第7回 最期の場所
第十六層の外れに張られたロープは、四年前と同じ場所にあった。
黄色と黒の縞は色褪せ、「崩落危険・立入禁止」の札は錆びて、文字が半分読めなくなっている。
「ここから先は、私ひとりで行きます」
保科が振り返ると、蓮は唇を噛んで頷いた。
道案内を買って出たのは蓮のほうだった。止める理由はなかった。四年前の道筋を覚えているのは彼しかいない。ただし、ロープの内側に入れるわけにはいかない。
「……本当に、許可取ったのかよ」
「取りました」
保科は作業着のポケットを叩いた。管理局の特別立入許可証。保険金支払いのための遺体確認という名目で申請し、今朝ようやく下りた。申請手数料の領収書を見たときの剛三の顔は、思い出さないことにしている。
「北の亀裂沿いに進んで、抜け道の手前で崩れた。そう言いましたね」
「ああ。……保科さん」
蓮が何か言いかけて、口をつぐんだ。
「二時間経っても戻らなければ、管理局に連絡を」
保科はロープをくぐった。
空気が変わった。
音が少ない。生き物の気配が薄い。崩落の多い区画には、魔物も長居しない。代わりに時折、天井から砂の落ちる音がぱらぱらと響く。
保科は歩きながら、天井と壁を見続けた。
亀裂の走り方。岩の継ぎ目の湿り気。足元に積もった砂の厚み。新しく崩れた場所ほど、砂は白く、角が尖っている。この区画は四年前のあとも、何度か小さく崩れているようだった。
北の亀裂に沿って、慎重に進む。
途中、天井の低い場所に出た。這わなければ通れない。保科は鎖の一本を、頭上の安定した岩盤に巻きつけて固定した。万一崩れても、これで体を引き抜ける。
這い進みながら、ふと地面に手のひらを当てた。
微かな振動があった。
規則的で、ゆっくりとした揺れ。何か大きなものが、土の中を進んでいる。
岩喰いだ。崩れた岩の匂いに寄ってくる、巨大な蚯蚓のような魔物。目はなく、地面の振動で獲物を探す。四年前、蓮たちを襲った影も、おそらくこれだろう。
保科は呼吸を浅くし、動きを止めた。
振動が、近づいてくる。
保科は這ったまま、もう一本の鎖を進行方向とは逆の、右手の岩壁へと伸ばした。鎖の先が、岩肌を一度、二度と強く叩く。
振動の向きが変わった。
土の中の気配が、鎖の打った岩壁のほうへ逸れていく。保科は三度目を叩き、さらに遠くの壁へと注意を引きつけてから、ゆっくりと鎖を巻き戻した。
倒す必要はない。倒すのは自分の役目ではない。通してもらえれば、それでいい。
振動が十分に遠ざかったのを確かめて、保科は再び這い始めた。
抜け道の手前は、大きな岩が幾重にも積み重なって、壁のようになっていた。
蓮の話の通りだ。三人が逃れた側から見て、この壁の向こうに陽介がいた。
保科は壁の周囲を回り込み、岩の積まれ方を観察した。上から順に、崩れても連鎖しない石を選び、鎖で引き抜いていく。一つ外すたびに、天井の音を聞く。
三十分ほどかけて、人ひとりが覗けるほどの隙間ができた。
ヘッドランプの光を、奥へと差し入れる。
そこに、陽介がいた。
岩の下に半ば埋もれるようにして、白く乾いた骨が横たわっていた。色褪せた探索服の切れ端。肩から外れかけた大きな背嚢。腰には、鞘に収まったままの長刀。
右腕だけが、岩の外へと伸びていた。
あの日、隙間から守り刀を差し出した腕だと、保科は思った。
しばらく、動けなかった。
それから手袋を外し、静かに手を合わせた。
岩の状態を見れば、わかることがある。
陽介の体を押し潰しているのは、天井の一番大きな塊だった。三度目の崩落で落ちてきたものだ。隙間が塞がったのと同じ瞬間に、陽介はこの下になった。
苦しむ時間は、おそらくなかった。
そして、誰がいつ通報していたとしても、間に合うことはなかった。
保科はそれを手帳に書き留め、現場の写真を撮った。遺骨の回収は管理局の仕事だ。保険会社にできるのは、確認と報告まで。保科は地図に正確な位置を記し、回収隊のための目印として、岩壁に蛍光塗料で印をつけた。
骨の首元で、金属の板が光った。
探索者タグだった。保科は慎重にそれを外し、ライトにかざした。
一ノ瀬 陽介
刻まれた名前を確かめて、保科は目を閉じた。
背嚢の口から、何かがこぼれていた。拳ほどの大きさの、青く透き通った鉱石。第十六層でしか採れない、刀の仕上げに使う蒼鉄だった。
陽介が、妹の守り刀のために採りに来た素材だ。
遺品は回収隊が遺骨と一緒に運び出し、管理局を通して遺族に返される。それが決まりだ。手続きを待てば、家族の手に届くのは何か月も先になるだろう。
保科はしばらく蒼鉄を見つめていた。
それから写真を一枚撮り、手帳に品名と位置を書き添えた。
「……これぐらいは、業務の範疇ですね」
誰に聞かせるでもなく独り言ちて、保科は蒼鉄を拾い上げ、タグと一緒に丁寧に布で包んだ。
戻らなければならない。ロープの向こうで、蓮が待っている。
そして本郷橋の事務所では、剛三が三千万円の行方を待っている。
保科は最後にもう一度、岩の外へ伸びた腕に頭を下げた。
「確認しました、一ノ瀬さん」




