第6回 数メートル
しばらく、どちらも口をきかなかった。
裸電球が、かすかに唸っている。穴の奥から吹き上がる風が、足元の埃をわずかに揺らした。
先に口を開いたのは、岩城だった。
「……そんなもん、いつ落としたかわからんだろ」
声は落ち着いていた。けれど、鉄板にかけた手は、まだ止まったままだった。
「あいつは、しょっちゅうここに来てたんだ。前に来たときにでも、落としたんだろうよ」
保科は、手の中のシートを電球の明かりにかざした。
「この階段の下は、埃が厚く積もっています。長靴も缶も、すっかり灰色です」
保科は、シートの表面を示した。
「でも、このシートには、埃がほとんどついていません。落ちてから、まだ日が浅いということです」
岩城は答えなかった。
「それから、田所さんの靴底です。管理局の写真を見ました。第一層の東側を歩けば、靴底は必ず黒苔で汚れます。さっき、私の靴がそうなったように。でも、田所さんの靴は汚れていなかった」
保科は、穴の入口に目をやった。
「穴の入口の土に、岩城さんの足跡が残っていました。あの日以来、誰も通っていないとおっしゃいましたね。奥へ向かう足跡は深く沈み込み、戻ってくる足跡は浅い。何か重いものを運び込んで、手ぶらで戻ってきた跡です」
岩城の目が、わずかに泳いだ。
「……その日は、魔物を討伐する予定だったんだ! 装備が重かった。それだけだ」
「田所さんと岩城さんは、採取と採掘が専門のはずです。あの日の届け出も、第八層での採掘になっています。討伐が目的だったなら、報告義務違反です」
保科は、岩城の目を見た。
「それに、装備なら、帰りも同じ重さのはずです」
岩城が、言葉を失った。
保科は、静かに続けた。
「管理局の検視の報告では、田所さんが亡くなったのは、午前五時前後とされています。岩城さんの通報は、六時十五分でした。穴を抜けて五分の場所で倒れて、すぐに通報したのなら、一時間以上の空白があることになります」
保科は、手の中のシートに目を落とした。
「田所さんは、穴をくぐる前に、この地下室で発作を起こされたんですね」
返事はなかった。
鉄板から、岩城の手が離れた。
大きな体が、ゆっくりと崩れるように、コンクリートの床に膝をついた。
「……支度をしてたんだ」
かすれた声だった。
「いつもみたいに、くだらん話をしながらな。そしたら、あいつが急に、階段の手すりにしがみついて」
岩城は、自分の両手を見下ろした。
「薬を出そうとしてた。震える手で、シートから一粒押し出して、口に入れて……それでも、だめだった。あいつは床に倒れた」
指が、床の埃を掻いた。
「必死で押した。何度も、何度も。上の作業場からAEDも持ってきた。ダンジョンで、何人も蘇生させてきたんだ。今度だって戻ってくると思った」
岩城は、首を振った。
「戻ってこなかった」
保科は、何も言わなかった。
「どれくらい、ここで座り込んでたかわからん。あいつの顔を見ながら、ずっと考えてた。美代子さんのこと。翔太のこと。病院代が払えないって、あいつがこぼしてたこと」
岩城は、穴を見た。
黒い口から、冷たい風が吹き上がってくる。
「それで、思い出したんだ。ダンジョンの中で病気で死んだら、保険金が出るって判決があったのを」
岩城の声が、低く震えた。
「この穴の向こうまで、ほんの数メートルだ。あいつが倒れたのが、穴をくぐったあとだったら、保険金が出る。くぐる前だったから、一円も出ない」
岩城は、顔を上げた。
その目は赤く、けれど、まっすぐに保科を見ていた。
「たった数メートルだぞ。穴のこっちか向こうかで、保険金が出るか出ないか決まる。そんなの、おかしいだろ!」
保科は、その目を受け止めた。
「だから、運んだんだ。あいつを背負って、穴をくぐって、向こうに寝かせた。傷ひとつつけちゃいない。服も、装備も、そのままだ。それから上に戻って、管理局に電話した。美代子さんには、ダンジョンの中で倒れたと伝えた」
岩城は、膝の上で拳を握りしめた。
「あいつは三十年、家族のためにダンジョンで命張ってきたんだ! 最後の最後に、たった数メートルのせいで、家族に何も残してやれないなんて、そんな話があるか!」
地下室に、岩城の荒い息遣いだけが響いた。
やがて、岩城は両手を床につき、深く頭を下げた。
「頼む」
額が、埃の積もったコンクリートに触れた。
「罰金でも何でも受ける。穴を黙ってたことも、嘘をついたことも、全部俺の責任だ。美代子さんも翔太も、何も知らない」
絞り出すような声だった。
「だから、あいつの家族には、払ってやってくれ」




