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ダンジョンの保険屋さん〜最強の保険調査員、救助も講師も営業もこなす社畜無双〜  作者: あいうえワをん
第4話 喪服の女

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第6回 縛る力

 霧島冴子は、しばらく保科を見つめていた。


 それから、ふっと唇の端を持ち上げた。事務所で剛三に見せたという、潤んだ瞳の未亡人の顔ではなかった。


「本郷橋ダンジョン生命……ああ、あの配信の」


 冴子は、保科の手首の鎖に目をやった。


「腕の立つ救助係がいるとは聞いてたけど。まさか、あなたが鑑定なんて言い出したの?」


「支払いの前に、確認が必要でしたので」


 保科は、静かに答えた。


「霧島達也さんのビーコンに登録されていた血は、ドッペルゲンガーのものでした。警察には、もう届け出ています。この場所も、伝えてあります」


 冴子の顔から、笑みが消えた。


「ここで、待っていていただけませんか。逃げても、ダンジョンの中では長くはもちません」


「……ふうん」


 冴子は、手袋をはめた右手を、ゆっくりと持ち上げた。


「腕が立つだけの救助係だと思っていたのに」


 その指先が、魔物たちのほうへ向けられた。


「行きなさい」


 静かな声だった。


 黒牙狼が、低く唸った。大蜥蜴が鱗を逆立て、蛇のような魔物が細長い胴をもたげる。


 だが、どれも動かなかった。


 黒牙狼は、保科を見ていた。唸り声が、少しずつ小さくなっていく。耳が伏せられ、尾が後脚の間に巻き込まれた。大蜥蜴は、鱗を逆立てたまま、じりじりと後ずさる。蛇のような魔物は、胴をもたげたまま、ぴたりと固まっていた。


 怯えていた。


 冴子が、眉をひそめた。


「何してるの! 行きなさいって言ってるでしょう!」


 魔物たちは、動かない。


 冴子は、保科と魔物たちを見比べた。その目に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。


「……あなた、何なの」


 保科は、答えなかった。


 冴子は、唇を噛んだ。


 それから、右手の手袋に左手をかけ、一気に引き抜いた。


 白い手の甲に、紋様が刻まれていた。複雑に絡み合う線が、ランタンの明かりの中で、赤黒く脈打っている。


 テイマーの刻印だった。


 室内でも手袋を外さなかった理由が、そこにあった。


「行けって、言ってるの!」


 冴子が、刻印の浮かぶ手を突き出した。


 紋様が、赤く光った。


 魔物たちが、一斉に悲鳴を上げた。


 痛みに耐えるような声だった。黒牙狼が身をよじり、大蜥蜴が頭を床に打ちつける。蛇のような魔物が、のたうつように胴を震わせた。


 そして、魔物たちは動き出した。


 保科に向かって。


 怯えた目のまま、牙を剥き、爪を振り上げて。


 黒牙狼が、真っ先に飛びかかってきた。


 保科は、左腕を軽く振った。


 鎖が伸び、黒牙狼の胴にふわりと巻きついた。締め上げはしない。ただ、絡みついただけだった。


 次の瞬間、大蜥蜴が横から突っ込んでくる。黒牙狼を捕らえたままの鎖が、途中から枝分かれするように伸び、その太い首に輪をかけた。蛇のような魔物が、天井から保科の頭上へ落ちてくる。鎖はさらに枝を分け、その細長い胴を空中で捕らえた。


 三頭の魔物が、左の鎖一本に絡め取られて、宙に縫い止められた。


 保科は、左手で鎖を握ったまま、魔物たちの目を見た。


 牙を剥いている。爪を振り上げている。だが、その目は怯えていた。命令に逆らえず、恐ろしい相手に向かわされている目だった。


 冴子の刻印が、さらに強く光った。


「何してるの! 食い破りなさい!」


 魔物たちが、苦しげに身をよじる。鎖を振りほどこうと、もがく。


 冴子の顔から、血の気が引いていた。こめかみに汗が浮かび、鼻の下を一筋、赤いものが伝った。強制の力を強めるほど、使い手の体も削られていくのだ。


 それでも、冴子は止めなかった。


「……もう、やめませんか」


 保科が言った。


 冴子は、答えなかった。刻印の光が、さらに強くなる。


 保科は、小さく息を吐いた。


 そして、鎖を握る手に、わずかに力を込めた。


 締め上げたのではなかった。


 鎖を通して、何かが流れた。言葉にできない何か。縛り、留め、鎮める力。


 魔物たちの身じろぎが、ふっと止まった。


 苦しげな唸り声が、すうっと静まっていく。逆立っていた毛が寝て、強張っていた鱗が緩み、のたうっていた胴が、力なく垂れ下がった。


 魔物たちは、鎖に巻かれたまま、静かに目を閉じた。


 冴子の刻印が、空回りするように明滅した。


「……え?」


 冴子が、刻印と魔物たちを見比べた。もう一度、手を突き出す。刻印が光る。


 魔物たちは、動かなかった。


「なんで……」


 冴子の声が、震えた。


「なんで、言うことを聞かないの!」


「あなたの強制力を、鎖の強制力で打ち消しました」


 保科は、淡々と言った。


 冴子が、ぽかんと口を開けた。


「……なにいってんの?」


「鎖は、縛るためのものです」


 保科は、魔物たちを宙に縫い止めたまま、続けた。


「縛る力には、縛る力で応じるのが筋かと」


「だから、なにいってんの!?」


 冴子が叫んだ。


 保科は、それ以上は説明しなかった。説明のしようがなかった。自分でも、なぜこの鎖がそういうことをできるのか、よくわかっていないのだ。


 冴子は、鼻の下の血を手の甲で拭った。肩で息をしている。刻印の光は、もうほとんど消えかけていた。


 それでも、その目は、まだ諦めていなかった。


「……そう」


 冴子は、ゆっくりと笑った。


「なら、これはどう?」


 冴子が、洞窟の奥の暗がりに向かって、指を鳴らした。


 暗がりの中で、何かが動いた。


 人の形をしていた。最初は、輪郭のぼやけた、灰色の影だった。それが、ランタンの明かりの中へ歩み出てくるにつれて、みるみるうちに形を変えていく。


 くすんだ紺色の作業着。使い込まれた革の装具。両手首の革帯。そこから垂れる、二本の鎖。


 目の前に、もう一人の保科が立っていた。


 背格好も、顔立ちも、髪の乱れ方まで、何ひとつ違わない。表情のない、静かな目。それは保科が毎朝、鏡の中で見ている顔だった。


「ドッペルゲンガーよ」


 冴子が、勝ち誇ったように言った。


「もう一匹飼ってたの。あなたの姿も、記憶も、全部写し取らせたわ。鎖の使い方も、あなたと同じはずよ」


 もう一人の保科が、両手首の鎖を、ゆっくりと持ち上げた。


「自分自身と戦うのは、どんな気分?」


 保科は、もう一人の自分を見た。


 以前、まなみに話したことが、頭をよぎった。


 姿も、声も、記憶さえも写し取る。だから、ダンジョンでドッペルゲンガーに遭遇すれば、見分ける手段は、ほとんどない。だから――


「……」


 保科は、ためらわなかった。


 手首に垂れていた右の鎖が、跳ね上がった。その瞬間――


 ヒュッ。ドボッ。


 空気を切り裂く音と、鈍い音がほぼ同時に響き渡る。


 もう一人の保科は、鎖を振り上げた姿のまま、動きを止めた。


 その胸の真ん中に、拳サイズの穴が空いていた。


 もう一人の保科の顔が、ゆっくりと崩れていった。作業着が、革帯が、鎖が、輪郭を失っていく。灰色の影に戻り、それから、乾いた砂のようにさらさらと床にこぼれ落ちた。


 洞窟に、静けさが戻った。


 冴子は、床に広がった灰色の砂を、呆然と見下ろしていた。


「……嘘」


 かすれた声だった。


「あなたと同じ姿で、同じ記憶で、同じ鎖を持ってたのに……」


「……」


 保科は何も言わず、鎖を手首に巻き戻すと、もう一本の鎖に絡め取った魔物たちに目をやった。


 黒牙狼。大蜥蜴。蛇のような魔物。三頭とも、鎖に巻かれたまま、静かに目を閉じている。冴子の強制力からも、保科の鎖からも、縛られたままだった。


 保科は、鎖をほどいた。


 魔物たちが、床に降りた。


 黒牙狼が、最初に目を開けた。それから大蜥蜴が、蛇のような魔物が、ゆっくりと身を起こす。


 魔物たちは、冴子を見た。


 冴子が、刻印の浮かぶ手を、震えながら持ち上げた。


「……待って」


 刻印は、もう光らなかった。


 黒牙狼が、冴子に背を向けた。


 そして、苔の簾のほうへ、静かに歩き出した。大蜥蜴が、それに続いた。蛇のような魔物が、細長い胴をくねらせて、岩の隙間へ滑り込んでいく。


 洞窟の奥の暗がりからも、何かが這い出してきた。保科がまだ見ていなかった魔物たちだった。それらもまた、冴子の脇を通り過ぎ、出口へと向かっていく。


 一頭も、振り返らなかった。


「待って……待ってよ……」


 冴子の声が、洞窟に虚しく響いた。


 最後の一頭が、苔の簾の向こうへ消えた。


 獣の匂いが、少しずつ薄れていく。


 ランタンの明かりの中に、冴子が一人、立ち尽くしていた。

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