第8回 最後の一センチ
翌朝、保科は美代子を訪ねる前に、もう一度岩城の家へ向かった。
隣には、まなみがいた。出がけに「私も行かせてください」と言ってきたのだ。昨日、何も言えなかったことが、ずっと引っかかっていたらしい。
「保科さん、ビーコンって、そもそも何のためのものなんですか。救助のとき、保科さんがよく頼りにしてますけど」
歩きながら、まなみが尋ねた。
「一番の目的は、救助です。加入者が遭難したとき、ビーコンの位置がわかれば、私たちはすぐに駆けつけられます。もっとも、一ノ瀬さんのときのように、崩落の奥や鉱脈の陰で信号が遮られてしまう場所もあるので、絶対ではありませんが」
「あ、だから加入のときに貸し出してるんですね」
「ええ。それに、ビーコンは持ち主の生死もわかります。加入のときに本人の血を一滴、魔石に垂らして登録すると、持ち主の生命の反応を感じ取るようになる。身につけていなくても、数メートル以内なら」
「生きてるかどうかまで……」
「救助に向かう側にとっては、大事な情報です。生きているなら一刻を争う。そうでないなら、二次遭難を避けて慎重に動く」
保科は、少し間を置いた。
「そして、ビーコンは生命の反応が途絶えた瞬間に、自分がどこにあったかを記録します。本来は、遺体を回収しに行くための記録でした」
「本来は?」
「ダンジョンの中の死は、目撃者がいないことがあります。だから何年か前から、裁判ではこの記録をもとに死亡場所を認定するようになりました。記録がない場合だけ、遺体の位置と証言で判断します」
まなみが、はっとしたように顔を上げた。
「田所さんの場合は、記録がなかったから……」
「岩城さんの証言と、遺体の位置で決まりました」
保科は、岩城の家の錆びたシャッターを見上げた。
「ビーコンが、どこかにあるはずなんです」
戸を開けた岩城は、二人の顔を見て、わずかに目を見開いた。
昨日よりも、さらにやつれて見えた。眠っていないのだろう。
「……警察か」
「その前に、もう一度だけ、地下を見せていただけますか」
岩城は黙って、二人を地下室へ通した。
裸電球をつける。湿った土の匂い。保科は、まっすぐ穴の扉へ向かった。
鉄板の縁に、手をかける。重い。大人の男でも、両手でようやくずらせるほどだ。
保科は、鉄板の端を照らした。
内側の縁に、細い擦り跡がいくつも走っていた。爪を立てて、何度も押したような跡だった。
「岩城さん。手伝っていただけますか」
二人がかりで、鉄板をずらす。穴の黒い口が開いた。
保科はしゃがみ込み、ヘッドランプの光を、穴の縁に沿ってゆっくりと動かした。
地下室のコンクリートが途切れ、土が始まる、その境目。
扉の枠の陰になる、小さな窪み。
そこに、手のひらほどの大きさのものが、ひっそりと置かれていた。
真鍮の枠に収められた、灰色の石。
まなみが、息を呑んだ。
「保科さん、それ……」
保科は手袋をはめ、それをそっと持ち上げた。
ビーコンだった。持ち主が生きている間は淡く光っている魔石が、今は光を失い、ただの石のように灰色にくすんでいる。真鍮の枠に刻まれた登録番号は、田所のものだった。
岩城が、呆然とそれを見つめていた。
「……なんで、そんなところに」
保科は答えず、鞄から会社の読み取り端末を取り出した。ビーコンを端末に重ねる。小さな画面に、記録が浮かび上がった。
記録開始 午前四時四十七分
生命反応途絶 午前四時五十二分
位置 本郷橋ダンジョン第一層 東端・境界より一センチ内側
まなみが、端末の画面を覗き込んだ。
「境界より、一センチ内側……」
「ダンジョンの境界は、管理局の定めで、穴の縁です」
保科は、ビーコンが置かれていた窪みを照らした。コンクリートの端から、ほんのわずかに、土の側に入った場所だった。
「このビーコンは、ダンジョンの中にありました。田所さんの命が尽きた、その瞬間に」
保科は立ち上がり、地下室の床を照らした。
階段の下、薬のシートが落ちていた暗がりから、この扉まで。厚く積もった埃の上に、何かが這ったような跡が、一筋に続いていた。ところどころに、手のひらの形が残っている。
昨日、保科は階段の下ばかりを見ていた。この跡には、気づかなかった。
「岩城さん」
保科は、岩城に向き直った。
「田所さんが倒れたとき、何か、おっしゃっていませんでしたか」
岩城は、ビーコンから目を離せないまま、立ち尽くしていた。
やがて、その唇が震えた。
「……あいつが倒れた時、あいつは」
声が、かすれた。
「俺をダンジョンに連れて行ってくれ、と」
まなみが、口元を押さえた。
「今だったら、その理由がわかる。でも、当時の俺は混乱してて、あいつの救命を優先しちまった。何言ってんだ、それどころじゃないだろって、怒鳴って、胸を押して……」
岩城は、扉のそばの床を見下ろした。
「途中で、AEDを取りに上がったんだ。上の作業場にある。戻ってきたら、あいつが、ここにいた。階段の下にいたはずのあいつが、扉のすぐ横に倒れてて、鉄板が、少しだけずれてた」
岩城の声が、途切れ途切れになった。
「うわごとで、ダンジョンに行こうとしたんだと思った。かわいそうに、意識が朦朧としてるんだって。だから、平らなところまで引っ張って、AEDを当てた。それでも、戻ってこなかった」
岩城は、両手で顔を覆った。
「あいつは、わかってたんだな。自分がもう助からないことも。ビーコンのことも。判例のことも」
保科は、手の中の灰色の石を見つめた。
講習の日の、田所の横顔が浮かんだ。一番前の席で、赤ペンを走らせていた。ビーコンの説明をした日、田所は最後まで残って、細かいことを尋ねてきた。身につけていなくても記録されるのか。反応の届く距離はどれくらいか。死亡場所は、どこまで厳密に決まるのか。
あのとき保科は、ベテランらしい慎重さだと思っていた。
田所は、この朝のことを、どこかで予感していたのかもしれない。
「俺に連れて行ってくれと頼んで、俺が聞かなかったから、あいつは、自分で……」
岩城の声が、嗚咽に変わった。
「俺がやったことは、何だったんだ。あいつを背負って、穴をくぐって、嘘までついて。そんなことしなくても、あいつは、とっくに……」
保科は、ビーコンを小さな袋に収めた。
そして、膝をついて泣き崩れる岩城に、静かに告げた。
「田所さんは、ダンジョンの中で亡くなっていました」




