第1回 計理人の帰還
その日の本郷橋ダンジョン生命は、一本の電話から始まった。
「はい、本郷橋ダンジョン生命です。……はい、帰還予定を三時間超過、第九層。届け出の番号をお願いします」
まなみは受話器を肩に挟み、メモを取りながら、窓際の席に目をやった。
保科はもう立ち上がっていた。両手首に鎖の革帯を巻きつけ、救助用の背嚢を担ぐ。その間、一度もこちらに確認を求めなかった。話の断片だけで、全部わかっているらしい。
「第九層、三名、届け出番号は――」
「聞こえました。行ってきます」
ドアが閉まる。
まなみが受話器を置くと、すぐにまた次の電話が鳴った。
今月に入って、これで何件目だろう。入社したばかりの頃は、救助要請なんて週に一、二件だったはずだ。
「おい小野寺、保科はまた出たのか」
社長室から顔を出した剛三が、苦々しげに言った。
「はい、第九層に」
「閃光玉は持たせるなよ。高いんだからな」
それは無理です、とまなみは心の中で答えた。
昼過ぎ、事務所のドアが開いた。
入ってきたのは、大きなスーツケースを引いた女性だった。
すらりと背が高い。腰まである黒髪をひとつに編み、濃紺のパンツスーツを着こなしている。褐色の肌に、長い睫毛に縁取られた大きな瞳。まなみは一瞬、来客の予定を聞き漏らしたかと焦った。
「あの、ご加入のご相談でしょうか」
女性はきょとんとまなみを見て、それからふわりと笑った。
「ああ、あなたが新人さんですね。小野寺まなみさん」
「えっ、はい」
「シャルマです。シャルマ美玲。保険計理人をしています。半年ほど東京に出張していて、今日戻りました」
差し出された名刺には、確かにそう書かれていた。株式会社本郷橋ダンジョン生命、保険計理人、シャルマ美玲。
まなみは慌てて頭を下げた。そういえば、入社のときに誰かが言っていた。うちには計理人さんがいるけど、今は再保険の契約更改で東京に詰めている、と。
「よろしくお願いします。あの、ほけんけいりにん、って……」
「アクチュアリー、と言ったほうが通じるでしょうか」
シャルマはスーツケースを壁際に寄せながら、穏やかに答えた。
「保険料を計算したり、将来の支払いに備えて、どれくらいお金を積み立てておけばいいかを決めたりする仕事です。あとは、集まった保険料の運用も少し」
「保険料って、誰かが計算してたんですね……」
「誰かが計算しないと、会社が潰れてしまいますから」
シャルマはにっこり笑うと、スーツケースから紙袋を取り出した。東京の有名な洋菓子店の包装だった。
「お土産です。皆さんでどうぞ」
「わあ、ありがとうございます!」
シャルマは紙袋を手に、給湯室の脇にある棚へ向かった。来客用のお菓子を置いてある棚だ。
その扉を開けた瞬間、彼女の動きが止まった。
棚は、空っぽだった。
「……小野寺さん」
「はい」
「ここにあったお菓子は」
「あ、それは、先月から社長が、経費削減だって……」
シャルマはゆっくりと振り返り、社長室のドアを見つめた。
笑顔のままだった。けれど、まなみは背筋が寒くなるのを感じた。
「社長」
ノックもせずにドアを開ける。剛三の「なんだ、戻ったのか」という声が、すぐに「いや、それはだな」に変わり、やがて何も聞こえなくなった。
十分後、社長室から出てきたシャルマは、晴れやかな顔をしていた。
「来月から、お菓子代は復活です」
まなみは、この人には逆らわないでおこう、と心に決めた。
保科が戻ってきたのは、日が傾きかけた頃だった。
作業着は砂埃で白くなり、袖口が少し裂けている。けれど、表情はいつもと変わらなかった。
「三名とも無事です。一人は足首の捻挫で、病院に送りました。ビーコンを付けてくれていたので、すぐに見つかりました」
「お疲れさまです!」
まなみが声をかけるより早く、シャルマが席から顔を上げた。
「おかえりなさい、保科さん。生きてましたね」
「ただいま戻りました、シャルマさん。東京はどうでしたか」
「退屈でした。数字はきれいでしたけど、ダンジョンがないので」
保科は苦笑するでもなく頷き、自分の席に腰を下ろした。
「保科さんも、相変わらずですね」
シャルマが、保科の裂けた袖口をちらりと見た。
「あまり無茶をしないでください。保科さんが死んだら、うちの加入者の死亡率は三割上がります。保科さんにこそ、保険をかけておきたいくらいです」
「当社の保険には入っています」
「そういう意味じゃありません」
二人のやりとりを聞きながら、まなみは首を傾げた。
仲がいいのか悪いのか、よくわからない。けれど、少なくとも、保科にこんな口をきける人をまなみは初めて見た。
シャルマは手元の端末に目を戻した。画面には、救助要請の記録らしい表が並んでいる。出張中の分を確認しているのだろう。
その指が、ふと止まった。
「……おかしいですね」
「何がですか」
保科が聞いた。
「今年の事故件数です。件数が増えているのは、東京でも報告を見ていました。でも、増え方の分布が……」
シャルマはそこで言葉を切り、小さく首を振った。
「いえ。まだ、何か言えるほどのデータがありません。もう少し見てから、お話しします」
保科は、それ以上は聞かなかった。
まなみは、なんとなく二人の顔を見比べた。
そのとき、ドアの脇の郵便受けに、何かが落ちる音がした。
まなみが取りに行くと、厚みのある封筒が一通届いていた。差出人は、田所美代子。宛名は、保険金請求係。
「保科さん、保険金の請求書類です」
封を切り、中身を取り出す。死亡診断書の写し、管理局の事故報告書、請求書。
被保険者の欄に、名前があった。
田所 修。五十二歳。
死亡場所、本郷橋ダンジョン第一層。死因、急性心筋梗塞。
まなみがその名前を読み上げた瞬間、保科の手が止まった。
「……田所さん」
保科は、まなみの手から書類を受け取った。
何かを確かめるように、その名前をじっと見つめている。
「お知り合いですか」
「講習の常連の方です。ベテランなのに、毎年必ず受講しに来られました」
保科は、静かに書類をめくった。
「いつも、一番前の席に座っていらっしゃいました」
まなみは、その横顔から、何も読み取ることができなかった。
ただ、シャルマが自分の席から立ち上がり、保科の肩越しに、黙って書類を覗き込んでいるのが見えた。




