第9回 守り刀と名刺と領収書の行方
一ノ瀬鍛刀所の母屋の座敷に、保科が来たのは、雨上がりの午後だった。
その後ろに、見知らぬ青年が立っていた。いや、知っている。何度も画面越しに見た顔だった。
レン。兄の刀を持っていた人。
灯は思わず立ち上がりかけ、父の低い声に止められた。
「座れ、灯」
父と母と、灯。保科と、青年。五人が向かい合って座ると、八畳の座敷はひどく狭く感じられた。
保科は畳に手をつき、深く頭を下げた。
「陽介さんのご遺体を、第十六層で確認いたしました」
母が、小さく息を呑んだ。
父は動かなかった。膝の上で握った拳だけが、白くなっていた。
灯は、自分が何を感じているのかわからなかった。悲しいのか。悔しいのか。わかっていた、という気持ちもあった。四年間、心のどこかで、ずっとわかっていた。
保科は、淡々と話した。
四年前の秋、兄は届け出の通りに第十六層へ潜り、目的の素材を手に入れていたこと。その帰りに、崩落に巻き込まれた新人三人を見つけ、立入禁止の区画へ助けに入ったこと。三人を逃がし、自分は崩れた岩の向こうに残ったこと。
「その三人のうちの一人が、彼です」
保科が、隣の青年を示した。
青年は畳に額をこすりつけるように、頭を下げた。
「久我蓮です。……俺たちのせいで、陽介さんは死にました。本当に、申し訳ありませんでした」
声が震えていた。
「俺たちが勝手に禁止区画に入ったんです。陽介さんは、助けに来てくれただけでした。それなのに、俺は四年間、誰にも言わずに……」
蓮は顔を上げないまま、傍らの包みを両手で差し出した。
布をほどくと、黒漆の柄が現れた。
柄頭の、灯籠の透かし彫り。
灯は、手を伸ばすことができなかった。
「陽介さんに、最後に頼まれました。妹に渡してくれって」
蓮が、ようやく顔を上げた。その目が、まっすぐに灯を見た。
「妹の名前は、あか――って。そこで、崩れて。……だから、ずっと、わからなかったんです」
あか。
兄が、最後に呼ぼうとした名前。
灯は、震える手で守り刀を受け取った。
思っていたよりも、ずっと軽かった。四年間、毎日のように誰かの腰にあった刀は、柄の黒漆が少しだけ擦れて、鈍い艶を帯びていた。
ちゃんと、使われていたのだ、と灯は思った。
兄の刀は、誰かを守り続けていた。
「……一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」
保科が、静かに口を開いた。
「現場の状況から見て、陽介さんは最後の崩落で即死だったと思われます。苦しまれた時間は、おそらくありません」
保科は、それから蓮のほうへ視線を向けた。
「そして、誰がいつ通報していたとしても、救助は間に合いませんでした。これは、救助員としての私の判断です」
蓮の肩が、大きく揺れた。
堰を切ったように、嗚咽が漏れた。四年分の何かが、崩れていくような泣き方だった。
父が、ゆっくりと口を開いた。
「……顔を上げなさい」
低く、かすれた声だった。
「あいつは、そういう奴だった。目の前で困ってる奴を、放っておけん。鍛冶屋の跡取りのくせに、刀より人の心配ばかりしとった」
父は、蓮の背中を見つめていた。
「あいつが命を張って助けた命だ。あんたが粗末にしたら、あいつが浮かばれん」
蓮は、何度も、何度も頷いた。
保科が、もう一つの包みを取り出した。
「こちらも、陽介さんの背嚢に入っていたものです」
青く透き通った鉱石だった。
父の目が、わずかに見開かれた。
「蒼鉄か」
「守り刀の仕上げに使うはずだったものだと伺っています。本来は回収隊を通してお返しするものですが、先にお持ちしました」
父は蒼鉄を手に取り、しばらく光にかざしていた。
それから、それを灯の前に置いた。
「灯。お前がやれ」
「え……」
「あいつがやり残した仕事だ。仕上げるのは、お前しかおらん」
灯は、蒼鉄と守り刀を見比べた。
胸の奥から、何かがせり上がってきた。それが涙だと気づいたときには、もう止められなかった。
灯は守り刀を胸に抱いて、声を殺して泣いた。
◇
それから、二週間が過ぎた。
本郷橋の商店街の外れ、古い雑居ビルの二階。すりガラスのドアの前で、灯は大きく深呼吸をした。
手には、あの日もらった名刺が握られている。少し端が擦り切れていた。
ノックすると、「はーい」と明るい声がして、ドアが開いた。
出てきたのは、灯と同い年くらいの女の子だった。首から社員証を下げている。
灯は、一瞬固まった。
この人、誰。保科さんの、何。
「あっ、一ノ瀬さん! どうぞどうぞ」
女の子は、なぜか全部わかったような顔でにんまりと笑い、灯を中へ招き入れた。
窓際の机で、保科が書類に向かっていた。
「保科さん、お客様ですよ」
保科が顔を上げる。
あの日と同じ、穏やかで、静かな目だった。
「一ノ瀬さん。先日はどうも」
灯は、名刺を握りしめた手を、ぎゅっと胸に当てた。
「あの……今日は、加入の手続きに来ました。それと、新人講習の申し込みも」
一瞬の間があった。
保科の顔に、ぱっと光が差した。
「ありがとうございます」
それは、灯が初めて見る、保科の心からの笑顔だった。
――営業成績的な意味で。
灯の背後で、さっきの女の子が、深いため息をつくのが聞こえた。
「それでは、こちらの申込書にご記入を。講習は来週の火曜からになります」
「あの、講習の担当って……」
「私です」
灯は、自分の頬が熱くなっていくのを感じた。
保科は、それに気づく様子もなく、申込書の記入欄を指さしていた。
「ダンジョンの中は冷えますから、講習の日は暖かい格好でお越しください」
灯がペンを走らせる。名前、住所、探索者免許の番号。
最後の欄に署名を書き終えて顔を上げると、保科は申込書を受け取り、それをじっと見つめていた。
何か、感慨にふけっているような顔だった。
灯の胸が、また小さく跳ねた。
「……これで、閃光玉が経費で通りますね」
ぼそりと、保科が呟いた。
「え?」
「いえ。非加入者の救助でも、加入につながれば実績になりますので。社長も文句は言えないはずです」
保科は、心なしか満足げに頷いた。
「八千円が、ようやく報われました」
灯の背後で、さっきの女の子が額に手を当てた。
「保科さん……」
心底呆れたような声だった。
「今それ、言います?」




