第6回 縛る力
霧島冴子は、しばらく保科を見つめていた。
それから、ふっと唇の端を持ち上げた。事務所で剛三に見せたという、潤んだ瞳の未亡人の顔ではなかった。
「本郷橋ダンジョン生命……ああ、あの配信の」
冴子は、保科の手首の鎖に目をやった。
「腕の立つ救助係がいるとは聞いてたけど。まさか、あなたが鑑定なんて言い出したの?」
「支払いの前に、確認が必要でしたので」
保科は、静かに答えた。
「霧島達也さんのビーコンに登録されていた血は、ドッペルゲンガーのものでした。警察には、もう届け出ています。この場所も、伝えてあります」
冴子の顔から、笑みが消えた。
「ここで、待っていていただけませんか。逃げても、ダンジョンの中では長くはもちません」
「……ふうん」
冴子は、手袋をはめた右手を、ゆっくりと持ち上げた。
「腕が立つだけの救助係だと思っていたのに」
その指先が、魔物たちのほうへ向けられた。
「行きなさい」
静かな声だった。
黒牙狼が、低く唸った。大蜥蜴が鱗を逆立て、蛇のような魔物が細長い胴をもたげる。
だが、どれも動かなかった。
黒牙狼は、保科を見ていた。唸り声が、少しずつ小さくなっていく。耳が伏せられ、尾が後脚の間に巻き込まれた。大蜥蜴は、鱗を逆立てたまま、じりじりと後ずさる。蛇のような魔物は、胴をもたげたまま、ぴたりと固まっていた。
怯えていた。
冴子が、眉をひそめた。
「何してるの! 行きなさいって言ってるでしょう!」
魔物たちは、動かない。
冴子は、保科と魔物たちを見比べた。その目に、初めて戸惑いの色が浮かんだ。
「……あなた、何なの」
保科は、答えなかった。
冴子は、唇を噛んだ。
それから、右手の手袋に左手をかけ、一気に引き抜いた。
白い手の甲に、紋様が刻まれていた。複雑に絡み合う線が、ランタンの明かりの中で、赤黒く脈打っている。
テイマーの刻印だった。
室内でも手袋を外さなかった理由が、そこにあった。
「行けって、言ってるの!」
冴子が、刻印の浮かぶ手を突き出した。
紋様が、赤く光った。
魔物たちが、一斉に悲鳴を上げた。
痛みに耐えるような声だった。黒牙狼が身をよじり、大蜥蜴が頭を床に打ちつける。蛇のような魔物が、のたうつように胴を震わせた。
そして、魔物たちは動き出した。
保科に向かって。
怯えた目のまま、牙を剥き、爪を振り上げて。
黒牙狼が、真っ先に飛びかかってきた。
保科は、左腕を軽く振った。
鎖が伸び、黒牙狼の胴にふわりと巻きついた。締め上げはしない。ただ、絡みついただけだった。
次の瞬間、大蜥蜴が横から突っ込んでくる。黒牙狼を捕らえたままの鎖が、途中から枝分かれするように伸び、その太い首に輪をかけた。蛇のような魔物が、天井から保科の頭上へ落ちてくる。鎖はさらに枝を分け、その細長い胴を空中で捕らえた。
三頭の魔物が、左の鎖一本に絡め取られて、宙に縫い止められた。
保科は、左手で鎖を握ったまま、魔物たちの目を見た。
牙を剥いている。爪を振り上げている。だが、その目は怯えていた。命令に逆らえず、恐ろしい相手に向かわされている目だった。
冴子の刻印が、さらに強く光った。
「何してるの! 食い破りなさい!」
魔物たちが、苦しげに身をよじる。鎖を振りほどこうと、もがく。
冴子の顔から、血の気が引いていた。こめかみに汗が浮かび、鼻の下を一筋、赤いものが伝った。強制の力を強めるほど、使い手の体も削られていくのだ。
それでも、冴子は止めなかった。
「……もう、やめませんか」
保科が言った。
冴子は、答えなかった。刻印の光が、さらに強くなる。
保科は、小さく息を吐いた。
そして、鎖を握る手に、わずかに力を込めた。
締め上げたのではなかった。
鎖を通して、何かが流れた。言葉にできない何か。縛り、留め、鎮める力。
魔物たちの身じろぎが、ふっと止まった。
苦しげな唸り声が、すうっと静まっていく。逆立っていた毛が寝て、強張っていた鱗が緩み、のたうっていた胴が、力なく垂れ下がった。
魔物たちは、鎖に巻かれたまま、静かに目を閉じた。
冴子の刻印が、空回りするように明滅した。
「……え?」
冴子が、刻印と魔物たちを見比べた。もう一度、手を突き出す。刻印が光る。
魔物たちは、動かなかった。
「なんで……」
冴子の声が、震えた。
「なんで、言うことを聞かないの!」
「あなたの強制力を、鎖の強制力で打ち消しました」
保科は、淡々と言った。
冴子が、ぽかんと口を開けた。
「……なにいってんの?」
「鎖は、縛るためのものです」
保科は、魔物たちを宙に縫い止めたまま、続けた。
「縛る力には、縛る力で応じるのが筋かと」
「だから、なにいってんの!?」
冴子が叫んだ。
保科は、それ以上は説明しなかった。説明のしようがなかった。自分でも、なぜこの鎖がそういうことをできるのか、よくわかっていないのだ。
冴子は、鼻の下の血を手の甲で拭った。肩で息をしている。刻印の光は、もうほとんど消えかけていた。
それでも、その目は、まだ諦めていなかった。
「……そう」
冴子は、ゆっくりと笑った。
「なら、これはどう?」
冴子が、洞窟の奥の暗がりに向かって、指を鳴らした。
暗がりの中で、何かが動いた。
人の形をしていた。最初は、輪郭のぼやけた、灰色の影だった。それが、ランタンの明かりの中へ歩み出てくるにつれて、みるみるうちに形を変えていく。
くすんだ紺色の作業着。使い込まれた革の装具。両手首の革帯。そこから垂れる、二本の鎖。
目の前に、もう一人の保科が立っていた。
背格好も、顔立ちも、髪の乱れ方まで、何ひとつ違わない。表情のない、静かな目。それは保科が毎朝、鏡の中で見ている顔だった。
「ドッペルゲンガーよ」
冴子が、勝ち誇ったように言った。
「もう一匹飼ってたの。あなたの姿も、記憶も、全部写し取らせたわ。鎖の使い方も、あなたと同じはずよ」
もう一人の保科が、両手首の鎖を、ゆっくりと持ち上げた。
「自分自身と戦うのは、どんな気分?」
保科は、もう一人の自分を見た。
以前、まなみに話したことが、頭をよぎった。
姿も、声も、記憶さえも写し取る。だから、ダンジョンでドッペルゲンガーに遭遇すれば、見分ける手段は、ほとんどない。だから――
「……」
保科は、ためらわなかった。
手首に垂れていた右の鎖が、跳ね上がった。その瞬間――
ヒュッ。ドボッ。
空気を切り裂く音と、鈍い音がほぼ同時に響き渡る。
もう一人の保科は、鎖を振り上げた姿のまま、動きを止めた。
その胸の真ん中に、拳サイズの穴が空いていた。
もう一人の保科の顔が、ゆっくりと崩れていった。作業着が、革帯が、鎖が、輪郭を失っていく。灰色の影に戻り、それから、乾いた砂のようにさらさらと床にこぼれ落ちた。
洞窟に、静けさが戻った。
冴子は、床に広がった灰色の砂を、呆然と見下ろしていた。
「……嘘」
かすれた声だった。
「あなたと同じ姿で、同じ記憶で、同じ鎖を持ってたのに……」
「……」
保科は何も言わず、鎖を手首に巻き戻すと、もう一本の鎖に絡め取った魔物たちに目をやった。
黒牙狼。大蜥蜴。蛇のような魔物。三頭とも、鎖に巻かれたまま、静かに目を閉じている。冴子の強制力からも、保科の鎖からも、縛られたままだった。
保科は、鎖をほどいた。
魔物たちが、床に降りた。
黒牙狼が、最初に目を開けた。それから大蜥蜴が、蛇のような魔物が、ゆっくりと身を起こす。
魔物たちは、冴子を見た。
冴子が、刻印の浮かぶ手を、震えながら持ち上げた。
「……待って」
刻印は、もう光らなかった。
黒牙狼が、冴子に背を向けた。
そして、苔の簾のほうへ、静かに歩き出した。大蜥蜴が、それに続いた。蛇のような魔物が、細長い胴をくねらせて、岩の隙間へ滑り込んでいく。
洞窟の奥の暗がりからも、何かが這い出してきた。保科がまだ見ていなかった魔物たちだった。それらもまた、冴子の脇を通り過ぎ、出口へと向かっていく。
一頭も、振り返らなかった。
「待って……待ってよ……」
冴子の声が、洞窟に虚しく響いた。
最後の一頭が、苔の簾の向こうへ消えた。
獣の匂いが、少しずつ薄れていく。
ランタンの明かりの中に、冴子が一人、立ち尽くしていた。




