神威 004
翌日、凪冴が学校に行くと、すぐに遥希が気付いて声をかけてくる。
「水野さん」
一昨日会ったはずなのに、妙に久しぶりのような気がしていた。
そして、あと数日後にはこうして顔を合わせることも話すこともないのだと途端に悲しくなる。そして、一層彼が好きなことを実感してしまう。
好きでなくなれるものなら、そうなりたかった。もう手遅れだった。
「あのさ、今日は部活、あったよね?」
彼が色々と話したがっていることには気付いた。しかしながら、それは凪冴が望むような他愛のない話ではない。
「えっと、茶道部、退部することにしたの」
昨日、決意したことだった。どうせ、転校しなければならないのなら、早くやめておいた方がいいと思ったのだ。どうせ、部活に行く時間はもうない。
「私、行かなきゃいけないから」
「行くって、もしかして……」
「大丈夫、お兄さんは必ず助けるから」
そう言って凪冴は半ば強引に話を終わらせた。これ以上話しても答えられないことばかりだ。
ごめんね、と心の中で呟いたところで届くはずもない。
全てが終われば彼らの記憶は消える。神薙機関のことも忘れる。凪冴のことも、きっとなかったことになる。そう思うとすぐにでも泣いてしまいそうだった。
放課後になると凪冴はすぐに教室を飛び出し、学校の近くで矢野と落ち合う。彼は迎えに行くと言って聞かなかったし、学校のすぐ側まで来られると色々と困る。だから、凪冴が折れる形で待ち合わせ場所を決めていた。
「息切らして、そんなに俺に会いたかったか?」
遥希が追ってこないことはわかっていたのに、凪冴はずっと早足でここまで来ていた。しかし、矢野に茶化されるようなことではない。
「冗談だ。ケジメつけたみたいな顔してるな」
はい、と頷いて凪冴は矢野の車に乗り込む。もう助手席に座ることに抵抗はなかった。
「本当に難儀なもんだな。神威に気に入られて、〈双子悪魔〉のターゲットにされて、俺なんかに惚れられちまって」
他人事とは言っても、矢野は本当に同情してくれているようだった。しかし、聞き捨てならないことをさらりと言った気がする。
「それ、冗談ですよね?」
「ん?」
「最後の」
「あー、俺、なんつったっけ?」
とぼけられて凪冴はガックリと肩を落とした。矢野とはこういう男だったのだ。からかって楽しんでいるのだから真面目に取り合うだけ無駄というものである。
「好きだぜ、ナギ」
「えっ……」
あまりにもさらりと言われて凪冴は聞き間違いかと自分の耳を疑った。好きと一言にしても、恋愛感情によるものとも限らない。
「好きだ」
もう一度、今度ははっきりと言われて凪冴は顔が赤くなるのを感じる。
「一目惚れした、っつっても、どうせ、お前はまた信じねぇだろうし? 女子高生なら誰でもいいと思われるのもヤだしな」
矢野の横顔も心なしか赤らんでいるようだった。
「お前が誰を好きか、わかってる。今すぐに、その恋心を捨てろとは言わねぇ。無理だろ。俺だって、無理だ」
凪冴は言葉に困って俯いた。肯定も否定も出来ない。彼は見透かしているのだから。
「お前は絶対傷付くことになる」
「全部、終わったら、桜井君も清水君も記憶を消されて、私も転校しなきゃいけないんですよね」
「聞かされたか」
なりゆきで朝永は言ったのだろうが、久我はきっとその時まで教えてくれなかっただろうと凪冴は思う。
「矢野さんが言ってたこと、わかりました。そういうお別れなんですよね」
頼るべきは矢野なのだと凪冴は思うようになっていた。彼が一番有益な情報をくれる。
「俺なら一緒にいられる。こんな力じゃあ、お前を守れるなんて言えねぇが、側にはいてやれる。それだけ、覚えておいてくれ」
その想いが本当だったとして、今凪冴が応えることはできない。
「……いや、忘れてくれて構わねぇ。俺、お前にとって都合のいい男でいい。どうしようもなくなったら、利用してくれていいから」
この先、叶わない恋を捨てて、彼を好きになるのかはわからない。
「どうして、そんなに優しいんですか?」
優しさに苦しむことがあるなどとは思いもしなかった。遥希も矢野も優しすぎる。朝永もまた厳しいようでありながら彼なりの優しさを持っている。
「別に、優しくねぇんじゃねぇの? 下に心があるからな」
矢野は笑っている。そういうことをはっきり言えてしまうのが彼の強みなのかもしれない。
「見返りなんていらねぇから、お前を好きでいてもいいっていう自由がほしいんだ」
「でも、下心があるんですよね?」
彼は隠しもしないだろう。見守っていてくれるというタイプではない。何かとちょっかいをかけてくるだろう。
「脳内でナニしようと俺の自由だぜ」
「……最低」
うんざりと凪冴が呟けば矢野が声を立てて笑った。
あの顰めっ面がいけない。そうやって笑っていればいいのに、と凪冴は思わずにはいられなかった。そうして笑う彼は子供のようでもあった。
凪冴は矢野の指導でとにかく鍛錬に打ち込んだ。体の痛みなど忘れた。
焦る気持ちもあるが、十日で神威を従えるには無理があるのはわかっている。
瞑想から始まり、木刀を使って戦い方を学ぶ。
矢野は今は〈鬼追い〉で、〈鬼〉と戦うことがなくなったとは言っても、元々は〈鬼狩り〉残留を目指していただけあって、主に〈鬼〉を自らの武器として具現化させる彼らの戦い方も心得ていた。諦めたとは言っても、こういう時のためか、鈍っているようには感じられなかった。
凪冴の中には二つの〈鬼〉がいる。一つ目は永希に植え付けられたもの、もう一つは神威。まずは最初の〈鬼〉を使いこなすことから始めなければならなかった。
矢野によれば征服はほとんど成功しているとのことだった。後は、〈鬼〉と向き合い、力を知ることだった。
木刀さえあれば周囲の〈鬼〉を探ることはできる。しかし、なくてもぼんやりと把握することはできる。そこから更に修練を積めばもっと自由に視野を狭めたり広げたりできるのだと矢野は言う。
そして、彼に言わせれば凪冴は飲み込みが早いのだと言う。その気にさせるためのお世辞なのかもしれなかったが、凪冴は良い方に受け止めておくことにした。
その晩の夢には神威が現れた。
もう狐の面は付けていないが、髪は白く、口の悪さがなければそれなりの美少年だと言える。
「無駄な努力はやめとけよ。お前は俺様が使ってやる」
やはり、彼はどうしようもなく、生意気だった。
「そんなの嫌よ」
「何の不満があるって言うんだ」
「不満しかないわよ。私の体で暴言吐くし、筋肉痛だし」
「鍛え足りねぇのを俺のせいにすんな」
イラッとして凪冴は拳を握り締める。その手の中であの木刀が形作られていく。
イメージするのだと矢野は言った。自分にとって一番使いやすい武器を、自分の力を形にする。それが朝永にとって日本刀なのかと問えば、彼はなぜか妙な顔をしていたが、凪冴は彼の力しか見たことがなかった。
けれど、凪冴が日本刀にしようとしたところでイメージが定まらない。あの太刀にしてもそうだっただから敢えて実体のあるこの木刀を選んだ。
そして、現実ではまだうまくできないことが、夢の中では可能だった。
「そのへっぽこじゃあ、もうあいつは止められねぇ。何せ、親だぜ? 二度目の新月が近付いて、〈鬼化〉してる。もう自我が残ってるのやら」
凪冴は神威を睨む。彼が言うことは事実だろうが、彼に体を乗っ取らせるのは違う。
「倒すことはできても無傷はいられねぇ。相当の損傷がある。うまく切り離せなければ、抜け殻になる」
神威は自分ならうまくできると言っているつもりなのだろう。凪冴が彼を使ってもうまくいくというものでもないのかもしれない。
「まあ、俺様のために体を鍛える努力は認めてやる。せいぜい励めよ」
「君のためじゃない」
重要な局面では彼に体を受け渡すことも必要なのかもしれないが、今はそれに値する信頼関係もない。鍛えるのは自分が強くなるためだ。神威がいなくとも、凪冴の中には他の〈鬼〉がいる。
「じゃあ、ちょっとだけ待ってやるよ」
「え?」
「五日後、お前と戦ってやる。もし、お前が俺を屈服させることができたら、お前に使われてやる」
思いがけない提案だった。
「できなきゃ、今後その体は俺様が使ってやるってことだが、どうする?」
現時点で凪冴に勝てる見込みはない。それを神威もわかっていた。わかっていて言っているのだ。そうして、凪冴を諦めさせるために。
「やる。絶対に君を屈服させる」
凪冴はじっと神威を見据えた。無理だなどと言うつもりはない。やるしかない。
「いい度胸だ。だが、俺のことは神威様と呼べ」
ニッと神威が笑う。その瞬間凪冴の中で何かが切れた。ポカッと木刀で彼の頭を叩く。手応えはあった。
「いってぇ!」
神威は頭を押さえてしゃがみ込む。本当に痛かったのか、涙目だ。
「居候のくせに偉そうにしないで!」
そして、凪冴は自分の夢から逃げ出した。
*
火曜日、凪冴は木刀を手に登校する。元々入っていた袋に入れて持ち運ぶことにした。いつ、何が起こるかもわからない。周りには習い事を始めたと言うつもりだった。どうせ、さようならをしなければならないのだから。
案の定、雰囲気が変わったなどと言われたが、納得できるものだったようだ。習い始めた理由も近頃物騒だからと言えば追及されないものだった。
昼休み、凪冴は歴研の部室に籠もっていた。ここにはまだ何か秘密があると考えていた。何か他にも資料が隠されていないか、手帳と木刀の持ち主のヒントがないかと片っ端から手に取る。
三つ目の扉があるのではないかとさえ思っている。だが、時間は限られており、全く関係ないような資料も多々ある。
そうして、放課後はすぐに神薙機関へと急ぎ、矢野に戦い方を教わる。
今日も瞑想から始めるつもりだっただろうが、凪冴はどうしても矢野に言っておきたいことがあった。
「矢野さん、私、土曜日に神威と戦うことになりました」
「あ?」
矢野の顔が一気に引き攣った。
「乗っ取り拒否したら、そんなことに……負けると神威に容赦なく体を使われます」
説明してみるものの、矢野の表情が険しくなるばかりだ。
「ナギ、長い神薙機関の歴史の中で、神威を完璧に使いこなしたのなんて、最初の巫を除けば少ないらしいぜ? お前が嫌がる乗っ取りだってうまくいかないケースが増えたくらいだ」
そんな確率的に低いことを、たった五日の特訓でどうにかなると凪冴も楽観的に考えているわけではない。
「私、我が儘ですか? 贅沢でしょうか?」
「いいや、俺は、ナギらしくていいと思うぜ? さすが、俺が惚れた女だ」
矢野は余計なことを言ったが、凪冴は聞かなかったことにした。
「屈服させられるかどうかなんてわかりません。でも、大人しくただの器に成り下がるつもりはありません。できる限りの努力をして、神威と向き合いたいんです」
選ばれたからと、それに甘んじて驕るつもりはない。
「俺は喜んで協力するぜ?」
「ありがとうございます! やっぱり、矢野さんはいい人ですね」
「下心はあるが、無理強いはしねぇからな」
彼は呼吸と同じように言うくせに距離は保っているようである。
「あ、そうそう。お前にプレゼントを用意したんだ」
矢野が差し出してきたのは小さなピンクのポーチだった。
「開けていいですか?」
もちろん、と矢野は笑う。
「可愛い!」
中から出てきたのはブレスレットだった。
グリーン、ブルー、パープルのハート型のビーズが繋げられたデザインだ。
「これ、フローライトですよね?」
「詳しいのか?」
「前に、ちょっと興味があって調べた時に綺麗だな、って思ってて」
はめて見ると、サイズも丁度良く、天然石のひんやりとした感触が心地良い。
「サブローがこういうの好きらしくてな。効果があるとかないとか……喜んでくれて何よりだ」
凪冴は石言葉を思い出すことができなかった。彼が何を考えてこのブレスレットを贈ってくれたのかわからない。
「まあ、勢いで『ユウ、大好き!』って抱き付いてくれると、俺は天に昇るが」
「矢野さんのことは許してますよ。こうやって協力もしてくれるわけですし。ただ、その、恥ずかしくて……」
何と呼ぶように言われた忘れたわけではないが、どうにも気恥ずかしい。
「雄助さん、でもいいんだぜ?」
「だって、呼びにくいです」
「じゃあ、ユウさん、でもいいだろ」
どうにも矢野さんというのが呼びやすいのだ。
「ど、努力はしてみますけど……期待しないでくださいね?」
「可愛いぞ、ナギ。敬語じゃなかったら、もっと……ぐはっ!」
凪冴は思わず、木刀で矢野を突いていた。もちろん軽くである。しかし、実体のある木刀はそれなりのダメージを矢野にもたらしたようだ。当たり所が悪かったのかもしれない。
「今日も指導お願いしますね、矢野先輩」
「それも貴重でいいな、もっと言って……げふっ!」
このままでは、この大きな少年の意識はどこまでも旅立って戻らないと凪冴は判断した。
「さあ、矢野さん。今日も瞑想からですか?」
「戻った……」
矢野はガックリと項垂れたが、凪冴がまた木刀を構えると背筋を正した。
〈鬼〉を感知する力は大分コントロールできるようになっていた。木刀もイメージ通り出し、少しずつ持続できるようになっている。
最終目標としてはあの太刀を出すことになるのかもしれない。頼めば久我は見せてくれるかもしれないが、今は木刀で慣れておくことの方が良いように思えた。
全ては神威を倒し、屈服させるため。そう思うと頑張れた。そして、何より、矢野がくれたブレスレットが集中力を与えてくれる気がした。




