第3回 白髪鬼と丸坊主
剣崎鉄平は、腕っぷしだけでここまで来た男だった。
十五で探索者になり、二十年、魔物を狩って食ってきた。組合の精鋭部隊長になったのも、誰より多く狩り、誰より多く生きて帰ってきたからだ。保険屋だの配信者だの、地上で口ばかり達者な連中とは、背負っているものが違う。
その剣崎が今、第二十二層の回廊を、必死に逃げていた。
「走れ! 止まるな!」
背後から、地響きが追ってくる。
最初に出くわしたのは、甲殻に覆われた大百足だった。大鉈で斬りつけても、刃が通らない。手こずっているうちに、横合いから獣とも竜ともつかない何かが現れた。二体を相手にしきれず、剣崎は閃光玉を使わせた。
それが、間違いだった。
光を浴びた魔物たちは、怯むどころか猛り狂った。大百足は甲殻を逆立てて追いすがり、獣のような何かは咆哮を上げた。その声に呼ばれるように、闇の奥から別の魔物まで湧いてきた。
深層の魔物だ。どれもこれも、下層で見ることなど本来ありえない化け物ばかりだった。
閃光玉をもう一つ使い、それでまた別の魔物を怒らせ、気づけば部隊は、下層の奥へ奥へと追い立てられていた。
「隊長、地図にない道です!」
「構うか、走れ!」
どれだけ走ったかわからない。追ってくる地響きが、ようやく遠ざかった。
剣崎は回廊の壁に手をつき、荒い息をついた。部下たちも、次々とその場にへたり込む。誰もが傷だらけで、装備はぼろぼろだった。閃光玉は、もう一つも残っていない。
来た道には、怒らせた魔物たちがうろついている。戻ることは、できない。
「……少し休んだら、安全地帯を探す」
剣崎がそう言ったときだった。
部下の一人が、悲鳴を上げた。
その体が、宙に浮いていた。
白い何かが、足首に巻きついている。髪だった。一本一本が鋼線のように硬い、白い髪の束。
次の瞬間、剣崎の体にも、それが巻きついた。
回廊の奥に、それはいた。
白髪鬼。
人の倍ほどの背丈の、痩せこけた鬼だった。床まで届く白い髪が、まるで生き物のように蠢いている。その髪の束が、何十本もの腕のように伸びて、剣崎たちを次々と捕らえていった。
逃げ回った末に、自分たちは、この鬼の巣に迷い込んでいたのだ。
「くそっ、離せ……!」
剣崎は、どうにか自由になった右腕で大鉈を振るった。髪の束がばっさりと断ち切れる。だが、切り口からすぐに新しい髪が伸び、また体に絡みついてくる。
八人の精鋭が、揃いも揃って白い髪に吊り下げられていた。蜘蛛の巣にかかった虫のように。
白髪鬼が、にたりと笑った。
髪が、締まる。骨が軋むほどに締め上げてくる。
「がっ……!」
息ができない。視界が、端から暗くなっていく。
冗談じゃない。二十年生き延びてきて、こんな下層で、鬼の髪に絞め殺されて終わるのか。
そのとき、回廊の入口のほうから、足音が聞こえた。
一人ではない。大勢の足音だった。
霞む目で、剣崎はそちらを見た。
先頭を歩いてくるのは、くすんだ紺色の作業着の男だった。剣も鉈も持っていない。手首から、二本の鎖を垂らしている。
そして、その後ろに。
銀色の鎧の一団が、ぞろぞろと続いていた。
胸のロゴには、見覚えがあった。大和探索生命。出発式で、さんざん偉そうな口を叩いていた連中だ。その先頭には、あの鷹宮の顔もある。
なぜ、大手の討伐部隊が、作業着の男の後ろを歩いているのか。
剣崎の混乱をよそに、作業着の男は回廊の中ほどで足を止めた。宙吊りの剣崎たちと、蠢く白髪鬼を、静かに見比べる。
そして、右手を軽く振った。
何も見えなかった。
ただ、回廊の灯りが、一瞬だけ細く、銀色にきらめいたような気がした。
次の瞬間、剣崎の体を締め上げていた力が、ふっと消えた。
どさり、と床に落ちる。周りでも、部下たちが次々と床に落ちていく。
咳き込みながら顔を上げた剣崎は、自分の目を疑った。
白い髪が、雪のように舞っていた。
回廊いっぱいに、断ち切られた髪がはらはらと降り注いでいる。床には、膝の高さまで白い髪が積もっていた。
そして、回廊の奥に立つ白髪鬼は。
丸坊主になっていた。
一本の髪も残っていない。つるりとした頭が、灯りを受けて、間抜けなほど光っている。
白髪鬼は、自分の頭におそるおそる手をやった。撫でる。もう一度撫でる。
そして、この世の終わりのような悲鳴を上げた。
両手で頭を抱え、白髪鬼は回廊の奥へと逃げていった。途中で一度だけ振り返り、作業着の男を怯えた目で見ると、あとは一目散に闇の中へ消えた。
回廊が、しんと静まり返った。
剣崎は、作業着の男を見た。男は、何事もなかったかのように鎖を手首に巻き取っている。
その鎖が、ほんのわずかの間、髪の毛よりも細く見えた。
剣崎は、ふらつく足で立ち上がった。大鉈を拾い、男に詰め寄る。
「おい」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「なぜ殺さない?」
男は、剣崎を見返した。
「あんたほどの腕があれば、あの鬼は首を落とせたはずだ。深層の鬼だぞ。逃がせば、また誰かが襲われる」
男は、少しだけ首を傾げた。
「私は保険調査員です。魔物討伐は、私の仕事ではありません」
剣崎は、言葉を失った。
男は鎖を巻き終えると、付け加えた。
「それに、討伐で生計を立てている方々の仕事を、奪うわけにはいきませんので」
剣崎の手から、大鉈が落ちそうになった。
討伐で生計を立てている方々。
それはつまり、自分たちのことだ。
二十年、魔物を狩って食ってきた。組合の精鋭部隊長として、狩りこそが自分たちの仕事だと、誰よりも誇ってきた。その自分たちが、今、鬼の髪に吊るされて、この男に助けられた。
そして、この男は、自分たちの仕事を奪わないために、鬼を殺さなかったのだという。
皮肉なのか。敬意なのか。
男の顔からは、どちらとも読み取れなかった。
「た、隊長……」
部下の一人が、床に積もった白い髪をすくい上げていた。
「これ、白髪鬼の髪ですよ。一本で、魔糸の束が作れるっていう……」
剣崎は、床を見下ろした。
膝まで積もった、白い髪の山。深層の白髪鬼の髪は、最高級の魔糸の原料になる。地上では、一束で家が建つと言われている。
「その髪は、また生えてきます」
男は、さらりと言った。
「鬼が生きていれば、また採れます。どうぞ、お持ち帰りください」
部下たちが、わっと髪の山に飛びついた。剣崎は止めなかった。止める気力が、なかった。
男は作業着の胸ポケットに手を入れ、剣崎に一枚の名刺を差し出した。
「本郷橋ダンジョン生命の保科です。非加入でしたら、ぜひご検討を」
剣崎は、黙ってそれを受け取った。
保科は軽く頭を下げると、背嚢を担ぎ直し、回廊のさらに奥へと歩き出した。
その後ろを、銀色の鎧の一団が、当たり前のような顔でついていく。
すれ違いざま、鷹宮が剣崎の肩を叩いた。気まずそうな、それでいてどこか仲間を見つけたような顔だった。
「君たちも、来るか」
「……あいつは、どこへ行くんだ」
「第二十三層だそうだ。自分の会社の加入者を迎えに行くらしい」
鷹宮は、小さく肩をすくめた。
「我々は、非加入者だそうだよ」
剣崎は、保科の背中を見た。
迷いのない足取りで、闇の奥へと進んでいく。その背中には、魔物を狩って生きてきた自分たちとは、まるで違う何かが乗っているように見えた。
来た道には、怒らせた魔物たちが待っている。閃光玉は、もう一つもない。
剣崎は、髪の山に埋もれている部下たちを振り返った。
「おい、いつまで拾ってる!」
部下たちが、慌てて袋の口を縛る。
剣崎は大鉈を背負い直し、銀色の鎧の列の最後尾に、黙って加わった。




