第5回 階段の下
翌朝、保科は管理局から取り寄せた資料を、事務所の机に広げていた。
事故報告書に添付された、現場の写真だ。
第一層の東の外れ。湿った岩の床に、田所が仰向けに横たわっている。胸元のボタンが外れているのは、心臓マッサージの跡だろう。装備は整っていて、背嚢も傍らに置かれていた。
保科は、写真を一枚ずつめくっていった。
遺体の全身。顔。手。そして、足元。
その一枚で、指が止まった。
田所の探索靴の靴底が、写っていた。
「保科さん、何か見つかりましたか?」
シャルマが、コーヒーを片手に覗き込んできた。
「靴底です」
「靴底?」
「第一層の東側は、床一面に黒苔が生えています。踏むと胞子が潰れて、靴底に黒い粉がこびりつく。あの辺りを五分も歩けば、どんな靴でも真っ黒になります」
保科は写真を指さした。
田所の靴底は、土埃で白っぽく汚れているだけだった。黒い粉は、どこにもついていない。
シャルマが、ゆっくりと瞬きをした。
「穴を抜けて少し歩いたところで倒れた、と岩城さんは言っていたんですよね」
「ええ」
保科は写真を封筒に戻し、立ち上がった。
「もう一度、岩城さんのところへ行ってきます」
岩城は、保科の頼みをあっさりと聞き入れた。
「あの日の道を、歩いてみたいってか。構わんよ」
保科の目をまっすぐに見て、そう言った。隠すことなど何もない、という顔だった。
地下室に下り、岩城が鉄板をずらす。
穴の入口から先は、斜めに下る通路になっていた。天井は十分に高い。その入口の数メートルだけ、岩盤が途切れ、湿った土の床がむき出しになっている。
「少し、お待ちください」
先に進もうとした岩城を、保科は手で制した。
しゃがみ込み、ヘッドランプの光を低く傾けて、土の床を照らす。
真新しい足跡が残っていた。同じ大きさの靴跡が、二列。
一列は、つま先を穴の奥へ向けている。もう一列は、こちらへ戻ってくる向きだ。
奥へ向かう足跡は、土を深くえぐっていた。戻ってくる足跡は、それより明らかに浅い。
「岩城さん。あの日以来、この穴を通った方はいますか」
「いいや」
岩城は首を振った。
「俺も、あれから一度も潜っちゃいない。潜る気になれなくてな」
保科は頷き、足跡を踏まないよう、壁際を選んで穴へと入った。
「ここだ」
岩城が、少し先の岩陰を指さした。
「ここで、あいつが倒れた」
管理局の回収隊がつけた、白い目印のテープが、まだ岩に残っていた。
「岩城さんは、ここで心臓マッサージをされたんですね」
「ああ。必死だった」
「どれくらいの時間ですか」
「さあな。十分か、十五分か。とにかく、ずっとだ」
保科はしゃがみ込み、床を照らした。
黒苔の絨毯は、一面に踏み荒らされていた。回収隊、検視の担当者、管理局の職員。何人もの人間が、ここを出入りしたのだ。遺体がどう横たわっていたのかも、もう苔からは読み取れない。
保科は、しばらく黙ってその跡を見つめていた。
わかるのは、ひとつだけだった。この場所に立った人間の靴底は、誰であれ、例外なく黒く汚れる。
「……保科さん?」
背後で、岩城が声をかけた。
「ありがとうございます。戻りましょう」
保科は立ち上がった。
地下室に戻ると、裸電球の明かりが、やけに眩しく感じられた。
岩城が、鉄板を戻そうとしゃがみ込む。その背中は、昨日よりも少しだけ小さく見えた。
保科は、地下室をもう一度見回した。
壁際の工具棚。積まれた木箱。下りてきた急な階段。
その階段の下に、わだかまる暗がり。
昨日も、そこに目が留まった。何があるのかはわからなかった。ただ、見ておかなければならない気がした。
保科は階段に歩み寄り、しゃがみ込んで、ヘッドランプの光を奥へと差し入れた。
埃をかぶった古い長靴。錆びた缶。丸めた新聞紙。
そして、その陰に、小さな銀色のものが落ちていた。
保科は手袋の指先で、それを拾い上げた。
錠剤のシートだった。
十錠入りの、ありふれた形のもの。そのうち一つだけ、アルミの膜が破られ、中身が押し出されていた。
裏面に印刷された薬の名前を、保科は知っていた。心臓の発作を鎮めるために、舌の下に含む薬だ。
美代子の声が、耳の奥でよみがえった。
――主人も心臓が少し悪かったんです。いつも薬を持ち歩いていました。
そして、昨日の岩城の声も。
――薬を出す間もなかった。
背後で、鉄板を引きずる音が止んだ。
振り返らなくても、わかった。
岩城が、保科の手の中にあるものを、見ていた。




