第2回 名刺と本郷橋ダンジョン生命
灯が声をかけたのは、男が鎖を巻き終えて、立ち上がろうとしたときだった。
「あ、あの!」
思ったより大きな声が出て、灯は自分で驚いた。安全地帯にいたほかの探索者たちが、ちらりとこちらを見る。
男は動きを止め、穏やかに灯を見下ろした。
「はい」
「助けていただいて、ありがとうございました。それで、その……お名前を、うかがってもいいですか」
言いながら、また頬が熱くなる。壁際の美月が、なぜか口元を手で押さえていた。
男は少しだけ考えるような顔をすると、作業着の胸ポケットに手を入れた。
取り出されたのは、一枚の白い紙片だった。両手で丁寧に差し出されたそれを、灯も反射的に両手で受け取る。
名刺だった。
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株式会社本郷橋ダンジョン生命
調査員/救助・講習担当/営業
保科 守
TEL:080-xxxx-xxxx
MAIL:m.hoshina@hongobashi-seimei.co.jp
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「本郷橋ダンジョン生命の保科です」
男――保科は、営業用としか思えない柔らかな笑みを浮かべた。
「非加入でしたら、ぜひご検討を」
「……え?」
灯の口から、間の抜けた声が漏れた。
「当社は探索者専門の死亡保険を取り扱っております。保険料は大手さんより割安です。加入の条件として新人講習の受講と、探索計画の届け出をお願いしておりますが、届け出があれば、帰還予定を過ぎた時点で当社の救助員が捜索に向かいます」
淀みなく続く説明に、灯はただ瞬きを繰り返すしかなかった。
さっきまで岩殻熊と渡り合っていた人と、同じ人間とは思えない。
「あの、今日の救助って……お金、かかるんですか?」
美月がおそるおそる尋ねた。
「いいえ。今回は請求いたしません」
保科はあっさりと首を振った。
「その代わり、と言っては何ですが。お三方とも、こちらをお持ちください」
腰のポーチから、折り目のついたパンフレットが三部出てきた。寝かされたままの篠原が、困惑した顔でそれを受け取る。
「では、私は次の予定がありますので」
保科は軽く頭を下げると、地上へ続く通路のほうへ足早に歩き去っていった。
残された三人は、しばらく誰も口をきかなかった。
「……保険屋さん、だったね」
美月がぽつりと言った。
灯は手の中の名刺に目を落とした。
胸の高鳴りは、まだ少しも収まっていない。それがなんだか、無性に悔しかった。
◇
岩殻熊の一件から、三日が過ぎていた。
本郷橋ダンジョン生命の事務所は、商店街の外れにある古い雑居ビルの二階にある。一階は探索者向けの中古装備屋で、階段には油と鉄の匂いが染みついている。すりガラスのドアに貼られた社名のシールは、角が剥がれかけていた。
「お疲れさまです、保科さん」
ドアを開けると、窓際の机から小野寺まなみが顔を上げた。入社して半年の新人で、机の上には付箋だらけの業務マニュアルが開きっぱなしになっている。
「戻りました」
保科は講習用の教材が詰まった鞄を床に下ろし、自分の椅子に腰を落とした。午前中は新人講習、昼からは届け出の確認、さっきまでは別件の現地調査。昼食はまだ取っていない。
「この前の報告書、読みました。第十四層の」
まなみが身を乗り出してくる。
「加入者さんの捜索の帰りに、非加入のパーティを助けたんですよね。あの、前から聞きたかったんですけど」
「はい」
「なんでうちって、救助までやってるんですか? 保険会社ですよね」
保科はペットボトルの茶を一口飲んでから答えた。
「死亡保険は、加入者が亡くなると保険金を払います。払わずに済む一番の方法は何だと思いますか」
「えっと……加入者さんが、死なないこと?」
「そうです。だから当社は新人講習で死なない潜り方を教えて、探索計画を出してもらって、帰りが遅ければ探しに行きます。死なれると保険金を払わなければならないので」
「身も蓋もない……」
「創業者の方針です」
まなみはマニュアルに何か書き込みながら、首を傾げた。
「でも、この前の人たちは非加入者ですよね。助けても、うちにはお金が入らないんじゃ」
「将来の加入者かもしれません。名刺とパンフレットは渡しました」
「名刺」
まなみの手が止まった。
「……それ、どういう流れで渡したんですか」
「名前を聞かれたので」
「誰にですか」
「パーティの女性です。二十歳くらいの」
まなみの目が、すっと細くなった。
「その人、どんな顔してました?」
「顔ですか。少し赤かったように思います。熱でもあったのかもしれません。ダンジョンの中は冷えるので」
「保科さん」
まなみは心底呆れたように、深いため息をついた。
「それ、絶対脈ありですよ。なんでそこで名刺出すんですか」
「名前を聞かれたら名刺を出すのは、社会人の基本では」
「そういうことじゃなくて!」
まなみが机を叩いたのと同時に、奥の社長室のドアが乱暴に開いた。
「保科ぁ!」
二代目社長の橋爪剛三が、領収書を振りかざしながら出てきた。でっぷりとした腹に、サスペンダーが食い込んでいる。
「なんだこの閃光玉の領収書は。一個八千円だぞ、八千円!」
「岩殻熊の件で使いました」
「非加入のガキどもを助けるのにか! 一銭にもならん仕事に会社の金を使うなと、何度言えば――」
「名刺は渡しました」
「名刺で飯が食えるか!」
剛三は領収書を保科の机に叩きつけると、足音も荒く社長室へ戻っていった。ドアが閉まる音で、窓ガラスがびりびりと震える。
保科は黙って領収書を揃え直した。
手取りは、同年代の大手社員の半分ほど。残業代はつくが、つくだけだ。転職サイトに登録したのは去年の春だったはずだが、それ以来一度もログインしていない。開く暇がない。
辞めたいと思わないわけではない。ただ、本気で考えようとするたびに、次の救助要請が入る。そして戻ってくる頃には、まあいいか、という気分になっている。
「……保科さんって、なんでこの会社にいるんですか」
まなみが小声で聞いた。
「さあ。忙しくて、考える暇がないので」
保科がそう答えたときだった。
すりガラスのドアが、控えめにノックされた。
まなみが「はーい」と立ち上がり、ドアを開ける。
そこに立っていたのは、肩までの髪をひとつに結んだ若い女性だった。肩には、細長い刀袋を提げている。
その手には、一枚の名刺が握られていた。
「あの……保科さん、いらっしゃいますか」
一ノ瀬灯は、緊張に強張った声でそう言った。




