神威 002
朝永に連れて行かれたのは広い部屋だった。トレーニングルームの一つ、特殊な部屋だと彼は言った。
何が特別なのか、凪冴にはまるでわからない。キョロキョロしていると、ぐるりと世界が回転して、全身に衝撃が走った。
見上げれば朝永、床に体を打ち付けたのだと気付く。そして、違和感のある箇所がある。
その根源を探して気付いた。また何の宣言も断りもなく、左胸に刀が突き立てられている。昨日と同じ、けれど、あの時はまだ慈悲の心があったと凪冴は思う。
突き刺すような視線を感じるのは気のせいではないだろう。それは憎悪に似ている。
「とも、なが、さん……?」
彼は何も言ってくれないからわからない。
「どうして、ですか?」
問うのも恐怖だった。実際に刀で貫かれているわけではないとは言っても、確実に彼は何かを斬っている気がした。
「征服しろ」
ようやく口を開いてくれたかと思えば、わけがわからない。彼が親切でないことはわかっていたつもりだったが、それにしてもひどい。
「屈服させて、お前のものとしろ」
何を言われているかわからないのに貫かれた胸が熱い。焼かれるような熱さに咄嗟に刀身を掴む。溺れる者が藁をも掴むように、何かに縋りたかった。
それは彼の力であり、触れて握り締めても手が痛むことはない。胸と同じく熱さを感じる。熱せられた鉄を掴んでいるようでもあったのかもしれない。
何をどうしたらいいか、わからない。焼け爛れそうなほど、痛みさえ手に胸に感じる。寝ていることさえ辛い。
「朝永さん……!」
彼を見上げても何の答えも返ってこない。ただ、射るように、凪冴を見下ろして、深く刀を突き立ててくる。
自分の中で何かが爆発しそうなのを凪冴も感じる。
「いやっ……」
抜いて欲しい。彼を突き放そうとするのに、できない。
暴れている。彼に刺された部分でジタバタと何かが抜け出そうとしている。
解放しろ、と声が聞こえる気がする。けれど、凪冴は刀を持つ手を離そうとはしなかった。そうしてはいけない気がした。矢野に追われた時、あの木刀を手にし、火傷しそうだと感じながらも持ち続けなければならない気がしていたように。
荒れ狂うのは自分の中の〈鬼〉なのだろうか、凪冴は目を閉じる。そうすれば、見える気がした。
真っ黒な何かがいる。それは凪冴にさえ襲いかかってこようとする。心を強く持たなければならない、凪冴は直感する。
これを抑え込まなければならないのだと意識の中で手を伸ばす。
恐れれば、やられる。入り込まれたらダメだと思うからこそ心を鎧で武装する。
強いプラスの感情には勝てないのか、気を確かに持って近付くほどに弱まるのを感じる。
それを自分の中に取り込むように抱き締めた。〈鬼〉は凪冴の中に入り込んで、暴れようとはしなかった。
――リン
鈴の音が聞こえた。
「上出来だ」
声に顔を上げれば、あの少年が立っていた。二度目と同じ狩衣姿で、髪は白く、相変わらず狐の面を付けている。
「神威……?」
「神威様と呼べ、って言っただろ」
「なんか、嫌」
ムカッとして、凪冴は言った。何で、こんなわけのわからない少年を様付けで呼ばなければならないのか。
「まあ、いい。お前、名前は?」
自分は様付けで呼べなどと強要し、仮面を外しもしないのに、横柄に名前を聞いてくる。
「水野凪冴」
「ふーん、凪冴な。凪冴かぁ。凪冴凪冴」
何がおもしろいのか、神威は反芻する。
「君は私に力を貸してくれるの?」
彼は神薙機関の象徴、最強の力なのだろう。どう見ても変な子供であるし、強いようには思えない。
だが、彼は凪冴を選んだらしい。永希を戻すため、力となってくれるはずだ。
「いいや? 俺がお前を使ってやるんだ、人間」
そうして、彼は狐の面を外し、ニッと笑んだ。顔を確かめる間もなく、凪冴の意識は沈んだ。
朝永は華奢な凪冴の体に跨り、非情に胸に刀を突き立てたまま、見下ろしていた。
その刀に実体はない。いくら彼女を斬ったところで血が流れることもない。彼女を傷付けることが目的なのではない。
己の力で、彼女の内に潜む〈鬼〉を呼び覚ますというだけだ。だから、ある意味では自分より一回り以上年下の少女を組み敷いているこの状況に何の感慨もない。
たとえ、目を閉じている彼女を凝視したところで、これは仕事でしかない。
不意にカッと彼女の目が開き、朝永が不穏なものを感じた時にはもう遅かった。
小枝を折るように容易く、刀が折られた。そして、動揺をした瞬間に少女の細い足に思いっきり蹴り上げられていた。
「いつまで、乗ってやがんだ、この変態野郎!」
小さな口から吐き出される暴言はとても彼女の物とは思えない。否、理由はわかっていた。目の前にいるのが誰なのか。
その対面を待ち望んでいたが、こんな形を望んでいたわけではない。
「……神威か?」
「ああ、そうだよ」
あっさりと肯定されて、朝永は絶望的な気分だった。立ち上がり、ポンポンと服を払う姿は凪冴でしかないが、中身はまるで違う者だ。
呼んだのは自分自身だ。尤も、狙いは別だったのだが。
「おい、ぼけっとしてんじゃねぇよ!」
彼女の顔で、声であまりに乱暴な言葉が放たれるのには眉根を寄せずにはいられない。これが自分だったら、と思うと微妙な気分になるが、思慮していられる状況ではない。
ひやりとしたものを感じている。
「こいつの具合を試したいんだよ。相手しろよ、なぁ?」
絶対に彼女がしないだろう邪悪な表情でそれは言った。朝永の喉元にはいつの間にか、あの白い太刀が突き付けられている。けれど、それも実体でないことはわかっていた。
朝永も刀を構え直す。折られた刀は元に戻っている。
「……本望だ」
呟いて、朝永は刀を振るった。それを彼女は軽々と避けて見せた。否、彼と呼ぶべきなのか。だが、今は水野凪冴でありながら神威だ。彼の方が表層に出てきている。
そして、今度は神威が刀を振るい、朝永は受け止める。力と力の衝突だった。緩めれば、また折られるだろう。あの時は素手だった。
「やるな、お前」
ニィッと神威が笑った。ギリギリと込められる力を感じる。
「当然だ」
朝永は押し返す。朝永にとって二度はないと思われる好機だった。自信があるのだ。彼女よりも自分の方が優秀であるということを示せる。
「ったく、何なんだ。この油差し忘れたみたいな体は!」
距離をとった神威は文句を言っている。尤も、凪冴の体であり、彼女は朝永から見ても運動が得意そうには見えない。むしろ、どう見ても鈍くさい。
「その女はやめておけ」
朝永は容赦なく、畳みかけた。全ての攻撃を神威は受け止める。少しずつ動きは良くなっているが、その体の潜在能力以上のことはできないだろう。パワーで自分を勝ることはないという確信が朝永にはあった。
「なぁ、お前も俺が欲しいのか?」
ガキンと刀を合わせ、神威が問いかけてくる。
「ああ、そうだ」
「うっわ、即答するなよ! 俺は野郎に使われるのだけは絶対嫌なんだ!」
一瞬、重たい一撃が朝永を後退させた。
唐突に朝永は理解した。久我が神威を宿す者がいないと頭を抱えた理由が。あまりに長い時を生きた〈鬼〉は煩悩の塊にも思えた。
「俺は女が好きだーっ!! 故に、俺を使うのは女しか認めん!!」
魂の叫びが乗った素早い一撃は間一髪のところまで迫ったが、朝永としても準備運動は済み、ここからが自分の真骨頂というところである。
さて、今から仕掛けようというその時だった。
「いい加減にしなさいっ!!」
神威の動きは止まっていた。叫んだのは凪冴だった。どうやら、体を乗っ取られていた凪冴が戻ってきてしまったようだ。
「お前……」
「急に意識が沈んで、気付いたら、神威が私になってたみたいで、呼びかけても全然聞く耳持たないし、変なこと言い出すし……」
俯く凪冴の頬は赤らみ、その手に握られていたはずの太刀はもうない。
「戻れ」
朝永は凪冴の首筋に刀を突き付けた。彼女が戸惑う顔をしようとどうでも良かった。
「さっさと神威に戻れ。勝負は終わってない」
「い、嫌です!」
朝永は舌打ちをして、彼女の体を引き倒し、ひたりと刃を首筋に当てる。彼女の気の強さが疎ましくて仕方なかった。
「やっほー、ナギー」
「ナギちゃん、元気?」
悪魔は不意に現れた。冷やかしにきたのか、無遠慮に入り込んできた。しかし、ぴたりと足を止め、顔を見合わせる。今し方状況を理解したようだ。
「おいおい、何してくれちゃってんだ? 朝永サン」
「うちのナギちゃん襲うとか、ふざけないでくださいよ、朝永サン」
〈双子悪魔〉と呼ばれる月岡兄弟、その兄夕夜はポキポキと指を鳴らし、弟星平は笑っているが、どちらも明らかに怒っている。
「あ、あの、これはトレーニングで……」
凪冴は必死に状況を説明しようとするが、無駄だった。むしろ、それは火に油を注ぐ行為でしかなかった。
「トレーニング、なぁ?」
「へぇ? そういう体面で合法的に襲おうってことですか、朝永サン」
何やらどす黒いオーラを全開に〈双子悪魔〉は近付いてくる。朝永が怯むことはない。しかし、その体は吹き飛ばされていた。
「お前は一軍なんだ。俺らが面倒見てやる!」
「そうそう俺達が手取り足取り教えてあげるよ? 優しく、基礎からね」
双子は凪冴に歩み寄ると両側から支えて立たせる。いつもの悪い癖だと朝永は思っていた。
今の彼らは手ぶらだが、何をされたかはわかっている。お互いの手の内は知り尽くしている。
「悠長なことを言っている場合じゃない。十日しか猶予はない。わかっているのか?」
朝永は立ち上がる。尤もらしいことを言いながら、馬鹿馬鹿しいとも思っている。
「神威を表に出せば、お前が戦う必要はない」
白々しいことを言っているのは朝永自身もわかっていた。
「そんなの嫌です! 自分じゃなくなるなんて嫌なんです!」
凪冴は首を横に振る。神威が自分の体を乗っ取って、朝永と戦っている間、凪冴はずっと声を上げていた。彼を見て、そのやりとりを聞いていた。朝永の思惑など知りもしなかった。ただ、自分の体を返せと叫んでいた。
「私、ちゃんと鍛えます。神威を抑え込んで使えるようになりますから、だから、私を、神威としてではなく、私を指導してください!」
凪冴は頭を下げた。
神威は使ってやると言ったが、凪冴もわかっている。今の自分に力がないからなのだと。そして、力を付けるためには朝永の協力が必要不可欠なのだと。
「やめとけよ、こいつに頭なんか下げんな。お前のことなんか何にも考えねぇやつだ」
夕夜は凪冴の顔を上げさせる。そして、星平はその顔を覗き込むようにする。
「ねぇ、ナギちゃん。君の所属は?」
「〈鬼狩り〉の一軍と言われました」
軍という単位がどうにも凪冴にはしっくりこなかった。だが、とりあえず、自分が一軍の配属らしいということだけは何とか覚えていた。
「そう、俺らと同じ一軍。まだ班は決まってねぇけど、直に決まるだろうよ。俺ら二班が面倒見てやってもいいし」
「朝永サンはね、二軍。一軍から落ちたんだよ。それでも、戦力外通告されなかったのが奇跡。そこは賞賛に値するけどね」
夕夜も星平も朝永を見下している。一軍と二軍の違い、その差がどれほどのものか凪冴にはわからない。
「俺は命じられただけだ」
「俺らも命じられたぜ? 朝永サンが不適切だったら代われってな。一軍だった頃とは違うんだぜ?」
「そうそう、いつまでも精鋭気分じゃあ困るんですよね。今はもうあなたの時代じゃない」
凪冴は三人を順に見ることしかできない。けれど、不意に彼らの目が自分に注がれていることに気付いた。
「どうする? ナギちゃん。朝永サンは神威しか目に入らない。でも、俺達はちゃんと君を指導してあげるよ?」
「だから、お前が決めろ。誰に指導されたい?」
「決めろ。俺の時間を無駄にするな」
皆、勝手なことを言っていると凪冴は思う。どうして、こうなってしまうのか。
「私は……」
どうしたらいいのだろう。平和な選択をしたいと思うものの、ありえないのだとどこかで感じている。
早くしろ、と皆が急かしているような気がしていた。答えを出そうと口をパクパクとして、そこで凪冴の意識は途絶えた。全身にひどい痛みが走った気がした。




