第8回 ダンジョン保険
保科が事務所に戻ってきたのは、冴子を連れて地上に出た、その翌日の昼過ぎだった。
冴子を地上まで送り届け、警察に引き渡したあと、そのまま管理局で事情を聞かれ、報告書を書き、気がつけば日付が変わっていたらしい。作業着はくたびれて、目の下にうっすらと隈ができている。
それでも、表情はいつもと変わらなかった。
「戻りました」
「お疲れさまです!」
まなみが立ち上がると、保科は軽く会釈して、自分の席に腰を下ろした。鞄から書類を取り出し、さっそく広げ始める。
「保科さん、少しは休んでくださいよ」
「報告書を、もう一通書かなければなりませんので」
保科は、ペンを走らせながら言った。
まなみは、その横顔を見つめた。
聞きたいことは、山ほどあった。洞窟で何があったのか。冴子と、何を話したのか。
けれど、まなみの口から出たのは、一つだけだった。
「保科さん。なんで、一人で追いかけていったんですか? 警察に任せるって、シャルマさんに言ったんですよね」
保科のペンが、止まった。
「ドッペルゲンガーは、見つけ次第始末すると決めていますので」
それだけ言って、保科はまた書類に目を戻した。
まなみは、何日か前、この事務所で保科がそう話していたのを思い出した。あのとき、少し怖いと思った言葉だった。
今は、なぜか、少しも怖くなかった。
社長室のドアが開いたのは、夕方のことだった。
剛三が、のそのそと出てきた。
まなみは、思わず息を呑んだ。剛三の髪は、元のぼさぼさに戻っていた。サスペンダーは片方がずり落ち、顔には三日分の疲れが張りついている。
剛三は、保科の机の前で立ち止まった。
「……保科」
「はい」
「十九だったそうだな」
「はい」
剛三は、黙り込んだ。
しばらくして、ぼそりと言った。
「わしは、あの娘に、一番いい湯呑みを出した」
「はい」
「一番いい茶葉も使った」
「はい」
「シャルマの土産の菓子まで出した」
「ええ、出しましたね」
シャルマが、横からにこやかに言った。剛三の肩が、さらに落ちた。
「三十過ぎの、気の毒な未亡人だと思っとったんだ。それが、十九の娘で、しかも詐欺師で……」
剛三は、両手で顔を覆った。
「わしは、自分の娘くらいの小娘に、鼻の下を伸ばしとったのか……」
まなみは、笑っていいのかどうかわからず、口元を押さえた。
保科が、静かに口を開いた。
「社長。霧島さんから、伝言を預かっています」
剛三が、顔を上げた。
「警察に引き渡す前に、言っていました。あの社長に、ごめんなさいと伝えてください、と」
事務所が、少し静かになった。
剛三は、しばらく何も言わなかった。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「詐欺師に謝られても、一円にもならんわ」
そう言って、剛三は社長室へ戻りかけた。
その背中に、シャルマが声をかけた。
「そういえば社長。鑑定の費用、保科さんのお給料から引く処理をしようとしたら、もう経費で落としてありましたけど」
剛三の足が、止まった。
「……あれは、会社の調査だ。社員の給料から引けるか」
振り返りもせずにそう言って、剛三はドアを閉めた。
まなみは、閉じたドアを見つめた。
それから、保科を見た。
保科は、何も言わずに、報告書の続きを書き始めていた。
日が傾きかけた頃、保科は書き上げた報告書をまなみに手渡した。
「管理局に提出する前に、誤字がないか見ていただけますか」
「はい!」
まなみは、報告書を受け取って読み始めた。
第十五層の現場検証。隠れ家の発見。冴子との対峙。そして、冴子が語った動機。父親の保険金が、大手保険会社に払われなかったこと。理由を二転三転させられ、証人を一人ずつ黙らされ、裁判で何年も引き延ばされたこと。査定部に、不払い率の目標があったこと。
読み進めるうちに、まなみの手が止まった。
「……保科さん」
「はい」
「不払いって、ほんとにあるんですか?」
まなみは、報告書から顔を上げた。
「だって、保険って、何かあったときのために入るものですよね。払うって約束して、掛金をもらってるのに、払わないなんて……」
「ありますよ」
答えたのは、シャルマだった。端末から目を上げて、穏やかに言った。
「ダンジョン保険に限った話ではありません。普通の生命保険や損害保険でも、二〇〇〇年代の半ばに、大きな不払い問題がありました」
「普通の保険でも?」
「生命保険の会社だけで、払うべき保険金の不払いや支払い漏れが、百万件を超えていました。損害保険の会社も、何十万件と。業界ぐるみの問題でした。いくつもの会社が金融庁から業務停止命令や業務改善命令を受けて、大きな社会問題になったんです」
まなみは、目を丸くした。
「そんなに……」
「特約を増やしすぎて、払うべきものを会社自身が把握できなくなっていた、という面もありました。ただ、それだけではなかった。会社の利益を上げるために払わない、という姿勢があったことも、当時さんざん批判されています」
シャルマは、少し間を置いた。
「それでも、普通の保険業界には、金融庁という監督官庁がありました。問題が明るみに出れば、厳しく検査して、処分を下す仕組みがあった。業界のほうも、それで少しずつ襟を正していった」
「ダンジョン保険は、違うんですか?」
「ダンジョン保険を管轄しているのは、金融庁ではありません。迷宮探索庁です」
まなみは、首を傾げた。
「管理局の、上の役所ですよね」
「ええ。ダンジョンが現れてから作られた、まだ新しい役所です。探索者の免許、ダンジョンの管理、魔物の素材の流通。扱うものが多すぎて、保険の監督までは、とても手が回っていない」
シャルマは、端末を軽く叩いた。
「ダンジョン保険の業界そのものも、できてからまだ二十年ほどです。規約の作り方も、支払いの基準も、会社ごとにばらばら。ダンジョンという、誰も統計を取りきれていない危険を扱っているのに、それを監督するための物差しが、まだ誰にも作れていないんです」
「それって……」
「ええ」
シャルマは、穏やかな顔のまま言った。
「大手にとっては、やりたい放題の状態です。払わない理由をあとから探しても、それを咎める仕組みがない。遺族が裁判を起こしても、相手は業界最大手。弁護士の数も、資金も、比べものにならない。霧島さんのお母様のように、裁判を続けるうちに力尽きてしまう人も、きっと少なくありません」
まなみは、手の中の報告書を見下ろした。
冴子の父親の話が、急に、どこか遠い一人の不幸ではなくなった気がした。
「霧島さんは、一人で取り返そうとしました」
シャルマが、静かに言った。
「でも、同じように払ってもらえなかった人は、ほかにもたくさんいるはずです。その人たちが、みんな黙っているとは限りません」
保科は、何も言わなかった。
窓の外を見ている。その横顔からは、何を考えているのか、まなみには読み取れなかった。
そのとき、事務所のドアの脇の郵便受けに、何かが落ちる音がした。
まなみが取りに行くと、厚みのある封筒が一通届いていた。差出人は、ダンジョン保険業協会。宛名は、小野寺まなみ様。
「……私宛て?」
封を切ると、一枚の案内状が出てきた。
――業界新人合同フォローアップ研修のご案内
――会場:大和探索生命 本社研修センター
まなみは、その社名を、しばらく見つめていた。




