第7回 鏡
ランタンの火が、小さく揺れていた。
冴子は、立ち尽くしたまま動かなかった。魔物たちが去っていった苔の簾を、ただ見つめている。刻印の浮かぶ右手が、だらりと下がっていた。
やがて、その膝が折れた。
冴子は、灰色の砂が広がる床に、崩れるように座り込んだ。
保科は、しばらくその姿を見ていた。
それから、口を開いた。
「一つ、わからないことがあります」
冴子は、顔を上げなかった。
「テイマーは、希少な力です。最前線の攻略パーティに加われば、どこも喜んで迎え入れるでしょう。しかるべき会社に就職することもできる。こんな詐欺を働かなくても三千万円くらい、すぐに稼げたはずです」
テイマーの力を持つ探索者は、数えるほどしかいない。魔物を従えれば、それだけで戦力になる。深層の最前線では、従えた魔物を盾にも斥候にも使える。研究機関にとっては、生きた魔物を傷つけずに捕らえられる、得難い人材だ。大手の探索企業なら、破格の待遇で引き抜きにかかるだろう。
「なぜ、こんなことを」
冴子は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お金が欲しかったんじゃない」
かすれた声だった。
「取り返したかったの」
「取り返す?」
「保険会社なんて、どこも同じでしょう」
冴子は、膝を抱えた。
「払うべきものは払わない。規約の言葉をねじ曲げて、弁護士を立てて、こっちが諦めるのを待つ。そういう連中から取り返して、何が悪いの」
保科は、黙って続きを待った。
「父は、探索者だった」
冴子は、遠くを見るような目で言った。
「私が九歳のとき、第十二層で死んだ。仲間をかばって、魔物に襲われて。大手保険会社の生命保険に入っていた。三千万。それがあれば、母と私は、なんとか暮らしていけるはずだった」
冴子の指が、膝の上で握りしめられた。
「払われなかった」
「……理由は」
「最初は、届け出と違う階層だったから」
冴子は、乾いた笑いを漏らした。
「父が届け出より一つ下の層に降りたのは、仲間が魔物に追われて逃げ込んだから。助けに行ったの。それを証言してくれる仲間もいた。母は、その証言を持って、会社に掛け合った」
「それで」
「そうしたら、今度は理由が変わった」
冴子の声が、低くなった。
「父が加入するとき、昔の病気を申告していなかった。重大な告知義務違反だから、契約そのものが無効だって。十年以上前に治った、病気よ。死んだ理由とは、何の関係もない」
保科は、黙って聞いていた。
「母は裁判を起こした。そうしたら、証言してくれるはずだった父の仲間たちが、急に何も言わなくなった。一人は、父は自分から素材を獲りに降りたんだと、証言を変えた」
冴子は、膝を抱える腕に力を込めた。
「あとで知ったわ。その会社の調査員が、その三人のところを一人ずつ回っていたって」
冴子は、指を一本ずつ折った。
「一人には、仕事を世話すると持ちかけた。関連会社の、素材の買い取りの専属契約。怪我で潜れなくなって、食べるのに困っていた人だった」
二本目の指が、折られた。
「一人には、保険の契約を有利にすると言った。保険料を半額にして、特約もつける。家族の多い人だった」
三本目の指を折りかけて、冴子は手を止めた。
「最後の一人は、首を縦に振らなかった。だから、会社はその人の昔の違反を掘り起こした。採取した素材の申告が、何年か前に一部漏れていたことがあったの。本当なら、注意を受けるくらいで済むようなこと。それを、管理局に告発する、損害賠償も請求する、と」
冴子は、折りかけた指を、ゆっくりと握り込んだ。
「裁判になれば、勝てても何年もかかる。その間、探索はできない。その人は、黙るしかなかった」
冴子は、顔を上げた。
その目には、涙はなかった。乾ききった、底の見えない目だった。
「裁判は何年も続いた。そのうち、母が倒れた。無理がたたって体を壊して、働けなくなって、借金だけが残った」
冴子は、自分の右手に目を落とした。
「私は中学を出てすぐ働いた。工場でも、飲食店でも、雇ってくれるところならどこでも。それでも、母の治療費には全然足りなかった。母は、助からなかった」
刻印の浮かぶ手を、冴子はゆっくりと握りしめた。
「テイマーの才能があるとわかったのは、母が死んで一年くらい経ってから。借金を返すために、探索者の免許を取ったときの適性検査で」
冴子は、乾いた声で笑った。
「笑えるでしょう。あと何年か早くわかっていれば、母の治療費くらい、いくらでも稼げたのに」
冴子は、保科をまっすぐに見た。
「母が死んだ後、居酒屋でアルバイトしてるときに、その会社を辞めた査定員に偶然、会ったことがある。酒の席で、その人は笑いながら言ってたわ」
冴子の唇が、歪んだ。
「その会社の査定部には、年間の不払い率の目標がある。払わずに済ませた額が多いほど、査定員の評価が上がる。理由なんて、後からいくらでも見つかる、って」
洞窟に、沈黙が落ちた。
「父は、その目標の数字の一つだったのよ」
冴子は、静かに言った。
「母の葬式の日に、決めたの。保険会社から、取り返してやるって。父の三千万を」
保科はランタンの明かりの中で、冴子の顔を改めて見た。鼻血を拭ったときに、手の甲でこすれたのだろう。頬の白粉が筋になって剥げ、その下から、別の顔がのぞいていた。
丸みの残る輪郭。薄い眉。三十を過ぎた未亡人の顔ではなかった。
「……霧島さん」
保科は、静かに尋ねた。
「あなた、おいくつですか?」
冴子は、手の甲で頬を拭った。化粧が、さらに崩れた。
「十九」
「霧島冴子というのも」
「買ったの。戸籍ごと」
冴子は、どうでもいいことのように言った。
「達也のも、そう。名前なんて、お金を出せばいくらでも手に入るわ」
「……なぜ、うちを選んだんですか」
保科は、問いを重ねた。
「母の仇なら、その会社を狙えばよかった」
「とっくにやったわ」
冴子は、口の端だけで笑った。
「三年前。別の名前で、別のドッペルゲンガーを使って。父の三千万を、きっちり取り返した」
保科は、何も言わなかった。
「でもね、何も変わらなかった」
冴子は、床の砂に目を落とした。
「大手にとって、三千万なんて、決算書の隅にも載らない額だった。査定部の誰かが叱られたかもしれない。それだけ。不払い率の目標も、査定員の評価の仕組みも、何ひとつ変わらなかった。何も変わらなかったのよ。取り返したら、何かが終わると思ってた。父の仇を取って、母に報告して、それで……」
冴子の声が、途切れた。
「それで、わからなくなったの」
保科は、口を挟まなかった。
「九つで父がいなくなって、十五で母がいなくなって。それからずっと、お金を取り返すことだけ考えてきた。それしか、なかった。取り返して、何も変わらなくて、それで終わりだって言われても……」
冴子は、自分の手を見下ろした。刻印の浮かぶ、白い手。
「ほかに、何をすればいいのか、わからなかった」
小さな声だった。
「だから、次の会社を探した。保険会社なんて、どこも同じだと思ってたから。また取り返せば、今度こそ、何かが変わるかもしれないって」
冴子は、自嘲するように笑った。
「変わるわけ、ないのにね」
「当社は、何件目ですか」
「四件目。零細は身元の確認が甘いから、今回は楽だと思ったのに」
冴子は、小さく肩をすくめた。
「実際、あの社長は、すぐに払うって言ってくれた。あなたさえいなければ、今頃、三千万は私の口座に入ってたわ」
保科は、しばらく黙っていた。
それから、灰色の砂に目を落とした。
「霧島さん」
「……何」
「お父様の保険会社は、掛金を受け取るあいだは、喜んで契約を結んでいた。ところが、いざ払う段になると、あとから理由を探して契約を切り捨てた。お父様の命を、不払い率の数字の一つとして扱った」
保科の次の言葉で、冴子の顔がこわばった。
「あなたも、同じことをしていたんです」
保科は、床に広がった砂を見つめたまま続けた。
「魔物と従属の契約を結び、言いなりに働かせて、最後は三千万円を引き出すための数字として死なせた。霧島達也さんの姿をしていたドッペルゲンガーは、あなたの命令で、黒牙狼に喉を差し出しました。逃げもせず、声も上げずに。最後の最後まで、契約を守って死んだ」
冴子の唇が、震えた。
「それに、当社の保険金は、本郷橋で毎月掛金を払っている三千人の探索者のお金です。あなたが取ろうとしたのは、お父様と同じ、名もない探索者たちの備えでした」
保科は、顔を上げた。
「払うべきものを払わず、人の命を数字としてしか見ない。あなたが憎んできたのは、そういうものだったはずです」
冴子は、何も言わなかった。
言えなかったのだろう。その目から、ようやく、一筋の涙がこぼれた。
冴子は、刻印の浮かぶ自分の右手を見下ろした。赤黒い紋様は、もう光っていない。ただの、醜い痣のように見えた。
「……あの社長も」
しばらくして、冴子がかすれた声で言った。
「同じだと思ってた。金に汚くて、払いを渋って、口先だけの」
「社長は、確かにケチです」
保科は、淡々と答えた。
「閃光玉一個の値段で怒鳴りますし、来客用のお菓子も削ります。支払いの前には、必ず免責の条項を探します。一円でも安く済ませたい人です」
冴子が、顔を上げた。
「ですが、規約に払うと書いてあれば、最後には必ず払います。どんなに渋い顔をしても、払うべきものは、払います」
保科は、少しだけ目を伏せた。
「社長も、悪い人間ではないのです。ただ、父親の遺した会社を守りたいだけです」
冴子は、しばらく保科を見つめていた。
それから、ゆっくりと両手で顔を覆った。肩が、小さく震え始めた。声は、聞こえなかった。
父親の遺したものを、守りたいだけ。
それは、冴子自身のことでもあったのかもしれない。
保科は、ランタンの火が細くなっていくのを、黙って見ていた。
しばらくして、冴子が顔を上げた。
目は赤く腫れていたが、もう泣いてはいなかった。
「……警察が、来るのね」
「中層まで降りてくるには、時間がかかります」
保科は、背嚢を担ぎ直した。
「地上まで、お送りします。ここに一人でいれば、魔物に襲われます」
冴子は、怪訝そうに保科を見た。
「……私を、助けるの?」
「救助は、業務の一部ですので」
「私は、あなたの会社を騙そうとしたのよ」
「存じています」
保科は、苔の簾の前に立ち、振り返った。
「それとこれとは、別の問題です」
冴子は、何か言いかけて、やめた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。外した手袋を拾い上げ、少し迷ってから、右手にはめ直した。
ランタンの火を吹き消す。
洞窟が、闇に沈んだ。保科のヘッドランプの光だけが、苔の簾を白く照らしていた。
保科が簾をくぐる。冴子が、その後に続いた。
床に広がった灰色の砂の上を、二人分の足跡が、出口へと続いていった。




