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ダンジョンの保険屋さん〜最強の保険調査員、救助も講師も営業もこなす社畜無双〜  作者: あいうえワをん
第4話 喪服の女

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第7回 鏡

 ランタンの火が、小さく揺れていた。


 冴子は、立ち尽くしたまま動かなかった。魔物たちが去っていった苔の簾を、ただ見つめている。刻印の浮かぶ右手が、だらりと下がっていた。


 やがて、その膝が折れた。


 冴子は、灰色の砂が広がる床に、崩れるように座り込んだ。


 保科は、しばらくその姿を見ていた。


 それから、口を開いた。


「一つ、わからないことがあります」


 冴子は、顔を上げなかった。


「テイマーは、希少な力です。最前線の攻略パーティに加われば、どこも喜んで迎え入れるでしょう。しかるべき会社に就職することもできる。こんな詐欺を働かなくても三千万円くらい、すぐに稼げたはずです」


 テイマーの力を持つ探索者は、数えるほどしかいない。魔物を従えれば、それだけで戦力になる。深層の最前線では、従えた魔物を盾にも斥候にも使える。研究機関にとっては、生きた魔物を傷つけずに捕らえられる、得難い人材だ。大手の探索企業なら、破格の待遇で引き抜きにかかるだろう。


「なぜ、こんなことを」


 冴子は、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「……お金が欲しかったんじゃない」


 かすれた声だった。


「取り返したかったの」


「取り返す?」


「保険会社なんて、どこも同じでしょう」


 冴子は、膝を抱えた。


「払うべきものは払わない。規約の言葉をねじ曲げて、弁護士を立てて、こっちが諦めるのを待つ。そういう連中から取り返して、何が悪いの」


 保科は、黙って続きを待った。


「父は、探索者だった」


 冴子は、遠くを見るような目で言った。


「私が九歳のとき、第十二層で死んだ。仲間をかばって、魔物に襲われて。大手保険会社の生命保険に入っていた。三千万。それがあれば、母と私は、なんとか暮らしていけるはずだった」


 冴子の指が、膝の上で握りしめられた。


「払われなかった」


「……理由は」


「最初は、届け出と違う階層だったから」


 冴子は、乾いた笑いを漏らした。


「父が届け出より一つ下の層に降りたのは、仲間が魔物に追われて逃げ込んだから。助けに行ったの。それを証言してくれる仲間もいた。母は、その証言を持って、会社に掛け合った」


「それで」


「そうしたら、今度は理由が変わった」


 冴子の声が、低くなった。


「父が加入するとき、昔の病気を申告していなかった。重大な告知義務違反だから、契約そのものが無効だって。十年以上前に治った、病気よ。死んだ理由とは、何の関係もない」


 保科は、黙って聞いていた。


「母は裁判を起こした。そうしたら、証言してくれるはずだった父の仲間たちが、急に何も言わなくなった。一人は、父は自分から素材を獲りに降りたんだと、証言を変えた」


 冴子は、膝を抱える腕に力を込めた。


「あとで知ったわ。その会社の調査員が、その三人のところを一人ずつ回っていたって」


 冴子は、指を一本ずつ折った。


「一人には、仕事を世話すると持ちかけた。関連会社の、素材の買い取りの専属契約。怪我で潜れなくなって、食べるのに困っていた人だった」


 二本目の指が、折られた。


「一人には、保険の契約を有利にすると言った。保険料を半額にして、特約もつける。家族の多い人だった」


 三本目の指を折りかけて、冴子は手を止めた。


「最後の一人は、首を縦に振らなかった。だから、会社はその人の昔の違反を掘り起こした。採取した素材の申告が、何年か前に一部漏れていたことがあったの。本当なら、注意を受けるくらいで済むようなこと。それを、管理局に告発する、損害賠償も請求する、と」


 冴子は、折りかけた指を、ゆっくりと握り込んだ。


「裁判になれば、勝てても何年もかかる。その間、探索はできない。その人は、黙るしかなかった」


 冴子は、顔を上げた。


 その目には、涙はなかった。乾ききった、底の見えない目だった。


「裁判は何年も続いた。そのうち、母が倒れた。無理がたたって体を壊して、働けなくなって、借金だけが残った」


 冴子は、自分の右手に目を落とした。


「私は中学を出てすぐ働いた。工場でも、飲食店でも、雇ってくれるところならどこでも。それでも、母の治療費には全然足りなかった。母は、助からなかった」


 刻印の浮かぶ手を、冴子はゆっくりと握りしめた。


「テイマーの才能があるとわかったのは、母が死んで一年くらい経ってから。借金を返すために、探索者の免許を取ったときの適性検査で」


 冴子は、乾いた声で笑った。


「笑えるでしょう。あと何年か早くわかっていれば、母の治療費くらい、いくらでも稼げたのに」


 冴子は、保科をまっすぐに見た。


「母が死んだ後、居酒屋でアルバイトしてるときに、その会社を辞めた査定員に偶然、会ったことがある。酒の席で、その人は笑いながら言ってたわ」


 冴子の唇が、歪んだ。


「その会社の査定部には、年間の不払い率の目標がある。払わずに済ませた額が多いほど、査定員の評価が上がる。理由なんて、後からいくらでも見つかる、って」


 洞窟に、沈黙が落ちた。


「父は、その目標の数字の一つだったのよ」


 冴子は、静かに言った。


「母の葬式の日に、決めたの。保険会社から、取り返してやるって。父の三千万を」


 保科はランタンの明かりの中で、冴子の顔を改めて見た。鼻血を拭ったときに、手の甲でこすれたのだろう。頬の白粉が筋になって剥げ、その下から、別の顔がのぞいていた。


 丸みの残る輪郭。薄い眉。三十を過ぎた未亡人の顔ではなかった。


「……霧島さん」


 保科は、静かに尋ねた。


「あなた、おいくつですか?」


 冴子は、手の甲で頬を拭った。化粧が、さらに崩れた。


「十九」


「霧島冴子というのも」


「買ったの。戸籍ごと」


 冴子は、どうでもいいことのように言った。


「達也のも、そう。名前なんて、お金を出せばいくらでも手に入るわ」


「……なぜ、うちを選んだんですか」


 保科は、問いを重ねた。


「母の仇なら、その会社を狙えばよかった」


「とっくにやったわ」


 冴子は、口の端だけで笑った。


「三年前。別の名前で、別のドッペルゲンガーを使って。父の三千万を、きっちり取り返した」


 保科は、何も言わなかった。


「でもね、何も変わらなかった」


 冴子は、床の砂に目を落とした。


「大手にとって、三千万なんて、決算書の隅にも載らない額だった。査定部の誰かが叱られたかもしれない。それだけ。不払い率の目標も、査定員の評価の仕組みも、何ひとつ変わらなかった。何も変わらなかったのよ。取り返したら、何かが終わると思ってた。父の仇を取って、母に報告して、それで……」


 冴子の声が、途切れた。


「それで、わからなくなったの」


 保科は、口を挟まなかった。


「九つで父がいなくなって、十五で母がいなくなって。それからずっと、お金を取り返すことだけ考えてきた。それしか、なかった。取り返して、何も変わらなくて、それで終わりだって言われても……」


 冴子は、自分の手を見下ろした。刻印の浮かぶ、白い手。


「ほかに、何をすればいいのか、わからなかった」


 小さな声だった。


「だから、次の会社を探した。保険会社なんて、どこも同じだと思ってたから。また取り返せば、今度こそ、何かが変わるかもしれないって」


 冴子は、自嘲するように笑った。


「変わるわけ、ないのにね」


「当社は、何件目ですか」


「四件目。零細は身元の確認が甘いから、今回は楽だと思ったのに」


 冴子は、小さく肩をすくめた。


「実際、あの社長は、すぐに払うって言ってくれた。あなたさえいなければ、今頃、三千万は私の口座に入ってたわ」


 保科は、しばらく黙っていた。


 それから、灰色の砂に目を落とした。


「霧島さん」


「……何」


「お父様の保険会社は、掛金を受け取るあいだは、喜んで契約を結んでいた。ところが、いざ払う段になると、あとから理由を探して契約を切り捨てた。お父様の命を、不払い率の数字の一つとして扱った」


 保科の次の言葉で、冴子の顔がこわばった。


「あなたも、同じことをしていたんです」


 保科は、床に広がった砂を見つめたまま続けた。


「魔物と従属の契約を結び、言いなりに働かせて、最後は三千万円を引き出すための数字として死なせた。霧島達也さんの姿をしていたドッペルゲンガーは、あなたの命令で、黒牙狼に喉を差し出しました。逃げもせず、声も上げずに。最後の最後まで、契約を守って死んだ」


 冴子の唇が、震えた。


「それに、当社の保険金は、本郷橋で毎月掛金を払っている三千人の探索者のお金です。あなたが取ろうとしたのは、お父様と同じ、名もない探索者たちの備えでした」


 保科は、顔を上げた。


「払うべきものを払わず、人の命を数字としてしか見ない。あなたが憎んできたのは、そういうものだったはずです」


 冴子は、何も言わなかった。


 言えなかったのだろう。その目から、ようやく、一筋の涙がこぼれた。


 冴子は、刻印の浮かぶ自分の右手を見下ろした。赤黒い紋様は、もう光っていない。ただの、醜い痣のように見えた。


「……あの社長も」


 しばらくして、冴子がかすれた声で言った。


「同じだと思ってた。金に汚くて、払いを渋って、口先だけの」


「社長は、確かにケチです」


 保科は、淡々と答えた。


「閃光玉一個の値段で怒鳴りますし、来客用のお菓子も削ります。支払いの前には、必ず免責の条項を探します。一円でも安く済ませたい人です」


 冴子が、顔を上げた。


「ですが、規約に払うと書いてあれば、最後には必ず払います。どんなに渋い顔をしても、払うべきものは、払います」


 保科は、少しだけ目を伏せた。


「社長も、悪い人間ではないのです。ただ、父親の遺した会社を守りたいだけです」


 冴子は、しばらく保科を見つめていた。


 それから、ゆっくりと両手で顔を覆った。肩が、小さく震え始めた。声は、聞こえなかった。


 父親の遺したものを、守りたいだけ。


 それは、冴子自身のことでもあったのかもしれない。


 保科は、ランタンの火が細くなっていくのを、黙って見ていた。


 しばらくして、冴子が顔を上げた。


 目は赤く腫れていたが、もう泣いてはいなかった。


「……警察が、来るのね」


「中層まで降りてくるには、時間がかかります」


 保科は、背嚢を担ぎ直した。


「地上まで、お送りします。ここに一人でいれば、魔物に襲われます」


 冴子は、怪訝そうに保科を見た。


「……私を、助けるの?」


「救助は、業務の一部ですので」


「私は、あなたの会社を騙そうとしたのよ」


「存じています」


 保科は、苔の簾の前に立ち、振り返った。


「それとこれとは、別の問題です」


 冴子は、何か言いかけて、やめた。


 それから、ゆっくりと立ち上がった。外した手袋を拾い上げ、少し迷ってから、右手にはめ直した。


 ランタンの火を吹き消す。


 洞窟が、闇に沈んだ。保科のヘッドランプの光だけが、苔の簾を白く照らしていた。


 保科が簾をくぐる。冴子が、その後に続いた。


 床に広がった灰色の砂の上を、二人分の足跡が、出口へと続いていった。

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