第3回 悲鳴のない男
翌朝、事務所の空気は冷え切っていた。
剛三は社長室から一度も出てこなかった。ドアの向こうから、ときおり電話の声が漏れ聞こえる。猫なで声だった。おそらく、相手は冴子だ。支払いが少し遅れることを詫びているのだろう。
まなみは、保科と社長室のドアを交互に見ては、ため息をついていた。
「保科さん、本当に大丈夫なんですか? 鑑定の費用、給料から引くって……」
「三日で結果が出ます。それまでに、できることをしておきます」
保科は、上着を手に取った。
「大貫さんは、今日は講習でしたね」
「はい。午前中に一コマです」
講習用の小さな教室は、事務所の二つ上の階にあった。
保科がドアを開けると、ちょうど講習が終わったところだった。受講者たちが、ぞろぞろと教室を出ていく。教壇では、白髪頭の小柄な男が、ゆっくりと資料を片付けていた。
「大貫さん」
「おう、保科か」
大貫茂は、顔を上げてにやりと笑った。
六十を少し過ぎた嘱託社員だった。もとは救助員で、先代の源一郎の頃から本郷橋ダンジョン生命にいる。十年前に膝を悪くして現場を退き、今は新人講習を週に何コマか受け持っている。保科が入社したとき、救助のいろはを叩き込んでくれたのも、この男だった。
「珍しいな。お前が講習の教室に顔を出すなんて」
「霧島達也さんのことを、伺いたくて」
大貫の手が、止まった。
「……ああ。聞いたよ。気の毒にな」
大貫は資料を机に置き、膝をかばうようにして椅子に腰を下ろした。
「熱心な男だった。わしの講習だけで、五回も来たんだからな。ベテランでもあそこまで通う奴は、なかなかおらん」
「どんな方でしたか」
「おとなしい男だったよ。いつも一番後ろの席に座ってな。質問は、ほとんどしなかった。ただ、話はよく聞いとった。わしの話を、一言も聞き漏らすまいって顔でな」
大貫は、少し首を傾げた。
「ああいうのは、あまり見ない受講生だった。新人でも、ベテランでもない。なんというか……覚えようとしとる、というより、写し取ろうとしとる感じでな」
保科は、何も言わなかった。
「それから、一つだけ妙なことがあった」
大貫は、保科の顔を見た。
「何回目だったかな。講習が終わったあと、たまには保科の講習も受けてみろって言ったんだ。わしと違って、あいつは現場の最前線におるから、教わることも多いぞってな」
「それで」
「顔色が変わった。真っ青になってな。それから、絞り出すような声で、『あの人は、怖いです』と」
大貫は、苦笑した。
「わしは、お前が講習でよっぽど厳しくしたんだろうと思っとった。お前は愛想がないからな」
「……そうかもしれません」
保科は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
教室を出ようとした保科の背中に、大貫の声がかかった。
「保科」
振り返ると、大貫は、真剣な目でこちらを見ていた。
「社長のことは、あまり責めてやるなよ」
「責めてはいません」
「ならいい」
大貫は、窓の外に目をやった。
「あの人も、先代から会社を継いで、ずっと一人で踏ん張ってきたんだ。金に細かいのも、会社を潰したくない一心だ。たまには、誰かにいい顔をしたくもなるさ」
昼過ぎ、保科は本郷橋の東の外れにある探索者向けの食堂にいた。
向かいの席には、三人の探索者が並んで座っている。霧島達也が襲われる場面を目撃した、採掘専門のパーティだった。リーダーの江口は、四十がらみの無口な男で、残りの二人は二十代の若者だった。江口は、右脚を少し引きずって歩いていた。
「あの日のことを、もう一度伺えますか」
保科が言うと、江口は、湯呑みを両手で包んだまま、ゆっくりと話し始めた。
「第十五層の北の回廊で、鉱脈を掘っていた。昼過ぎ、三時ごろだったと思う。回廊のほうで、こいつの叫び声と、何か重いものが倒れるような音がした。様子を見に行ったら、黒牙狼が、男にのしかかっていた」
「悲鳴は?」
江口は、首を振った。
「こいつの声だけだ。襲われた男のほうは、声ひとつ上げなかった」
「黒牙狼で、間違いありませんか」
「間違いない」
江口は、きっぱりと言った。
「俺たちは、三年前までは討伐で食ってたんだ。魔物を狩って、素材を売る。黒牙狼は、中層じゃよく出る獲物でな。何頭仕留めたか、数えきれん」
江口は、自分の右脚を軽く叩いた。
「こいつをやられてから、採掘に鞍替えした。討伐は、割に合わなくなってな。だが、黒牙狼のことなら、今でも誰よりよく知ってるつもりだ」
「男の方は、どんな様子でしたか」
江口は、少し考え込んだ。
「……動かなかった」
「動かなかった?」
「抵抗しなかったんだ。喉を噛まれているのに、もがきもしない。叫びもしない。ただ、されるがままになっていた」
若い方の一人が、口を挟んだ。
「俺、そのとき、ちょっと用を足しに、回廊のほうへ出てたんです。そしたら、少し先に、あの人が立ってて」
その若者は、身震いした。
「黒牙狼と向き合ったまま、突っ立ってました。逃げようともしないで。俺が声を上げる前に、獣が飛びかかって……噛まれて、すぐに動かなくなりました」
保科は、手帳に書き留めた。
悲鳴を上げなかった。抵抗しなかった。逃げようともしなかった。
「黒牙狼のほうは、いかがでしたか」
保科が尋ねると、江口の表情が変わった。
「それが、一番おかしかった」
江口は、湯呑みを置いた。
「黒牙狼ってのは、獲物を仕留めると、まず周りを威嚇する。横取りされるのを嫌うんだ。俺たちが近づけば、牙を剥いて唸る。それから、その場で食い始める。巣に運ぶにしても、獲物を何度も地面に落として、噛み直しながら、のろのろ引きずっていく」
「あの日は、違ったと」
「全然違った」
江口は、首を振った。
「男が動かなくなってからも、あいつは少しの間、喉に食らいついたまま、じっとしてた。俺たちが駆けつけても、こっちを一度も見なかった。唸りもしない。牙も剥かない」
江口は、眉間に皺を寄せた。
「それから、男をくわえて、一度も落とさずに、まっすぐ回廊の奥へ走っていった。迷いもなく、だ」
「まるで、どこへ運べばいいのか、最初からわかってるみたいでした」
もう一人の若者が、付け加えた。
江口は、腕を組んだ。
「何十頭も見てきたが、あんな黒牙狼は初めてだ。獣ってより……」
江口は、言葉を探すように、少し黙った。
「誰かに、言いつけられて動いてるみたいだった」
保科は、静かに手帳を閉じた。
悲鳴を上げなかった男。誰かに言いつけられたように動く獣。
そして、講習で「あの人は、怖いです」と言った男。
「江口さん。その回廊の場所を、詳しく教えていただけますか」
鑑定の結果が出るまで、あと二日。
待っている理由は、なかった。




