第5回 連絡所
第十四層の安全地帯には、管理局の連絡所がある。
結界石に守られた岩場の一角に建つ、プレハブ小屋のような建物だ。中には古びた有線の電話が二台。ダンジョンの中で、誰でも地上と話せる数少ない場所だった。
その前に、短い列ができていた。
保科は、列の最後尾に並んだ。前には四人。探索を終えて気が抜けた顔をした者、仲間とはぐれたのか青い顔をした者、ボロボロで疲れ切った顔をした者、同じくボロボロだがやり遂げた顔をした者。電話の前の探索者は、帰りが遅くなると何度も繰り返していた。
順番は、なかなか回ってこなかった。
保科は、ぼんやりと安全地帯を見渡した。
岩場の端で、若い男が浮遊カメラに向かって喋っていた。派手なジャケットに、手首には配信用の端末。カメラに向かって身振り手振りで何かを語り、ときおり端末を覗き込んで笑っている。
録画だろうか、と保科は思った。
生配信なら、あの端末で地上とつながっているということだ。場所にもよるが、魔導中継の回線を契約していれば、ダンジョン内からでも地上と話せる。こうして列に並ぶ必要もない。
羨ましい、と保科は少しだけ思った。
大手保険会社の救助員は、みな魔導中継の回線を持っているという。現場から本部に報告を上げ、指示を受け、応援を呼ぶ。本郷橋ダンジョン生命も、一度は契約を検討したことがあった。見積もりを見た剛三が三日寝込んで、それきりになった。
ビーコンなら、位置と生死は事務所の魔導具に届く。だが、声は届かない。
保科にできるのは、歩いて連絡所まで戻り、列に並ぶことだけだった。
前の探索者が、ようやく受話器を置いた。
「次の方、どうぞ」
管理局の職員に促されて、保科は受話器を取った。事務所の番号を押す。
二度目の呼び出し音で、相手が出た。
『はい、本郷橋ダンジョン生命です』
「保科です」
『保科さん!』
シャルマの声だった。いつもの落ち着いた声に、わずかに安堵の色が混じっていた。
『よかった。ちょうど、どうやって連絡を取ろうかと思っていたところです』
「何かありましたか」
『鑑定所から、結果が出ました。予定より早く』
保科は、受話器を握り直した。
『霧島達也さんのビーコンに登録されていた血液は、人間のものではありませんでした』
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
『鑑定所の所見では、ドッペルゲンガーの血液と特徴が一致するそうです』
保科は、目を閉じた。
一番後ろの席。うつむいた顔。近づくたびにすくんだ肩。
あの日、保科は教壇から、魔物に講習をしていた。
「……そうですか」
保科は、目を開けた。
シャルマは、少しの間を置いて、静かに続けた。
『警察には、もう連絡しました。保険金詐欺の疑いで。管理局にも報告を上げています』
「こちらも、一つ報告があります。第十五層の北の回廊の奥、地図では行き止まりになっている岩の割れ目に、魔物の巣がありました。黒牙狼の足跡は、そこへ続いていました」
『魔物の巣、ですか』
「種類の違う魔物の寝床が、五つ。それから、女物の手袋が片方。黒い、薄手のものです」
電話の向こうで、シャルマが息を呑む気配がした。
『黒い手袋……』
「心当たりが?」
『霧島冴子さんが事務所にいらしたとき、室内でも、黒い手袋を外しませんでした』
保科は、黙った。
魔物の巣。種類の違う魔物たち。一度も落とさずに獲物を運んだ黒牙狼。誰かに言いつけられて動いているようだった、と江口は言った。
そして、その巣に落ちていた、冴子と同じ黒い手袋。
喉に刺さっていた小骨が、ようやく形になった気がした。
「場所を、警察と管理局に伝えていただけますか。地図の座標は、あとで報告書に書きます」
『わかりました』
「では、あとは警察に任せましょう」
保科は言った。
保険会社の仕事は、ここまでだ。支払いの是非を確かめ、不正があれば届け出る。犯人を捕まえるのは、警察の役目だった。
『ただ、保科さん』
シャルマの声が、少しだけ曇った。
『一つ、困ったことがありまして』
「なんでしょう」
『社長が、霧島さんに電話をしていたんです。支払いが遅れることを詫びるために』
「はい」
『そのとき、うっかり言ってしまったそうなんです。うちの保科が余計なことをして、ご主人のビーコンを鑑定に回してしまって、と』
保科は、何も言わなかった。
『鑑定の結果を聞いた社長は、真っ青になって、社長室に閉じこもっています。もしかすると、霧島さんは、もう逃げているかもしれません』
「……そうですか」
保科は、受話器を耳に当てたまま、しばらく黙っていた。
鑑定のことを知った冴子は、どう動くか。
地上にいれば、いずれ警察が来る。逃げるなら、人目につかない場所へ行く。そして、自分の手駒を手元に置こうとするはずだ。
あの巣にいた魔物たちは、今どこにいるのか。
保科は、ふと思った。
冴子は、ドッペルゲンガーを一体、使い捨てにした。見分ける手段がほとんどなく、手懐けることさえ難しいはずの魔物を。詐欺の道具として、黒牙狼に噛み殺させた。
惜しげもなく使い捨てられるのは、替えがあるからではないか。
追いつめられた冴子が、残りのドッペルゲンガーを中層に放てば、どうなるか。誰かの姿を写し、探索者に紛れ込む。仲間の顔をした魔物に、背中から襲われる。生き残った者は、互いを疑い合う。いくつものパーティが、疑心暗鬼の末に崩れていく。
『保科さん?』
シャルマが、受話器の向こうで呼んだ。
「シャルマさん」
保科は、静かに言った。
「少し、戻るのが遅くなります」
『……え?』
「念のため、もう一度、巣を見てきます」
シャルマが、何か言いかけた。だが保科は、それを待たずに続けた。
「社長には、心配しないでくださいとお伝えください。それから、鑑定の費用は、予定通り私の給料から引いていただいて構いません、と」
『保科さん、それは……』
「では」
保科は、受話器を置いた。
後ろに並んでいた探索者が、怪訝そうな顔で保科を見た。保科は軽く会釈して、列を離れた。
岩場の端では、さっきの配信者が、まだカメラに向かって笑っていた。
第十五層の北の回廊を、保科は来た道を逆にたどった。
黒牙狼の足跡。乾いた血の滴。大きく右へ逸れる道筋。岩の割れ目が入り組んだ一角。
苔の簾の前で、保科は足を止めた。
さっきとは、何かが違った。
簾の向こうから、獣の匂いが濃く漂ってくる。一頭や二頭のものではない。そして、その匂いに混じって、かすかな声が聞こえた。
人の声だった。女の声だ。低く、何かを急かすように囁いている。
保科は、苔の簾をそっと持ち上げた。
洞窟の奥に、ランタンの明かりが揺れていた。
その明かりの中に、魔物たちがいた。黒牙狼。鱗に覆われた大蜥蜴。細長い胴をくねらせる蛇のような何か。そして、その中心に、一人の女が立っていた。
艶のある黒髪を低い位置でまとめ、濃紺の探索服に身を包んでいる。透けるように白い肌。伏し目がちな切れ長の目。
その細い指には、黒い薄手の手袋がはめられていた。巣の寝床に落ちていたものと、同じ品だった。
女が、こちらを振り返った。
その目が、保科の作業着と、手首の鎖を捉えた。
「……誰?」
保科は、静かに頭を下げた。
「本郷橋ダンジョン生命の保科です」
作業着の胸ポケットに手を入れかけて、保科は、その手を止めた。
「霧島冴子さんですね」




