第7回 番人
保科は、床に額をつけたままの岩城を、しばらく見下ろしていた。
頭上で、裸電球が唸っている。
やがて保科は、手の中の薬のシートを小さな袋に収め、岩城の前に膝をついた。
「顔を上げてください、岩城さん」
岩城は動かなかった。
「田所さんのご家族のご事情には、同情します。岩城さんが、田所さんのために何をしようとしたのかも、わかります」
保科の声は、静かだった。
「ですが、お支払いすることはできません」
岩城の肩が、びくりと揺れた。
「当社の保険金は、本郷橋で毎月掛金を払っている、三千人の探索者のお金です。駆け出しの新人も、家族を養っているベテランも、みんな少しずつ出し合って、誰かの万一に備えている」
保科は、穴の暗がりに目をやった。
「契約の外にある死に一度でも払えば、その仕組みは崩れます。次に、本当に守られるべき人が、守られなくなる」
岩城が、ゆっくりと顔を上げた。
怒りでも、憎しみでもない目だった。ただ、何かが抜け落ちたような顔をしていた。
「……あんたは、田所が言ってた通りの男だな」
「何と言っていましたか」
「融通の利かない、真面目な先生だってよ」
岩城は、小さく笑った。笑いながら、目の端から涙がこぼれた。
「それから、遺体を動かして、虚偽の申告をされたことは、管理局と警察に報告しなければなりません。届け出のない穴のことも、あわせて」
「ああ」
岩城は、目を閉じた。
「わかってる。最初から、わかってたさ」
事務所に戻ったのは、夕方だった。
保科の報告を聞き終えると、剛三は椅子の背にふんぞり返り、満足げに腹を叩いた。
「でかした、保科! 三千万、浮いたな」
保科は、何も言わなかった。
「遺体を動かして偽装か。とんでもない奴だ。警察にもきっちり届けとけよ。二度とこんな真似をする奴が出んようにな」
「明日、ご遺族にお伝えしてから、届け出ます」
「遺族なんぞ、通知の書面一枚で十分だろうが」
「直接、伺います」
剛三は鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わず、上機嫌のまま社長室へ引き上げていった。鼻歌まで聞こえてきた。
まなみが、自分の席で俯いていた。
何か言いたそうに、何度か保科のほうを見たが、結局、口を開かなかった。
シャルマは、保科が机に置いた報告書を手に取り、一枚ずつ目を通していった。読み終えると、静かにそれを戻した。
「妥当な判断だと思います」
「ありがとうございます」
「数字の上では」
シャルマは、それだけ付け加えた。
保科は、彼女を見た。シャルマは画面に目を戻し、もう何も言わなかった。
夜になった。
まなみもシャルマも帰り、事務所には保科ひとりが残っていた。
照明を半分落とした部屋で、保科は報告書の最終稿を仕上げていた。明日、美代子に伝えること。警察と管理局に提出する書類。一つずつ、言葉を選びながら打ち込んでいく。
書き終えて、保科は椅子の背にもたれた。
窓の外で、商店街の明かりが一つ、また一つと消えていく。
田所の顔が浮かんだ。
一番前の席で、赤ペンを握っていた横顔。講習が終わると、いつも最後まで残って、細かいことを質問してきた。新しい罠の見分け方。崩落の前兆。救難の手順。ビーコンの使い方。
保科は、身を起こした。
報告書の束から、管理局の資料を引き抜く。事故報告書。検視の報告。現場の写真。そして、最後の一枚。
遺品の一覧だった。
探索服、上下一式。探索靴。背嚢。ヘッドランプ。採掘用のつるはし。携帯食。水筒。
指で一行ずつ、なぞっていく。
その指が、一番下の行で止まった。
(あるべきものが、ない?)
もう一度、上から見直していく。
やはりない。
ビーコンが。
美代子の声が、耳の奥でよみがえった。
――それから、ビーコンも。何かあったときにすぐ見つけてもらえるようにって、出かける前に必ず確かめていました。
保科は、遺品の一覧を机に置いた。
地下室の情景が、頭の中で組み直されていく。階段の下の薬のシート。岩城がAEDを取りに上がった、わずかな時間。そして、あの穴の入口。
では、ビーコンはどこへ行ったのか。
保科は、仕上げたばかりの報告書の上に、静かに手を置いた。
「これは……再検証が必要ですね」




