだな。へへん』
神威は時折こうやって茶々を入れてくる。何度、叫びそうになったかはわからない。今も叫びそうになるのを必死に手で押さえる。
「なんて言えば良いのかわからないけど……その、頑張って」
「うん」
きっと彼は知らないのだと凪冴は思う。何気ない言葉でどれだけ自分を揺るがして、どれだけ勇気を与えてくれるのかを。
そして、凪冴は実感するのだ。やはり、どうしようもなく彼が好きなのだと。
*
放課後はいつも通り神薙機関へと向かう。まず作戦会議が行われることになっていた。凪冴にとって初めての正式な、そして大きな仕事ということになる。
会議室に集められたのは〈鬼狩り〉からは夕夜と星平、それから朝永、〈鬼追い〉からは三浦、咲間、矢野の一班の三人だ。
凪冴から見て右には〈鬼狩り〉、左には〈鬼追い〉がいる。その距離は遠く、険悪な空気が既に漂っている。
こうして会議が行われるのはそれだけ重大な事件であるということらしく、大抵は合同では行われないという。
凪冴の正面には久我、彼はホワイトボードの脇に立っている。彼が会議を取り仕切るというのも大事である証らしい。
報告はそれぞれから行われた。凪冴がトレーニングしている間、彼らは動いていたのだ。否、それは凪冴が入る前からのことだった。
〈鬼追い〉は彼の潜伏場所と動向、そして感染させられた者がいないかを探していた。だから、凪冴の前に現れた。
〈鬼狩り〉は〈鬼憑き〉となった者を追い続けてきた。そして、狩ってきた。
「我々〈鬼追い〉一班は桜井永希を追い続けてきたが、その居場所は特定できていない。わかっていることは一つ」
久我に促されて三浦は報告を始める。
「水野凪冴、お前の前に現れるということだ。理由はわからないが、時がくれば必ず現れる。〈鬼〉と成り果て、お前を食らうだろう」
重々しい言葉に凪冴は膝の上で拳をぎゅっと握り締める。
「力が満ちるにはまだ時間があるが、なるべく早く見付けることだ」
久我は言うが、簡単なことでないのはわかる。〈天眼〉を持つという三浦が永希を捕捉できていないということは問題なのだとぼんやり理解している。
「でも、君は彼の〈鬼〉の断片を持っている。感じ取れる」
凪冴の中の〈鬼〉は神威だけではない。凪冴の中の居候となった彼が言うにはその〈鬼〉の力は〈鬼狩り〉向きではないらしい。
感知を司り、戦闘向きではないが、相性は悪くないと神威は笑う。けれど、詳しいことは教えてくれなかった。
「一度、永希さんは私の近くに現れました。朝永さんだって……」
凪冴はちらりと朝永を見る。あの時がチャンスだったのではないかと思うほどだ。あの時、彼は追いもしなかった。
「あの時、俺は奴の気配を捉えていなかった。お前の気配が動いたからだ」
「お前の感知は昔から壊滅的だからな」
そんな嫌みともとれることを言ったのは、矢野でもなく〈双子悪魔〉でもなく、三浦だった。〈天眼〉と呼ばれる力に勝るものなどないのだろう。朝永は何も言わなかった。
「水野、前に私は言っただろう? 二度目の新月を迎えればまず保たないと」
じっと見つめてくる三浦に凪冴は頷く。
「だが、たとえ〈鬼化〉しようとすぐに死ぬわけではないが、普通ならば元通りにはならない」
そう言って三浦は久我に視線を向けた。
「鬼を除去することはいつでもできるが、その方法はあまりに乱暴だと言わざるを得ない。我々の目的はあくまで鬼を取り除くことであってケアを行うことはない。障害が残ると表現せざるを得ない」
「障害……」
「〈鬼憑き〉の間の記憶が消えるのは問題ではないが、精神にダメージを与えることがある。それによって、たとえ、〈鬼〉が消えようと精神を病み、命が救われないこともある。〈鬼〉との繋がりが強くなるほどに危険性は高まる」
近年の失踪者と不審死の増加は〈鬼〉と関連し、〈鬼〉を狩るために神薙機関は存在し、その前身は千年も前に遡る。
先日、凪冴は月岡兄弟のパトロールに付き合い、〈鬼憑き〉の囮にされ、勢いで倒してしまったが、ただ斬って核となる部分を壊せばいいのではない気がしていた。
朝永にされたことも覚えている。彼は表層を削り取ったのだと久我が言った。
「人を救おうとは思わないことだ。〈鬼〉を排除することだけを考えろ。それが、ここでの教えだ。残酷だと思うかもしれないが」
久我の言葉は淡々としている。しかし、怒りや悲しみを感じるわけではなかった。彼も、彼だけではなく、ここにいる全員が苦々しいものを抱えていると気付いてしまったからだ。
『心配すんな、俺がいる。俺なら戻せる』
不意に神威の声が聞こえた。こういう時は彼が頼もしく感じるものだ。
『狸どもはさっさと見捨てちまいたいみたいだけどな』
狸と呼ばれようと久我は違うと思いたかった。尤も、凪冴は八咫の人間には会ったことがない。何の説明もなく、タブーのような気がして問うこともできなかった。表に出てこないのか、ここにいないのか、定かではない。
「今、我々が追っているのは桜井永希だけではない。そして、彼のような積極的に他人に危害を加えないタイプは捕捉が難しく、優先順位は低い」
凪冴は永希のことしか考えていないが、神薙機関の人間となるのなら、それではいけないとわかっている。
矢野が話してくれた〈鬼の子事件〉のようなものは放置しておくとまず危険なのだろうと、凪冴はぼんやりと思う。そういった場合、感染源となる〈鬼憑き〉を倒さなければならないらしい。
今回の永希は独立し、直接感染させたのは凪冴だけで、その負の感情が向かう先も不特定多数ではない。彼の、彼の〈鬼〉の目的は遥希だ。放っておけば彼ら兄弟がどうなるかわからないが、本来ならば積極的に手を出すつもりはなかっただろう。
この世に漂う〈鬼〉の多さは凪冴も自分の目で確かめた。それに対する〈鬼持ち〉の数はあまりに少なく、〈鬼〉を狩れる者はもっと限られる。凪冴も神威に選ばれなければ、〈鬼追い〉に落ちていただろうと自分でわかっているつもりだった。
「そして、君の中の神威は今日やっと使い物になるだろう。そのギリギリの時間で決着をつけなければならない」
神威が馴染むような感覚は実のところなかった。あるとすれば、凪冴自信の抵抗感が薄らいでいることぐらいだ。
「だから、今回は異例の措置をとるが、今度こういうことはまずないと思ってほしい」
凪冴もわかっている。全ては自分を取り込むためなのだと。そして、自分に思い知らせるためでしかないのだと。
久我が冷酷なのではない。これが組織というものなのだと理解するしかなかった。
永希を救うことだけは許してもらえたのだから、むしろ感謝するべきなのかもしれない。それがご機嫌取りにすぎないのだとしても。
それでも久我は他の選択肢がないはずの答えを急がなかったのだから。
ただの〈鬼持ち〉ではなく神威に選ばれたこと。幸か不幸か、明確な答えは今の凪冴には出せない。
だが、遥希を不幸にせずに済むと確信している。神威なら必ずやってくれると今は思える。
「さて、まだ時間がある。君はどうしたい?」
「少し、神威と二人っきりで話がしたいです」
神威とならばいつでも話ができる。こうしている間でも彼に語りかけ、その声を聞くことができるが、今は彼と向き合いたかった。
「私の部屋を貸そう」
久我は凪冴の意図を理解したらしかった。
久我の執務室、正確にはそこから繋がる隣の部屋で凪冴は椅子に座り、ぼんやりと白い太刀を眺めた。
何度見ても美しいと感じる。詳しいことは久我も語らなかったが、術が施されたこの部屋では彼も神威の声を聞くことができるらしい。その久我にさえ神威は使われることを拒んだ。
目を閉じれば、神威の姿が見える。
「ねぇ、神威。私がみんなを救いたいって言ったらどうする?」
神威にならできる。それを信じるからこそ、願ってしまうのだ。〈鬼〉に憑かれた全ての人を救いたいと望まずにはいられない。
『一人につき、チョコレート一枚で手を打ってやる』
うっ、と凪冴は言葉に詰まった。一日ではなく一人、二人救えば二枚、それ以上なら恐ろしいことになる。太る太らないの問題ではない。迷信だとわかっていても、鼻血が出るのではないかと思うほどだ。
凪冴は真剣に神威に取引を持ちかけるつもりだったが、彼は腹を抱えて笑い出した。
『俺がミスるとでも思ってるのか?』
「え?」
『俺がやるからには綺麗に〈鬼〉だけぶっ壊してやるよ』
凪冴は自分が勘違いしていたことに気付いた。神威だから、やろうと思えばできるのではない。彼は百パーセント、必ずできるのだ。
『まあ、下手くそだから障害が残るとかじゃねぇんだ。熟練のやつでも難しいくらいだ。力が弱くても強くてもいけない。絶妙な加減……まあ、職人芸ってものだ』
そう言われるともの凄く難しいことのように思えてくる。
『〈鬼〉には核があって、そこを綺麗にぶち壊さねぇとダメだ。〈鬼〉が残ると面倒だし、魂を傷付けてもまた面倒だ』
「私、そんなことも知らないで……」
この前、知らずに貫いていた。綺麗にやったというのが、このことだったと気付いて急に怖くなった。
「やっぱり、神威に体を貸さなきゃいけないんだね」
神威に任せて綺麗に終わるのならその方が良いのだ。より多く救われる選択をしなければならない。
ここから去る道など存在するはずもないのだから。
だが、神威の口から出たのは意外な言葉だった。
『大丈夫だ。お前には見えてる。もう本能だろ』
「えっ」
『この前の、あれはまぐれじゃねぇ。大体、お前、妙に鋭い時があるだろ』
そんなこともあるかもしれないとは凪冴も思うのだ。
集中すれば、隙がないように見えた朝永の武器替えや呼吸のタイミングさえわかった。
『やたら直感が鋭いの、あれ、お前の潜在能力とかじゃねぇ。あの〈鬼〉はそういうもんだ。だから、俺とは衝突しねぇ』
自分に能力が秘められていたなどと浮かれていたわけではない。凪冴としても気味が悪かったくらいだ。
「何で、教えてくれるの?」
『ただの気まぐれだ』
妙に神威が優しい気がした。居候でありながら、彼はチョコレートのことしか考えていないようで、元々の〈鬼〉についてはほとんど教えてくれなかったというのに。
「ありがとう、神威」
少しずつ、神威との関係は良い方向に向かっているのだろう。そう思うと凪冴の心は温かくなるのだ。
『礼は後にしろ。俺はまだ何もやってねぇ』
「うん、そうだね」
全てはこれからだ。凪冴は木刀を握り締める。本物のそれは調査のために久我に預けていたものだが、一時的に返してもらった。
既に凪冴はイメージすることで力を同じ形にすることができるし、神威がいるなら尚更だった。けれど、それに触れると落ち着くからこそ、調査のために差し出すことを渋ったくらいだった。
就寝前の瞑想用に持っておきたかったが、凪冴の物だったわけでもなく、その元々の持ち主、あるいは作り主についても調査が進められているらしい。
それに、凪冴には矢野がくれたブレスレットもある。触れてみれば穏やかな気持ちになれる。
『そろそろ、行くか。俺の方はなかなかいい状態だぜ』
「うん、行こう」
心は既に決まっている。凪冴も妙な自信が満ち溢れるのを感じていた。
『お前は、あいつの現れる場所に心当たり、あるんだろ?』
「だって、あの人は私を迎えに来るから」
意図はわからないが、その事実は変わらないはずだった。そして、今夜わかるはずだ。
桜井永希と向き合うこと、それは凪冴にとってもケジメだ。この一件が片付いてしまえば〈鬼憑き〉に特別な情を持つこともない。




