第2回 書類の空白
田所修の顔は、すぐに思い出せた。
日に焼けた四角い顔に、短く刈った白髪まじりの頭。講習の日には決まって開始の十五分前に現れ、一番前の席に陣取って、配った資料に赤ペンで線を引いていた。探索歴は三十年近い。講習など受けなくても、保科より深くダンジョンを知っていたはずの人だった。
なぜ毎年来るのかと一度だけ尋ねたことがある。田所は笑って、「ダンジョンは毎年変わるからな」と答えた。
保科は書類に目を落とした。
死亡診断書の写し。死因、急性心筋梗塞。
管理局の事故報告書。通報者は岩城豊。田所の長年の相棒だ。報告によれば、二人で第一層を進んでいる最中に、田所が胸を押さえて倒れた。岩城が心肺蘇生を試みたが、間に合わなかった。
探索計画の届け出。午前六時に正面ゲートから入場し、第八層まで潜る予定。同行者、岩城豊。
「あの、保科さん」
まなみが、遠慮がちに口を挟んだ。
「心臓の病気で亡くなった場合も、保険金って払われるんですか? うちの保険って、ダンジョンの事故のためのものですよね」
「いい質問です」
保科は書類を机に置いた。
「当社の保険が対象にしているのは、ダンジョン内で、探索中に亡くなった場合です。魔物、崩落、罠。そういう事故が中心です。逆に、地上で亡くなった場合は、事故でも病気でも対象外になります。自殺も対象外です」
「じゃあ、病気は……」
「ダンジョン内での病死は、対象になります」
まなみが目を瞬かせた。
「十年ほど前に、裁判がありました。第七層で探索中に心臓発作を起こして亡くなった方の遺族が、保険会社を訴えたんです。会社側は、病死はダンジョンの事故ではないと主張しました」
「どうなったんですか」
「遺族が勝ちました。地上なら救急車が来て、助かったかもしれない。ダンジョンの中だったから、助からなかった。それはダンジョンのリスクそのものだ、という判決です。業界では、第七層判決と呼ばれています」
「へえ……」
まなみは付箋に何かを書きつけた。
「じゃあ、田所さんの場合も」
「第一層での探索中の病死ですから、判決の通り、支払いの対象になります」
保科はもう一度、書類を一枚ずつ確かめた。
署名、押印、診断書の日付。管理局の受付印。請求者は妻の田所美代子。受取人の指定とも一致している。
不備はなかった。
遺族の手元に保険金が届くのは早いほうがいい。保科は書類を揃え、支払い手続き用のファイルに収めようとした。
「待ってください」
背後から、声がかかった。
振り返ると、シャルマが保科の肩越しに書類を覗き込んでいた。いつの間に席を立っていたのか、まるで気づかなかった。
「保科さん、その書類、少しお借りしてもいいですか」
「どうぞ」
シャルマは書類を受け取ると、自分の席に戻り、端末を叩き始めた。画面に、管理局のデータベースらしき画面が開く。
保科とまなみは、黙ってその背中を見守った。
キーを叩く音が、しばらく続いた。
やがて、シャルマが小さく息を吐いた。
「書類は完璧です」
彼女は画面をこちらに向けた。
「完璧なんですけど」
映し出されたのは、本郷橋ダンジョン第一層の地図だった。北の端に、正面ゲートを示す印がある。そこから南へ、第八層へ下る階段まで、一本の太いルートが引かれていた。探索者の大半が使う、いわば大通りだ。
シャルマは、地図の東の端を指さした。
大通りから大きく外れた、細い通路が入り組んだ一角に、赤い点がひとつ打たれている。
「田所さんが亡くなっていた場所です。正面ゲートから、二キロ近く離れています。第八層へ向かう人が、通る理由のない場所です」
シャルマは、次に画面の隅の表を示した。
「それから、管理局の入場記録です。届け出では、午前六時に正面ゲートから入場予定。でも、その日の正面ゲートの記録に、田所さんの名前はありません。同行者の岩城さんの名前も」
保科は、表の数字を目で追った。
確かに、どこにもない。
「ほかのゲートは」
「確認しました。本郷橋ダンジョンの入口は全部で五つありますが、どのゲートにも、二人の入場記録はありません」
シャルマは、事故報告書の一行を指でなぞった。
「通報の時刻は、午前六時十五分。仮に六時ちょうどに正面ゲートを通っていたとしても、十五分でこの場所までたどり着くのは不可能です。ベテランの足でも、四十分はかかります」
事務所が、しんと静まり返った。
まなみが、おそるおそる口を開いた。
「えっと……それって、どういうことですか?」
シャルマは地図の赤い点を見つめたまま、答えた。
「わかりません。わからないから、おかしいんです」
彼女はゆっくりと顔を上げ、保科を見た。
「田所さんは、どこからダンジョンに入ったんでしょう」




