第6回 安全地帯のお茶会
安全地帯に足を踏み入れた瞬間、剣崎鉄平は、自分が幻を見ているのだと思った。
結界石の淡い光に照らされた岩場の真ん中に、色褪せた花柄の敷物が広げられていた。その上に、携帯用の小さな焜炉。鉄瓶が、しゅんしゅんと湯気を立てている。
そして、敷物の上に、老夫婦がちょこんと座っていた。
白髪を短く刈った小柄な老人と、銀髪をきれいにまとめた品のいい老婦人。二人とも、使い込まれた探索服を着ている。老婦人は、丸い盆の上で、湯呑みに静かにお茶を注いでいた。
盆の脇には、切り分けた羊羹まで並んでいる。
ここは、下層だ。深層の魔物がうろついている、第二十三層だ。
剣崎の後ろで、行列の誰もが、同じように立ち尽くしていた。
「あら、いらっしゃい」
老婦人が顔を上げ、にっこりと笑った。
「ちょうどお湯が沸いたところですよ」
その隣で、老人が湯呑みを手に、ゆっくりとこちらを振り返った。
皺だらけの顔。鋭い目。
剣崎の膝から、力が抜けた。
「か、会長……!?」
自分の声が裏返るのが、わかった。
鷹宮が、怪訝そうに剣崎を見た。ルナのパーティが、ひそひそと囁き合う。
老人は、湯呑みを口に運んでから、のんびりと言った。
「おう、剣崎。生きとったか」
「な、なんで……なんで会長が、こんなところに……」
「元、だ。とっくに引退しとる」
松尾辰治。
探索者組合の、先代の会長だった。ダンジョンが現れた最初の年から潜り続け、深層の調査隊を率いて何度も生還した伝説の探索者。剣崎が駆け出しの頃、雲の上の存在だった男だ。
今は名誉顧問として、組合の運営からは退いているはずだった。
「保科くんに拾ってもらえたようだな」
松尾は、剣崎の背後に目をやった。行列の先頭で、保科が背嚢を下ろしている。
「お待たせしました、松尾さん、千鶴さん」
「いいえ。来てくださって、ありがとう」
千鶴と呼ばれた老婦人が、保科に湯呑みを差し出した。保科は一礼して受け取り、立ったまま一口飲んだ。
「さあさあ、皆さんもどうぞ。お疲れでしょう」
千鶴が、盆の上を手で示した。
剣崎は、そこに並んだ湯呑みを見た。
多い。
二人分どころではない。十、二十。盆の脇に積まれた紙コップまで含めれば、行列の全員に行き渡るほどの数があった。羊羹も、どう見ても二人で食べきれる量ではない。
剣崎の背中を、冷たいものが流れた。
「……会長」
「なんだ」
「なんで、こんなに湯呑みがあるんですか」
松尾は、羊羹を一切れ口に放り込み、ゆっくりと噛んでから答えた。
「客が来ると思ったからな」
剣崎は、言葉を失った。
松尾は湯呑みを置き、剣崎をまっすぐに見た。その目は、もう笑っていなかった。
「剣崎。わしは、今回の討伐には反対した」
行列のざわめきが、すっと静まった。
「深層の魔物が下層まで上がってきとる。それがどういうことか、執行部の若い連中はわかっとらん。わしは若い頃、深層で何度も死にかけた。あの化け物どもの強さは、身に染みて知っとる」
松尾の声は、静かだった。
「止めた。だが、聞き入れられなんだ。深層の素材が手に入れば、組合の財政が潤う。大手と組めば、名も上がる。そういう話に、執行部は飛びついた」
鷹宮が、居心地悪そうに視線を逸らした。
「お前たち精鋭が全滅すれば、組合はおしまいだ」
「だから、会長は……」
「わしらにできることは、ほとんどなかった。もう年だ。お前たちを助けに行く力はない」
松尾は、保科のほうへ顎をしゃくった。
「だが、あの男なら、ある」
保科は、湯呑みを手にしたまま、黙って立っていた。
「本郷橋ダンジョン生命の加入者が帰還予定を過ぎれば、あの男が必ず来る。わしらは、お前たちが通るはずの道の、その先で待つことにした」
松尾は、ふっと笑った。
「お前たちとうまく出くわしてくれるかどうかは、天に任せた。だが、流石は探索者トップ層。運も強い」
剣崎は、拳を握りしめた。
怒るべきなのか。恥じるべきなのか。礼を言うべきなのか。
自分たちは、元会長の手のひらの上で転がされていた。いや、救われていた。この老人が、この安全地帯でお茶を淹れて待っていなければ、自分は今頃、白髪鬼の髪に絞め殺されていた。
ルナの浮遊カメラが、松尾の顔を大映しにしていた。コメント欄が、黒幕だの策士だのと沸いているのが、端末の光でわかった。
「保科くん」
松尾が、保科に向き直った。
「いつ気づいた?」
「少しおかしいとは、事務所を出る前から思っていました」
保科は、湯呑みを千鶴に返しながら、淡々と答えた。
「松尾さんご夫妻が、帰還予定を過ぎたことは一度もありません。それに、ビーコンは安全地帯から一歩も動いていなかった。動けないのではなく、動かずに待っておられるのだと」
「それで?」
「確信したのは、組合の皆さんにお会いしたときです」
保科は、剣崎たちのほうへ目をやった。
「松尾さんが組合の先代の会長だったことは、ご加入のときに伺っています。その組合の精鋭部隊が、松尾さんの待つ第二十三層へ向かう道の途中で、壊滅しかけていた」
松尾が、目を細めた。
「それでも、来てくれたか」
「加入者の帰還予定超過には、出動する規定ですので」
保科は、背嚢を担ぎ直した。
「それと、今回の件は、遭難の記録として残ります」
「ほう」
「来年からの保険料は、上がると思っておいてください」
安全地帯が、一瞬静まり返った。
それから、松尾が腹を抱えて笑い出した。
「はっはっは! 手厳しいな、保科くん!」
「規定ですので」
「あなた、だから言ったでしょう」
千鶴が、くすくすと笑いながら夫の肩を叩いた。
「保科さんは、そういうところはきっちりしていらっしゃるって」
剣崎は、呆然と三人を見ていた。
伝説の探索者が、零細保険会社の調査員に保険料の値上げを告げられて、大笑いしている。
その隣で、鷹宮が小声でつぶやいた。
「……我々は、救助されたのか。それとも、利用されたのか」
「両方だろ」
剣崎は、ため息をついた。
千鶴が、二人に湯呑みを差し出した。
「難しいことは、あとでいいじゃありませんか。まずはお茶をどうぞ。温まりますよ」
剣崎は、湯呑みを受け取った。
一口すすると、渋みのある熱い茶が、喉から胃へ落ちていった。冷え切った体の芯に、じわりと熱が広がる。
ここに来て初めて、生きている、と思った。
気づけば、行列の誰もが、湯呑みや紙コップを手にしていた。銀色の鎧も、革鎧も、配信者たちも、花柄の敷物の周りに座り込んで、黙ってお茶をすすっている。
下層の真ん中で、二十七人の大きなお茶会になっていた。
保科だけが、座らなかった。
背嚢を担いだまま、安全地帯の出口のほうを見ている。来た道ではなく、地上へと続く、もう一本の坂道を。
「皆さん、十分後に出発します」
保科は、振り返って言った。
「全員で、地上に戻ります」




