第52回 劉曄、許都の陰謀を暴く
曹操が魏公となったことに、憤慨していた人物がいた。
朝廷の臣ではない。
献帝の妻である伏皇后である。
伏皇后は献帝に言う。
「陛下、曹操が魏公に昇りました。そして、曹操の家臣で唯一、朝廷を重んじてくれた荀彧殿はもういません・・・。これから、どうなさるおつもりですか?」
「どうするつもり・・・。どうも、出来ないであろう。今や、魏公になった曹操に皆の者は平身低頭、こちらを顧みる者など、誰がおろうか。」
「そう卑下するものではありません。この朝廷にもまだ、陛下のために命を張れる者はまだいるはずです。」
「命を張る・・・。皇后よ、一体何を考えているのだ?」
「私は、この漢王室の復興を強く望んでおります。そのために、やらねばならぬこともわかっているつもりです。」
「皇后よ!一体何をする気なのだ!」
「父と相談をしたいと思っております。」
「伏完に相談・・・。危ういことを考えるのだけはやめてくれ!私は、皇后とこうしてひっそりでも、暮らしていければそれで満足なのだ・・・。」
「しかし、今の暮らしでさえ、いつまでも続く保証はどこにもありません。魏公に昇ったら、次は魏王。そして・・・。」
「・・・。皇后よ、言いたいことはわかる。しかし、今の曹操を敵に回すなど、誰が出来ようか。朕は多くを望まん。そうであれば、曹操も命までは取らないであろう。」
「それで・・・。それで、よろしいのですか?」
「ああ。朕の考えは変わらない。頼む、本当に頼むから、危ないことだけはしないでくれ・・・。」
「・・・。わかりました。」
伏皇后は、引き下がった。
しかし、心の奥底の炎は決して、消えてはいない。
皇后の心の炎、それは「曹操暗殺」である。
皇后は献帝に気付かれないように、父の伏完を呼び出した。
伏完は、自分の娘である伏皇后に、漢室第一の教育を幼少期から施してきた。そして、伏完自体も、その思いは変わらず持ち続けている。伏皇后が言う。
「父上。曹操が魏公になり、いずれは陛下の帝位を簒奪するのは目に見えています。曹操が更なる力をつける前に、何とかできませんか?」
「何とかする・・・。それは、曹操を殺す、ということか。」
「・・・。はい。」
「何を考えている!陛下は知っているのか?」
「陛下は、頼むから危ないことはやめてくれ、とおっしゃいました。」
「そうであろう。魏公になった曹操にたてつく者など、もう、この朝廷にはおるまいよ・・・。」
「そうでしょうか?本当にこの朝廷には義士の一人もいないのでしょうか?」
「・・・。皇后よ。軽率に動いてはならん。もし、皇后が軽率な動きをすれば、それを餌に、それこそ、曹操の好き勝手にされてしまうであろう。」
「皆、曹操、曹操と恐れますが、曹操も人間、まさか鬼神ではありますまい。」
「・・・。そうとも言えぬ。鬼神の如き、人を超越した能力を持っている、それが曹操だ・・・。」
「私には信じられません。父上、わかりました。陛下に心配をかけるわけにもいきません。危ない橋は渡らない様に致します。」
「そうか・・・。それが、一番だ。」
伏完は、自邸に戻った。
そして、伏皇后は、最も信頼できる女官を呼び出して、言った。
「これから話すことは、私とあなた、二人だけの秘密です。この約束を、守って頂けますか?」
「もちろんです。私は、身も心も皇后さまに捧げております。お約束致します。」
「ありがとう・・・。ここに五通の書状があります。決して中を見てはなりません。これを、宛名の者たちに届けて欲しいのです。可能な限り、早く。」
女官は、書状を受け取って言う。
「わかりました。本日中に、お渡しするように致します。」
「お願いします。この書状には、漢王室の命運がかかっています。決して、抜かりの無いように・・・。」
女官は拝礼して、素早く去って行った。
伏皇后が女官に渡した書状、それは曹操暗殺を依頼する密書であった。伏皇后から見て、朝廷のために命を懸けてくれそうな五人を選び、書いたものである。
しかし、この五通は、一通たりとも本人たちに届くことは無かった。
この女官が密書を渡した相手は誰か。
劉曄であった。
劉曄は、魏公就任直後の曹操から、早速密命を受けていた。
「許都にて、朝廷の内偵をせよ。何もなければそれでよし、もし、何かあれば速やかに報告。場合によっては、お前の一存でことを決しても構わん。」
「わかりました。それでは、早速、許都に参ります。朝廷には参内せずに、私が許都にいることは伏せたうえで、動きます。」
曹操は大きく頷いた。
そして、劉曄が最初に動いたのが、献帝や伏皇后の側近といえる者たちとの接触、買収であった。伏皇后より密書を託された女官も、その一人であったのである。
劉曄は目立たぬよう、安宿を居に定めていた。
そこに、先ほどの女官が密書を持ってきたのである。
劉曄は書状の中身を改めた。
まさしく、曹操暗殺を依頼する密書であった。劉曄が言う。
「よくやった・・・。このことはもちろん、誰にも話してはいないであろうな?」
「はい。すぐにここに持ってきましたので。」
「そうか。しばらく時間をおいてから、伏皇后に密書は全てお渡ししました、と伝えるのだ。」
「かしこまりました。その後は?」
「普通の顔をして、今まで通りに働くのだ。」
「はい。それでは戻ります。」
劉曄はこれを、自分で処理を決めていい案件ではないと判断し、曹操に早馬の使者をだした。使者に言う。
「いいか、とにかく急げ。一刻も早く、曹操様に私からの書状と、この密書五通を渡すのだ。ぬかるなよ。」
劉曄に言われた通り、使者は急ぎに急ぎ、馬を代えながらひた走った。そして、一日半という速さで鄴に
たどり着いた。
曹操は劉曄からの使者ということで、誰もいない自分の居室に入れた。そして、書状を確認した。
曹操は烈火のごとく激怒して、劉曄からの書状を破り捨てて、そして自ら筆を執って、その場で書状を作った。そして言う。
「この書状を急ぎ、劉曄に渡すように!遅れることは、許さぬぞ!」
使者は平身低頭、与えられた替え馬に乗り、体の限界を超えんばかりに急ぎに急ぎ、劉曄の下にたどり着いた。そして、曹操からの書状を手渡した。劉曄は使者を労い、報酬というには幾分多い金子を渡した。
そして、曹操の書状を確認する。その内容は凄まじいものであった。
「兵を動かすことを許可する。伏皇后並び一族、そして密書の宛名になっていた者及びその一族、全て捕らえて誅殺せよ。」
劉曄はすぐに動いた。
まず、伏完をはじめとした一族の邸宅を取り囲み、一族全てを捕らえた。同様に、密書の宛名になっていた者たちの邸宅も取り囲み、全てを捕らえたのである。
そして、献帝の所にまで乗り込んだ。劉曄が献帝に言う。
「陛下。今すぐ、伏皇后の身柄をお渡しください。伏皇后は、重大な、取り返しのつかない罪を犯しました。」
「劉曄よ。そなたは、荀彧の薫陶を受けていたはず。それが何だ、この騒ぎは。」
「昔話をするつもりはございません。即刻、伏皇后をこちらに引き渡してください。」
「皇后が、何をしたというのだ!」
「陛下は本当にご存知ないようですね・・・。魏公曹操の暗殺を、伏皇后は画策したのです。これが、証拠の密書です。」
劉曄は、密書を見せた。
献帝は膝が奮えて、そのまましゃがみこみ、涙を流した。
「皇后よ・・・。何故、この様な事を・・・。」
すると、献帝の後ろから伏皇后自らが現れた。そして言う。
「劉曄よ。お前は、荀彧殿とは違うのですね。曹操の犬になり果ててしまったのか!」
「何とでもおっしゃってください。伏皇后、こちらにご同行を願います。」
「わかりました・・・。ただ一つ。この件は、陛下は全くご存知ないこと、ということだけは言わせてください。」
「・・・。承知しました。さあ、こちらへ。」
劉曄は、伏皇后、伏一族、そして密書の宛名になっていた者たちとその一族、全てを公開処刑という形で処断した。
皆、泣き叫んだが、さすがは伏皇后とその父である伏完は、余計な言葉も発せず、狂態を晒すことなく、処断された。
そして、あの女官も秘密を知る者として、劉曄は処断したのである。
こうして、劉曄は曹操の言う通り、皇后を処断するという普通ではない仕事を淡々とこなした。
これ以降、献帝をはじめ、朝廷の者たちは曹操以上に、劉曄の事を恐れることになったのである。そして、曹操の劉曄の評価は、ますます高いものとなった。




