第1回 例外の魔物
討伐連合の騒ぎから一週間が過ぎて、本郷橋ダンジョン生命の電話は、ようやく少しだけ静かになっていた。
まなみは、山のような加入申込書を仕分けながら、窓際の席をちらりと見た。
保科は、いつものように黙々と届け出の確認をしている。あれだけネットで騒がれたのに、本人は何ひとつ変わらない。
「保科さん」
「はい」
「前から聞きたかったんですけど」
まなみは、手を止めて椅子ごと向き直った。
「なんで、魔物を殺さないんですか? 配信、何度見ても、保科さんって一回も魔物を倒してないですよね。あんなに強いのに」
保科は、書類から目を上げた。少しだけ考えるような間があった。
「理由は、いくつかあります」
「いくつも?」
「一つは、討伐を仕事にしている探索者の方々がいるからです。私が魔物を片っ端から倒してしまえば、その方々の食い扶持を奪うことになります」
「ああ、確かに」
「二つ目は、私を利用しようとする探索者を出さないためです」
「利用?」
「私が魔物を倒すと知れば、わざと私の救助区域で魔物を怒らせて、私に始末させようとする人が出てきます。危険な魔物を、労せずに素材にできますから。実際に、昔そういうことがありました」
まなみは、目を丸くした。
「ひどい……」
「三つ目は」
保科は、窓の外に目をやった。
「怯えている魔物を、なぶり殺しにする趣味はありません」
事務所が、少しだけ静かになった。
まなみは、なんとなく胸が温かくなるのを感じた。
「保科さんって、やっぱり優しいんですね」
「いえ」
保科は、首を振った。
「まったく殺さないわけでもありません」
「……え?」
「例えば、セットアッパーという魔物は、見かけたら積極的に始末するようにしています」
「せっと、あっぱー?」
「ダンジョンに罠を作る魔物です」
答えたのは、隣の席のシャルマだった。端末から目を離さないまま、さらりと続ける。
「落とし穴、吊り天井、毒の棘。セットアッパーが一匹棲みついた階層は、探索者の死傷率が平均で三倍に跳ね上がります」
「三倍……。罠を作って、獲物がかかるのを待つんですか?」
「いいえ」
保科が、言葉を継いだ。
「待ちません。かかった獲物を食べるわけでもない。ただ、罠を作り続けるんです。昨日まで安全だった通路の床が、今日は落とし穴になっている。天井から岩が落ちてくる。作っては次の場所へ移り、また作る。それだけです」
「何のために……」
「誰にもわかりません」
保科は、少しだけ声を落とした。
「それに、セットアッパーの罠には、魔物はかからないんです。同じ通路を魔物が何度通っても、罠は動かない。人間が通ったときだけ、作動する」
まなみは、背筋がすっと冷たくなるのを感じた。
「数あるダンジョンの謎の一つです」
シャルマが、静かに付け加えた。
「非常に迷惑で厄介な魔物です。ですから、見つけ次第、始末します」
保科は、事務的に言った。
「死なせなければ、保険金を払わずに済みますので」
まなみは、乾いた笑いを漏らした。いつもの台詞なのに、今日はなぜか少しだけ怖く聞こえた。
「他にも、ドッペルゲンガー」
「ドッペル……ゲンガー?」
「仲間の探索者の姿形を写し取って、油断したところを襲う魔物です。声も、癖も、そっくりに真似ます。パーティで潜っている探索者にとっては、一番厄介な相手の一つです」
「うわあ……。見分ける方法って、ないんですか? 合言葉を決めておくとか」
「無意味です。ドッペルゲンガーは、写し取った相手の記憶まで読み取りますので」
保科は、あっさりと言った。
「現れたら、その場にいる者が自分で対処するしかありません。ですが、たとえ倒せたとしても、それで終わりではない」
「どういうことですか?」
「生き残った仲間のほうがドッペルゲンガーではないかと、互いに疑い始めるんです。そうして疑心暗鬼になって、パーティが崩壊する。ドッペルゲンガーに出くわしたパーティが、そのまま解散するのは珍しくありません」
まなみは、言葉を失った。
「専門の施設で血液検査をすれば、魔物かどうかはわかります。ですが、さすがにダンジョンの中でそれは不可能です」
保科は、ペンを置いた。
「私は単独で潜りますので。私の目の前に私が現れれば、有無を言わさず始末しています。それが、確実に見分けられる唯一の方法ですので」
まなみは、腕に鳥肌が立つのを感じた。
淡々とした口調だった。けれど、その言葉には一切の迷いがなかった。
「……保科さんって」
「はい」
「やっぱり、ちょっと怖いです」
「そうですか」
保科は、何事もなかったかのように書類に目を戻した。
そのとき、事務所の電話が鳴った。
まなみが受話器を取る。第十一層、帰還予定を二時間超過。保科はもう立ち上がっていた。
「行ってきます」
鎖の革帯を手首に巻き、背嚢を担いで、保科はドアの向こうへ消えた。
ドアが再び開いたのは、それから三十分ほど経ったころだった。
「失礼いたします」
入ってきた人を見て、まなみは思わず息を止めた。
美しい人だった。
年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。艶のある黒髪を低い位置でまとめ、濃紺のワンピースに身を包んでいる。透けるように白い肌に、伏し目がちな切れ長の目。細い指には、室内だというのに薄い黒の手袋をはめていた。
その人は、事務所を見回して、小さく頭を下げた。
「保険金の請求に伺いました。夫が、ダンジョンで亡くなりまして」
声は、かすかに震えていた。
「あ、はい! どうぞ、こちらへ……」
まなみが応接の衝立のほうへ案内しようとした、そのときだった。
社長室のドアが、勢いよく開いた。
「これはこれは!」
剛三だった。
まなみは、自分の目を疑った。剛三が、笑っている。それも、見たことのない種類の笑顔で。いつのまにか、ぼさぼさの髪がきれいに撫でつけられ、サスペンダーもまっすぐに直されていた。
「社長の橋爪でございます。どうぞどうぞ、こちらへ。小野寺、お茶だ。いや、わしが淹れる」
「えっ」
「お前は座っとれ」
剛三は、自ら給湯室へ駆け込んでいった。
まなみは、隣の席のシャルマと顔を見合わせた。シャルマは、珍しいものを見るような目で、給湯室のほうを眺めていた。
「……社長が、自分でお茶を淹れてます」
「入社して三年になりますが、初めて見ました」
シャルマが、小声で答えた。
剛三が、普段は来客用にも出さない上等な湯呑みに、上等な茶葉で淹れたお茶を運んできた。シャルマが東京から買ってきた洋菓子まで、皿に盛られている。
その人は、霧島冴子と名乗った。
夫の霧島達也は、一週間前、第十五層で探索中に魔物に襲われた。大きな黒い獣に喉を食い破られ、そのまま闇の奥へ引きずられていった。近くにいた別のパーティが、一部始終を目撃している。遺体は、見つかっていない。
「夫のビーコンには、生命反応が途絶えたという記録が残っていました。目撃してくださった方々の証言もあって、管理局が、夫の死亡を認めてくださいました」
冴子は、管理局の認定書の写しを、震える指先で差し出した。
「主人は、御社の保険に入っておりました。こちらの講習も、何度も受けておりましたので」
冴子は、ハンカチで目元を押さえた。
「申し訳ありません。まだ、気持ちの整理がつかなくて……」
「いえいえ、無理もありません!」
剛三が、身を乗り出した。
「さぞお辛かったでしょう。どうか、お気を落とされませんよう。手続きのことは、何も心配いりません。当社が責任を持って、すぐにお支払いいたしますので!」
まなみは、手にしていた書類を落としそうになった。
すぐに、お支払い。
あの剛三が。閃光玉一個に八千円と怒鳴る、あの剛三が。
シャルマが、そっとまなみの耳元に口を寄せた。
「小野寺さん。今の、録音しておけばよかったですね」
「ですね……」
冴子が、潤んだ瞳で剛三を見上げた。
「本当に、ありがとうございます。社長さんのような方がいてくださって、心強いです」
剛三の顔が、目に見えて赤くなった。
まなみは、天井を仰いだ。
冴子が帰っていったのは、それから一時間後のことだった。剛三は、ビルの階段の下まで見送りに出ていった。
ほどなくして、入れ違いに保科が戻ってきた。
「戻りました。第十一層、二名とも無事です」
「お疲れさまです」
まなみが答えるより早く、階段を駆け上がってくる足音がした。剛三だった。手には、冴子が置いていった請求書類の束を握りしめている。
「保科! いいところに戻った。この件、すぐに手続きに回せ。今日中だ」
「今日中、ですか」
保科が、書類を受け取った。
「ご遺族は、お辛い思いをされているんだ。一日でも早くお支払いするのが、保険会社の務めというものだろうが」
まなみとシャルマは、そろって遠い目をした。
保科は、何も言わずに書類をめくった。死亡認定書の写し。目撃者の証言の記録。ビーコンの記録。請求書。
そして、被保険者の欄で、その手が止まった。
霧島 達也
保科は、その名前を、しばらく黙って見つめていた。
「保科? 何をぼさっとしとる」
「……いえ」
保科は、静かに顔を上げた。
「この方の講習を、一度だけ担当したことがあります」




