第2回 一番後ろの席
一度だけ。
その言葉を口にしてから、保科はもう一度、被保険者の欄に目を落とした。
霧島達也。三十四歳。
顔は、すぐには浮かばなかった。講習で教えた探索者は、毎年何百人にもなる。名前を聞いただけで、全員の顔を思い出せるわけではない。
「担当したことがあるなら、なおさらだろうが」
剛三が、机を叩いた。
「ご遺族を待たせる気か。さっさと手続きに回せ」
「確認が済み次第、回します」
保科は、書類を一枚ずつめくっていった。
請求書。保険金額、三千万円。受取人、霧島冴子。
管理局の死亡認定書。一週間前の午後、第十五層の北の回廊。霧島達也は、黒い大型の獣に襲われて死亡したものと認める。根拠として、目撃者三名の証言と、ビーコンの記録が挙げられていた。
目撃者の証言の記録。近くで採掘をしていた三人組のパーティだった。回廊の先で男の悲鳴――いや、悲鳴は聞こえなかったと書いてある。物音に気づいて駆けつけると、黒い獣が男の喉に食らいつき、そのまま闇の奥へ引きずっていくところだった。追いかけようとしたが、獣の足は速く、見失った。現場には、血だまりと、男が身につけていたビーコンが落ちていた。
ビーコンは三人が拾い、管理局に届け出た。そして、当社が貸与していたものなので、先日こちらに返却されている。
保科は、返却品の棚に目をやった。真鍮の枠に収まった灰色の石が、小さな袋に入れられて並んでいる。
ビーコンの記録。生命反応途絶、午後三時十二分。位置、第十五層北回廊。
書類に不備はない。完璧だった。完璧だったが、どこかに、何かがあった。
「保科さん」
まなみが、遠慮がちに声をかけてきた。
「その霧島さんって、どんな方だったんですか?」
保科は、目を閉じた。
その日の受講者は十人ほど。ほとんどが新人で、初めての講習に緊張した顔をしていた。
その中に、一人だけ、一番後ろの席に座っている男がいた。
三十代半ば。中肉中背。どこにでもいそうな、印象の薄い顔だった。講習のあいだじゅう、男はうつむいたまま、一度も顔を上げなかった。保科が教室を歩いて回り、その机の横を通ったとき、男の肩がびくりと跳ねた。実技の時間には、鎖の扱いを見せようと保科が近づくと、男はわずかに身を引いた。
講習が終わると、男は誰よりも早く教室を出ていった。
「……一番後ろの席に、いらっしゃいました」
保科は、目を開けた。
「ずっと、うつむいておられた。私が近づくと、身をすくめておられました。そのときは、初めての講習で緊張しているのだと思いました」
「人見知りの方だったんですかね」
まなみが言うと、隣の席でシャルマが端末を叩き始めた。
「保科さん。今、初めての講習、とおっしゃいましたか」
「はい。霧島さんにとって、最初の講習だったはずです」
「霧島達也さんの受講記録です」
シャルマが、画面をこちらに向けた。
「霧島さんは、加入してから一年で、講習を六回受けておられます。熱心な方ですね」
「六回……」
「担当者を見てください」
保科は、画面の一覧に目を走らせた。
保科。大貫。大貫。大貫。大貫。大貫。
「講習は、保科さんと大貫さんの日替わりです。日程は受講者が自由に選べます。霧島さんは、六回のうち五回、大貫さんの日を選んでいます」
シャルマは、一覧の一行目を指さした。
「そして、保科さんの講習を受けた最初の一回のあとは、すべて大貫さんの日です」
シャルマは、淡々と続けた。
「偶然、五回とも大貫さんの日を選ぶ確率は、三パーセントほどです。それに、日程の空き具合を見ると、保科さんの日のほうが都合がよかったはずの月もあります。それでも、霧島さんは大貫さんの日を待って受講している」
まなみが、目を丸くした。
「それって……保科さんを、避けてたってことですか?」
保科は、何も答えなかった。
一番後ろの席。うつむいた顔。近づくたびにすくんだ肩。
「…………」
保科は、返却品の棚に歩み寄った。
霧島達也のビーコンを、袋ごと手に取る。光を失った灰色の石。加入のときに、本人の血を一滴垂らして登録した魔石だ。
「シャルマさん。このビーコンの魔石を、鑑定に出していただけますか」
シャルマが、はっと顔を上げた。
「管理局の鑑定所ですね」
「はい。ちょっと確かめたいことがありまして」
「おい」
低い声が、事務所に響いた。
剛三だった。顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
「何を言い出すんだ、お前は」
「支払いの前に、確認したいことがあります」
「確認だと? 管理局が死亡を認めとるんだぞ。目撃者もおる。ビーコンの記録もある。これ以上、何を確認する必要がある」
「受講記録に、不自然な点があります」
「講習の日の選び方がどうした! お前の講習が気に入らない客なんぞ、いくらでもおるわ!」
剛三は、保科の手からビーコンをひったくろうとした。保科は、それを静かに避けた。
「鑑定には、どれくらいかかる」
剛三が、シャルマを睨んだ。
「急ぎで三日。費用は……」
シャルマが金額を口にすると、剛三の顔がさらに赤くなった。
「冗談じゃない! お前は、あの奥さんの気持ちを考えたことがあるのか! 夫を亡くして、気持ちの整理もつかんというのに、保険会社に疑われて、三日も待たされて……」
「社長」
「わしが払うと言ったんだ!」
剛三は、拳で机を叩いた。湯呑みが跳ね、茶がこぼれた。
「払うと言ったら払う!」
事務所が、しんと静まり返った。
まなみは、凍りついたように動かなかった。シャルマは、端末に指を置いたまま、剛三を見つめていた。
保科は、こぼれた茶が書類に染みていくのを、黙って見ていた。
剛三は、ケチだ。閃光玉一個に八千円と怒鳴り、お菓子代まで削る。支払いを渋り、免責の条項を探し、一円でも安く済ませようとする。
その剛三が、今は、三千万円を払うと言って譲らない。
保科は、ビーコンの袋を、そっと胸ポケットにしまった。
「鑑定の費用は、私の給料から引いていただいて構いません」
剛三が、目を見開いた。
「三日だけ、ください」




