第4回 不自然な獣
第十五層の北の回廊は、本郷橋ダンジョンの中層でもとりわけ静かな一帯だった。
天井が高く、岩壁には細い鉱脈が何本も走っている。採掘を生業にする探索者には悪くない場所だが、魔物の数もそれなりに多い。江口たちのような慣れたパーティでなければ、長居はしない。
保科は、江口から聞いた場所で足を止めた。
回廊が緩やかに曲がる手前。岩の床に、黒ずんだ染みが広がっていた。
血だまりの跡だった。
一週間が経って、すっかり乾いている。管理局の職員や回収隊が出入りしたのだろう、周りには靴跡がいくつも重なっていた。
保科はしゃがみ込み、ヘッドランプの光を低く傾けた。
血だまりの大きさ。広がり方。喉を食い破られたのなら、もっと激しく飛び散っていてもおかしくない。だが、染みは一か所にまとまっていた。噛まれた男が、倒れたあと、ほとんど動かなかったということだ。
江口たちの証言と、合っていた。
保科は、靴跡の重なりの向こうに目を凝らした。
人間の靴跡とは違う跡が、一つだけ混じっていた。
四本指の、大きな足跡。黒牙狼のものだった。
保科は立ち上がり、足跡を追った。
回廊の奥へ向かって、点々と続いている。その歩幅は、驚くほど一定だった。
普通の黒牙狼なら、こうはならない。獲物をくわえて運ぶとき、黒牙狼は何度も獲物を地面に落とす。噛み直し、引きずり、また持ち上げる。足跡はそのたびに乱れ、獲物を引きずった跡が床に残る。
この足跡には、それがなかった。
一度も立ち止まらず、一度も乱れず、まっすぐに奥へ伸びている。引きずった跡は、どこにもない。
足跡に沿って、乾いた血の滴が点々と落ちていた。その間隔も、ほとんど同じだった。
一度も落とさずに運んだ。
江口の言った通りだった。
保科は、足跡をたどって回廊を進んだ。
しばらく行くと、足跡は大きく右へ逸れた。探索者が普段使う道筋から外れ、岩の割れ目が入り組んだ一角へと入っていく。地図には、行き止まりとしか記されていない場所だった。
保科は、割れ目の一つの前で立ち止まった。
天井から、長い苔が簾のように垂れ下がっている。その簾の向こうに、人ひとりがようやく通れるほどの隙間があった。
足跡は、その隙間の奥へ消えていた。
保科は、苔の簾をそっと持ち上げた。
湿った空気に混じって、獣の匂いがした。
隙間を抜けると、小さな洞窟が広がっていた。
天井は低いが、奥行きはそれなりにある。保科はヘッドランプの光を、ゆっくりと巡らせた。
誰もいなかった。
床に、枯れ草や獣の毛を集めて作った寝床が、いくつも並んでいた。大きいもの、小さいもの、細長いもの。形も大きさも、ばらばらだった。保科は数えた。五つ。
一番大きな寝床には、黒い毛が大量に絡みついていた。黒牙狼の毛だ。
ほかの寝床にも、それぞれ違う獣の毛や、鱗の欠片が落ちている。
種類の違う魔物が、一つの巣で寝起きしている。
ないことではない。ゴブリンの巣にオークやオーガが用心棒のようにいることは、ときおりある。だが、毛も鱗も入り混じった寝床が、こうして行儀よく並んでいるのは珍しかった。まるで、誰かがそれぞれの居場所を決めて、並べたかのように。
黒牙狼だけではない。少なくとも五頭の魔物が、ここで寝起きしていた。
保科は、洞窟の中を見回した。
黒牙狼の巣なら、獲物の骨が散らばっているはずだった。食い残しの肉、齧られた骨。巣というものは、そういう匂いがする。
ここには、骨が一本もなかった。
霧島達也をくわえた黒牙狼は、まっすぐここへ運んできたはずだ。それなのに、人間の骨も、衣服の切れ端も、何ひとつ残っていない。
運び込まれたものは、どこへ行ったのか。
保科は、一番大きな寝床の脇にしゃがみ込んだ。
黒い毛の塊に紛れて、何かがのぞいていた。指先でつまみ上げる。
薄い、黒い布だった。
手袋の片方だった。細い指の形をした、女物の手袋。
保科は、それをしばらく見つめていた。
魔物の巣に、人の持ち物が落ちている。
それだけのことだった。探索者が魔物に襲われ、持ち物が巣に運び込まれることは珍しくない。手袋の持ち主が、どこかで黒牙狼に襲われたのかもしれない。たまたま、ここへ迷い込んだだけかもしれない。
説明は、いくらでもつけられた。
だが、保科は手袋を手にしたまま、動けなかった。
落とさずに運ばれた獲物。骨の残らない巣。行儀よく並んだ、種類の違う魔物たちの寝床。そして、魔物の毛に埋もれた、女物の手袋。
一つ一つは、ありえないことではない。
けれど、それがすべて、この一つの洞窟に揃っている。
喉の奥に、小骨が刺さったような感覚があった。
保科は、手袋を元の場所にそっと戻した。
洞窟の入口を振り返る。苔の簾の向こうは、静まり返っている。巣の主たちが、いつ戻ってくるかはわからない。
保科は、五つの寝床をもう一度だけ目に焼きつけ、苔の簾をくぐって洞窟を後にした。




