第8回 経費と天性
その日、本郷橋ダンジョン生命の電話は、一日じゅう鳴りやまなかった。
「はい、本郷橋ダンジョン生命です。……はい、ご加入のお問い合わせですね。ありがとうございます。……はい、配信をご覧になって。……いえ、担当者の顔写真や連絡先は、お教えできないことになっておりまして……」
まなみは受話器を置き、ひとつ息をついた。置いた瞬間に、また鳴った。
「はい、本郷橋ダンジョン生命です」
隣の席では、シャルマが端末に届く問い合わせのメールを、片っ端から仕分けていた。
「小野寺さん。今日だけで、加入の問い合わせが二百件を超えました」
「二百……」
「去年一年分より多いです」
シャルマは、どこか楽しそうだった。
ルナの配信は、ダンジョンを出たあとも切り抜きが拡散し続けていた。百匹の蝙蝠を、細い鎖の網で横穴へ流す場面。名刺を先に受け取ろうとして手を出すルナ。そして、鎖で地面を叩くたびに魔物が逃げていく、あの延々と続く行列。
映像に映っていない話まで、ネットでは広まっていた。錨のように太くなった鎖で、深層の巨獣を吹き飛ばしたらしい。白髪鬼を、一瞬で丸坊主にしたらしい。行列の中で討伐部隊の隊長たちが話していた声を、配信のマイクが拾っていたのだ。
「らしい」ばかりの話に尾ひれがつき、作業着の保険屋は、すっかり正体不明の伝説になりつつあった。
どの映像にも、保科の顔ははっきり映っていなかった。
映っていたのは、作業着の背中と、名刺を差し出す手元と、「本郷橋ダンジョン生命の保科です」という声だけだ。
その結果、世間の興味は、まっすぐこの会社に向かってきた。
ドアが開いた。
保科が、いつもと変わらない顔で入ってきた。作業着の砂埃も、そのままだった。
「戻りました」
「保科さん!」
まなみは受話器を肩に挟んだまま、思わず立ち上がった。
「配信、見ました! ずっと見てました! すごかったです!」
「そうですか」
保科は、それだけ言って自分の席に着いた。鞄から報告書の用紙を取り出し、さっそく書き始める。
まるで、近所の救助から帰ってきたような顔だった。
「あの、報道陣の前から、どうやって消えたんですか?」
「裏の通用口から出ました。報告書を書かなければなりませんので」
保科は、ペンを走らせながら答えた。
「松尾さんご夫妻の件と、途中で行き合った皆さんの件。どちらも報告が必要です」
「保科さん、それよりですね……」
「シャルマさん」
保科は、まなみの言葉を遮るように顔を上げた。
「松尾さんご夫妻の来年度の保険料の見直しを、お願いできますか。遭難の記録が一件、加わりますので」
「承知しました」
シャルマは、にっこりと頷いた。
社長室のドアが開いたのは、夕方のことだった。
「保科!」
剛三が、経費精算書の束を振りかざしながら出てきた。
まなみは身構えた。いつもの、閃光玉の領収書の件だ。
ところが、剛三の顔は、満面の笑みだった。
「見たぞ、今回の精算書! 閃光玉、ゼロだ! 一個も使っとらん!」
「はい。今回は使いませんでした」
「でかした! こんな日が来るとはな!」
剛三は、精算書を胸に抱きしめるようにして、小躍りした。
「おまけに加入の問い合わせが二百件だと? 小野寺、今日は寿司を取れ! 経費で……いや、わしの奢りだ!」
「えっ、本当ですか!?」
まなみが目を輝かせた、そのときだった。
事務所のドアが、控えめにノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、肩に刀袋を提げた若い女性だった。一ノ瀬灯だ。手には、一通の封筒を持っている。
「あ、灯さん!」
「こんにちは。保科さんに、父からこれを預かってきました」
灯は、保科の机に封筒を置いた。それから、ちらりと保科を見て、頬を染めた。
「配信、見ました。……すごかったです」
「そうですか」
保科は、同じ返事をした。まなみは、灯の肩をそっと叩いてあげたくなった。
保科が、封筒を開けた。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
一ノ瀬鍛刀所。御請求書。品目、鎖・修理一式。
その下に記された金額を見た瞬間、保科の表情が、ほんのわずかに動いた。
剛三が、横から覗き込んだ。
その顔から、笑みが、すうっと消えていった。
「……な」
剛三の口が、ぱくぱくと動いた。
「なんだ、この額は!?」
事務所の窓ガラスが、びりびりと震えた。
まなみも、思わず覗き込んだ。桁を数える。もう一度数える。閃光玉なら、ゆうに百個は買える額だった。
「鎖の修理代です」
保科は、淡々と言った。
「今回、地面を叩きすぎました。あれは鎖にかなりの負担がかかるので、普段は滅多にやらないんです」
「普段は滅多にやらん?」
「はい。ですので、いつもは閃光玉を使っています。そちらのほうが、ずっと安上がりですので」
剛三は、請求書と保科の顔を、交互に見た。
「……じゃあ、なんで今回は閃光玉を使わなかった」
「深層の魔物には、効きませんので」
剛三が、黙った。
長い沈黙のあと、剛三は請求書をひったくり、足音も荒く社長室へ戻っていった。ドアが、乱暴に閉まる。
寿司の話は、どこかへ消えてしまったらしかった。
灯が、おろおろと保科を見た。
「あの、父が、これでもかなりまけたって言ってたんですけど……」
「承知しています。一ノ瀬さんのお父様の仕事は、確かですので」
保科は立ち上がり、報告書を机の上に揃えた。
「すみません。これから第十二層の救助要請の確認に行ってきます。小野寺さん、報告書の提出をお願いできますか」
「えっ、また出るんですか!?」
「帰還予定を、一時間過ぎている方がいますので」
保科は鎖の革帯を手首に巻き直し、灯に軽く会釈して、ドアの向こうへ消えた。
階段を下りていく足音が、すぐに遠ざかる。
事務所に、静けさが戻った。
「……保科さんって」
まなみは、保科の空いた席を見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「なんであんなに強いんですかね」
灯も、シャルマも、黙っていた。
「もしかして、秘密組織の暗殺者だったとか? ほら、配信のコメントでも、それが一番人気で……」
「漫画の見過ぎだ」
社長室のドアが、細く開いていた。
剛三が、請求書を手にしたまま、戸口に立っていた。
「強いやつに、強い理由なんかない」
剛三は、保科の席に目をやった。
「生まれながらに最強ってのがな、世の中にはたまにいるんだよ。あいつは、そういうやつだ」
まなみは、きょとんと剛三を見た。
剛三はそれ以上何も言わず、社長室に戻ろうとした。
その手の中で、何かが光った。
社長印だった。
まなみが見ている前で、剛三は請求書を壁に押し当て、どん、と判を押した。経費承認、の朱色が、紙の上にくっきりと浮かんだ。
ドアが閉まった。
まなみは、しばらくそのドアを見つめていた。
「……社長って」
シャルマが、くすりと笑った。
「実は、一番保科さんのことをわかってますよね」
社長室の中から、くぐもった声が聞こえた。
「うるさい! 経費だ、経費!」
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