第1回 中層の窮地と鎖の男
本郷橋ダンジョン第十四層は、湿った石の匂いがした。
天井から滴る水が、どこか遠くで規則正しく音を立てている。魔導灯の白い光が届くのはせいぜい十メートル先までで、その向こうは墨を流したような闇だった。
「灯、そろそろ戻ろう」
背後から、盾役の篠原が声を潜めて言った。
「ここ、俺たちの免許じゃギリギリだ。帰りの時間も考えないと」
「あと少しだけ」
一ノ瀬灯は振り返らずに答えた。腰の刀の柄に、自然と手が伸びる。
「この先の分岐まで。そこを確認したら戻るから」
「昨日もそう言ったよね」
後衛の美月が小さくため息をついた。
灯は唇を噛んだ。わかっている。仲間に無理をさせていることは、自分が一番よくわかっている。
それでも、この層に来なければならなかった。
兄の守り刀を持っていたあの配信者は、何度メッセージを送っても答えてくれない。けれど配信を見返すうちに、彼がよくこの第十四層で撮影していることがわかった。
ここにいれば、会えるかもしれない。
分岐の手前で、篠原が足を止めた。
「……おい」
低い唸り声が、闇の奥から響いた。足元の小石が、かたかたと震えている。
現れたのは、岩殻熊だった。
体高は三メートル近い。背中から肩にかけて灰色の甲殻に覆われ、魔導灯の光を鈍く跳ね返している。中層の主とも呼ばれる魔物で、本来なら十人規模のパーティで相手をするものだ。
「下がれ!」
篠原が盾を構えた次の瞬間、丸太のような前脚が振り抜かれた。
鈍い音。篠原の体が盾ごと宙を舞い、岩壁に叩きつけられる。
「篠原くん!」
美月が悲鳴を上げ、杖を掲げた。
迸った火球が甲殻の上で弾け、火の粉だけが虚しく散る。
熊がゆっくりとこちらを向いた。小さな黒い目に、獲物を値踏みする光がある。
灯は刀を抜いた。兄が打ってくれた刀だ。刃が魔導灯を受けて、青白く光る。
震えるな、と自分に言い聞かせる。
踏み込み、甲殻の継ぎ目を狙って斬りつけた。手応えはあった。けれど熊は怯むどころか、怒りの咆哮を上げた。耳の奥がびりびりと痺れる。
振り上げられる前脚。避けきれない――。
灯が目を閉じかけた、そのとき。
ジャラリ、と金属の擦れる音がした。
闇を裂いて、銀色の線が走った。それは熊の前脚に絡みつき、振り下ろされる寸前でその動きを縫い止める。
鎖だった。
「そのまま、動かないでください」
落ち着いた男の声が、闇の向こうから聞こえた。
足音もほとんど立てずに、一人の男が魔導灯の光の中へ歩み出てくる。
年は三十前後だろうか。くすんだ紺色の作業着に、使い込まれた革の装具。剣も杖も持っていない。両の手首に巻いた革帯から、二本の鎖が伸びているだけだった。
熊が鎖を引きちぎろうと暴れる。男の体が引きずられる――と思った。だが男は軽く腰を落としただけで、その場から一歩も動かなかった。
「そちらの方。倒れている彼の容体は」
「え、あ……い、息はしてます!」
美月が上ずった声で答える。
「なら、上出来です」
男はもう一本の鎖を、倒れた篠原へと放った。鎖は意思を持つ蛇のように伸び、篠原の胴に柔らかく巻きつく。男が手首を返すと、篠原の体が床を滑り、熊の間合いの外へと引き寄せられた。
一本で魔物を抑え、もう一本で人を救う。
灯は息をするのも忘れて、その光景を見ていた。
熊が標的を変えた。前脚に鎖を絡ませたまま、男に向かって突進する。
「危ない!」
灯が叫ぶのと同時に、男は鎖をふっと緩めた。拘束が解け、勢いあまった巨体が前のめりになる。その鼻先を、鞭のようにしなった鎖が打ち据えた。
甲高い悲鳴。熊がたたらを踏む。
「岩殻熊は、鼻だけ甲殻がないんです」
男は誰に聞かせるでもなくそう言うと、腰のポーチから小さな球を取り出し、足元に叩きつけた。
閃光が弾けた。
灯は思わず腕で目を庇った。再び目を開けたとき、熊は背を向けて闇の奥へと逃げていくところだった。
地響きが遠ざかり、やがて水の滴る音だけが戻ってくる。
「……倒さないんですか」
灯は、自分の声がひどく掠れていることに気づいた。
男は鎖を手元に巻き取りながら、ほんの少しだけ首を傾げた。
「倒す必要はありません。生きて帰れれば、それで十分です」
そこからの男の動きは、驚くほど手際がよかった。
篠原の傷を確かめて添え木を当て、背負えるように鎖で体を固定する。美月には魔力の残量を尋ね、灯には後方の警戒を頼んだ。指示は短く、迷いがない。
帰り道も男が先導した。熊の縄張りを避け、魔物の気配のない道を選んで進んでいく。地図を見ている様子はなかった。苔の生え方や、かすかな風の流れを読んでいたのだと、灯は後になって気づいた。
第十層の安全地帯にたどり着いたとき、張り詰めていたものが一気に切れて、灯はその場にへたり込んだ。
篠原の呼吸は落ち着いている。美月は壁にもたれて、泣き笑いのような顔をしていた。
生きている。三人とも。
灯はゆっくりと顔を上げた。
男は少し離れたところで、鎖の具合を確かめていた。安全地帯の明かりに照らされて、初めてその顔がはっきりと見える。
目を引くような顔立ちではない。けれど穏やかで、静かで――ついさっきまで魔物と渡り合っていたとは思えないほど、落ち着いた目をしていた。
胸の奥で、何かがとくんと跳ねた。
灯は、自分の頬が熱くなっていくのを、どうすることもできなかった。




