第3回 遺された家
「入場記録がない?」
社長室から出てきた剛三は、シャルマの画面を覗き込むなり、目の色を変えた。
「保険金はいくらだ」
「三千万円です」
まなみが答えると、剛三は太い指で机をとんと叩いた。
「支払いは保留だ。記録に穴のある請求に、三千万も払えるか。保科、調べてこい」
「わかりました」
保科は短く答えた。
剛三が意外そうな顔をした。いつもなら、ここで仕事が詰まっているとひと言返ってくるはずだった。
「……やけに素直だな」
「記録に空白がある以上、確かめないまま支払うことはできません」
保科は書類をファイルに戻した。
田所の顔が、また脳裏をよぎった。一番前の席で、赤ペンを握っていた横顔。
知っている人だからこそ、曖昧なまま判を押すわけにはいかなかった。
田所の家は、商店街から少し離れた、古い木造の平屋だった。
玄関先の鉢植えは手入れが行き届いていたが、雨樋の一部が外れかけたまま放ってある。直す人間がいなくなった家の顔をしていた。
呼び鈴を押すと、しばらくして、痩せた女性が戸を開けた。
「本郷橋ダンジョン生命の保科です。このたびは、ご愁傷さまでございました」
「ああ……保険の。わざわざ、すみません」
田所美代子は、六畳の居間に保科を通した。
部屋の隅に、真新しい白木の祭壇が置かれていた。遺影の中の田所は、講習のときと同じように、日に焼けた顔で笑っていた。
保科は線香を上げ、手を合わせた。
「主人から、保科さんのお名前は何度も聞いていました」
美代子が、湯呑みを差し出しながら言った。
「講習の先生がすごいって。若いのに、ダンジョンのことを本当によく知ってるって」
「田所さんには、私のほうが教わることばかりでした」
それは本心だった。
美代子は小さく笑い、それから、少し咳き込んだ。口元を押さえる手首は、驚くほど細かった。
「すみません。私、体を悪くしていて。週に三回、病院に通っているんです」
「どうぞ、ご無理なさらず」
「主人には、苦労ばかりかけました」
美代子は、遺影に目をやった。
「治療費がかさむから、いつまでもダンジョンを辞められなくて。主人も心臓が少し悪かったんです。お医者さんからは、もう潜るのはやめたほうがいいって言われていて。いつも薬を持ち歩いていました。それから、ビーコンも。何かあったときにすぐ見つけてもらえるようにって、出かける前に必ず確かめていました」
保科は、手帳に小さく書き留めた。
心臓の持病。常備薬。
「普通の生命保険にも、入らなきゃなって、毎年言ってたんですよ。講習で、保科さんに言われるからって」
美代子の声が、少しだけ震えた。
「でも、私の治療費で、どうしても後回しになって。結局、主人が入っていたのは、御社の保険だけでした」
保科は、すぐには言葉を返せなかった。
そのとき、廊下の奥で襖が開く音がした。
制服姿の少年が、居間の入口に立っていた。高校生くらいだろうか。田所によく似た、四角い顔の輪郭をしている。
「翔太。ご挨拶しなさい」
少年は保科を見て、ぺこりと頭を下げた。それから、硬い声で言った。
「保険金、いつ出るんですか」
「翔太」
「だって、母さんの病院代、どうするんだよ。俺、学校辞めて働くって言ってるのに、母さんが聞かないから」
「翔太、やめなさい」
少年は唇を噛んで、黙り込んだ。
保科は、少年の目をまっすぐに見た。
「今、いくつか確認をさせていただいています。確認が済み次第、手続きを進めます」
「確認って、何をですか」
「ご心配をおかけしてすみません。手続き上、必要なことです」
少年はまだ何か言いたそうだったが、母親の視線に押されるように、黙って奥へ戻っていった。
美代子が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。あの子、父親っ子だったもので」
「いえ」
保科は湯呑みに口をつけ、それから、できるだけ何気ない調子で尋ねた。
「ご主人は、あの日の朝、何時ごろ家を出られましたか」
「四時半ごろだったと思います。いつも、岩城さんのお宅に寄ってから潜っていましたから」
「岩城さんのお宅に、ですか」
「ええ。昔からの相棒で。岩城さんの家で支度をして、そこから一緒に出かけるのが決まりみたいなものでした」
美代子は、遺影の隣に置かれた写真立てに目をやった。若い頃の田所と、もう一人、がっしりした体格の男が、肩を組んで笑っている。
「岩城さんには、本当に感謝しているんです」
美代子は、穏やかに言った。
「主人が倒れたとき、最後まで、必死に助けようとしてくださって。通夜でも葬儀でも、ずっと付き添ってくださいました。主人も、岩城さんと一緒だったから、寂しくなかったと思います」
保科は、写真の中の大柄な男を見つめた。
四時半に家を出て、岩城の家に寄る。
そして、どのゲートにも記録がないまま、六時十五分には、ダンジョンの第一層で倒れていた。




